第六章 八度目
目覚めると、ディーが目の前にいた。
驚いて花の中から転げ落ちると、ディーは笑って腕を掴むと、身体を引き上げてくれる。
――暖かい。
――近い。
当たり前のことに驚いてしまった。
ディーの身体が温かいことも、背が自分より大きいことも。
「えぇっと、ありがと」
どもりながら見上げると、優しい視線に捕らわれる。
顔が熱いし、喉は詰まっているみたいに声が出ない。
胸の鼓動を自分で感じてしまう。
恥ずかしくて下を向くと、ディーは頭をなでてその場に座った。
足場は、ディーの葉と自分の蔦が良い具合に交差していて、気を抜いても身体の一部がどこかに接するようになっている。
「フゥも座って?」
言われるままに腰を下ろすと、ディーは両手を握って微笑む。
「改めて……僕はディー。よろしく」
握られた手が、熱くて恥ずかしい。
目線を合わせた近い顔が、恥ずかしい。
「ふ、フゥです……よろしくね」
グラグラと茹りそうな頭で答えると、ディーが小さな声で「よろしくね」と囁いた。
心臓の音がうるさい。
いままで、こんなにおかしくなったことはなかったのに。
「身体、壊れたかも」
繋いでいた手をはなして、その場に突っ伏す。
だって、記憶を思い出してもこんな変な状態にはならない。
ディーは、余裕があるようにそのまま笑っている。
それが、始まりだった。
慣れるのは早いもので、しばらく経つとフゥは少しずつ自然にディーと話せるようになっていた。
心臓がうるさいのは治まりそうになかったが、相手が指摘してこないので恥ずかしいことではないのかもしれない。フゥは赤紫の髪を風に躍らせるディーを見て、端正な横顔に見惚れていた。
赤紫の花穂が風に揺れる。
ディーが管理する赤紫の花のひとつひとつは小さくて可憐だが、それが連なり房のようになるとあでやかで美しい。きっと本人の美しさが花に現れているのだとフゥは思った。
「ディーの花は綺麗だね。こんなに囲まれていると、今までの世界と違うような気になってくる」
うっとりとしながら呟くと、ディーは「そうかな」と笑う。
「そうだよ、ディーの花は綺麗だもの!」
「……僕はフゥの花の方が綺麗で可愛いと思うけど」
フゥの言葉に恥ずかしげもなくサラリと返すと、ディーはフゥの管理する白い花を見つめて笑う。その笑顔に見惚れたフゥは、恥ずかしい言葉と笑顔にクラクラして何もいえなくなった。
「白と赤紫の花が一緒に咲いているのは、いつ見ても綺麗だ。フゥもそう思わない?」
「う、うん」
どもりながらもうなずいて周囲を見まわす。
赤紫の花穂の向こうに白い花が見えて、さらに向こうに青い空が広がっている。ディーの植物は他の植物より背が高いので、茎の近くにいると空以外の風景は目に入らないのだ。
――だけど、ディーの植物は苦しくないのかな。あんなに巻きつかれて。
光景はとても綺麗だけど、とフゥは少しだけ不安になる。
自分の管理している植物は貪欲で、蔦を伸ばせるだけ伸ばして相手の植物に巻きついていた。今まで自分の管理している植物の状態を見たことがなかったフゥは最初この状況を認識した時に申し訳なくて泣きそうになったほどだ。なにしろほとんどの枝に巻きついているのだ。無遠慮にも程がある。
「あの、ディーごめんなさい。蔦が……」
「別に気にしないでいいよ、フゥのせいじゃないし」
謝るフゥの腰に手をまわしてディーは笑うと「何度も同じことで謝るもんじゃないよ」と抱きついて、そのまま腰を下ろす。
「う、うえぇぇ?」
突然の行動に、フゥは奇声を上げることしかできなかった。
「それに、ほら、フゥだって抱きかかえても軽いんだから大丈夫だよ」
何もかも子供のようなフゥの耳元にディーは囁くと、抱きしめたままの小さな身体に顎をのせた。
――そんなものなのかなぁ。
腰を下ろした枝にも蔦は無遠慮に巻きついている。
触れ合うことに慣れていない花迎えは、ドキドキとして働かない頭のまま考える。
近頃、落ちついて何かを考えるということができなくなっていた。
幸せだと思うことはたくさんあって、以前より世界が綺麗に見えることも不思議だったし、話をすることはこんなに楽しいことなのだと改めて気付かされたのも驚きだった。
一番の驚きは、それらがディーと暮らしているからだと気付いた時だ。
幸せを感じる時生じる不安が、それ以外のことを考えさせなくなっている。
――怖い。
知らなければ怖くなることもなかったのに、とフゥは思う。
こんなに幸せでも、十度目には記憶は消える。なくなってしまうのだ。
そうしたら、また一から探さなければならないのだろうか。
ディーはまた、私を忘れたふりをするのだろうか。
そもそも、どうしてディーは忘れたふりをしていたのだろう。
働かない思考は答を出さず、不安に身を縮こませる。
「フゥ、どうしたの?」
「えぇっと……なんでもない」
抱きしめられたまま問われて、弱々しく返す。
耳に囁かれる声は甘くて幸せで、いま以外のことを考える力を奪う。
理由は、今も怖くて聞けずにいた。
聞かなければ教えられることはないと分かっていたが、聞いてはいけない気がしたのだ。
なぜか今回シシィの花を見つけることができなかった。
ディーに聞くと「あの花はもっと温かい時期に咲く花だからね」という答が返ってきて、切なさに泣きそうになる。
シシィはどうして自分といたのだろう。
どうして季節を変えてまで、自分の傍にいてくれたのだろう。
前回、私がシシィのそばをはなれて、ディーのところに行くと知っていたのだろうか。
それなら、どんな気持ちで私を見ていたのだろう。
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。
何度も言葉にならない思いが胸の中で叫び続ける。
だが、心の奥底では、それさえ二の次だと考えている自分に気付いてもいた。
薄情、冷酷、非情。
自分自身を責める言葉が、更に自分を打ちのめした。
何も言わない辛そうなフゥを、ディーはただ抱きしめつづける。
泣きそうになるのは、自分が幸せだからだということは分かっていた。
驚くほど時が流れるのは早かった。
いつの間にか身体を寄せているのが普通になり、フゥはディーの腕の中でまどろむことが多かった。
時々、遠い昔の記憶を思い出す。
ぼんやりとする記憶の中、過去の自分が「会いたいけど会えない」と泣いていた。
何に? という問いに答えはない。
なにか大切なことを忘れている気がする。
だが種の時期をむかえても、答が出ることはなかった。
「ディー、何か元気ない?」
自分を見つめる花迎えの顔を撫でながらフゥは問う。
最近気付いたことだか、日を追うごとにディーの元気がなくなっていくような気がしていた。
「別に? 元気だよ」
「そうかな…大丈夫? 私の蔦が重くて根が抜けそうとかなのかな。見てこようか?」
花迎えが死んでも、違う種が次に芽を出せばまた目覚めることはできる。ディーの植物は自分の植物とは違い繁殖力がよく、今いる場所の外にも二、三本花を咲かせている。だから放っておいても次に目覚めることはできるのだ。
だからといって、フゥはディーの死ぬところなんて見たくはなかった。
「一緒にいることに慣れただけだよ。フゥもやっと落ちついてきただろう?それと同じ」
抱きしめる手に力がこもり、フゥは目を閉じる。
今の幸せがなくなることだけが、酷く怖かった。
「本当に?」
「……本当だよ」
――本当なのだろうか。
不安に思うが、これ以上しつこく聞くことなんて、できるはずもなく。
逃げないように、と思っているかのような力に胸が締めつけられる。
フゥは、答えるように腕を握りかえした。