第三章 五度目
五度目の目覚め。
以前の記憶はもうほとんど思い出せない。
バラバラの記憶は、つながらないまま頭の中にある。
そのひとつひとつが大切な宝物。
以前思い出したものでは、理由は分からないが自分が泣きながら謝まっている、という記憶があった。あの人は、悲しげな瞳で私の頭を撫でてくれていて、どうしてだろう、その記憶を思い出すたび堪え切れないほど辛いのに、今の自分には羨ましいほど幸せな記憶だった。
突然、暗い空から大粒の雨が降りはじめた。
バタバタと音を立てる雨は、直撃すると眩暈がするほど痛い。
シシィがなにかを叫びながら自分が管理してる植物の葉の下に隠れると、花の色とおなじ黄色の髪を揺らしながら慌てた声で叫んだ。
「フゥ、死ぬのが嫌ならあんたも隠れなさい!」
落ちた瞬間、葉が大きく揺れるほどの水滴。
跳ね返る音は、耳にうるさいくらいだった。
「シシィ、こんな大きいのはじめて見たよ!なんか楽しいね」
「あんたは何度生まれ変わっても馬鹿なのね。ほら早く、フゥのやつには葉っぱがないんだから、寄りかかってるやつの葉っぱの下に隠れな。死んでもいいけど目の前で死なれたら迷惑!」
空を見ながら笑うフゥに、シシィは手で追い払うような仕草で叫ぶ。
ゴロゴロと空はうなり声をあげて、雨は落ちる勢いを増した。
管理している植物に葉がないフゥは、しかたがないので蔦が寄りかかっている植物の葉の下に隠れる。フゥが管理している蔓草の植物は、自分で立つことができないらしく、いつも近くの植物に寄りかかっていた。
迷惑をかけるのを何とも思っていないかのように覆いかぶさる自分の植物に、正直フゥは嫌気がさしていたが、こんな時は助かるな……と葉の影に隠れながら考えていた。
強く、強く落ちる水滴は、小さな花迎えを振り落とすかのように葉を揺らす。
シシィは葉の付け根にしがみついていたが、フゥはケタケタと笑っていた。
「頭でも狂ったのかしら」
シシィの呟きは、雨音にかき消された。
激しい雨が続くことはなく、やがてシトシトという雨音に変わった。
それでも小さな花迎えには大きな水滴なのだが、フゥは気にせず葉の下から抜け出ると、全身で雨をうける。
「よくやるわねぇ」
「だって、水が降ってくるんだよ? 楽しいよ。シシィもやればいいのに」
葉の下で横になるシシィに向かって、フゥは髪から雨を滴らせながら笑った。
「……そう、良かったわね」
つられたように、シシィは少しだけ笑う。
一瞬だけ微笑んだ顔は、すぐに真顔に戻った。
近頃のシシィは、嫌味をいうことが少ない。
小馬鹿にするように笑うことも少なく、いつも何かを考えているようだった。
――何かおかしい。
毒づかないのがオカシイというわけではない。
深く考えこんでいる時のシシィはいつも静かだった。
悩んでいる理由は知らない。聞くことも失礼な気がして、フゥはいつも気付かないふりをしていた。
けれど、今回は違う。
先ほどこちらを見て微笑んだ瞳はとても寂しげで、自分を通り過ぎてどこか違うところをみているように思えた。
「シシィ? どうしたの?」
耐え切れずに問う。
シシィは一瞬驚いた顔をして、それから顔を背けた。
考えるように自分の黄色の髪の毛をぐしゃりと掴む手。
ため息をついてシシィは再びフゥを見ると、髪の毛を掴んだ手を解いて呟いた。
「ねぇフゥ、なんであんた、あいつに会いたいの?」
「……え」
それは思ってもみない言葉だった。
シシィにはあの人との思い出も大切な約束のことも話してある。それ以上に何を聞こうというのだろう。
「相手はあんたのことを嫌いかも知れないのよ。会わないほうが幸せだってこともあるじゃない」
「でも」
本当のことを知るのは怖いことは、知っている。
何度も同じ話をして、何度も考えてきたことだ。
それでも諦められない。
身勝手でも、自己満足でも、会って話がしてみたかった。
その思いをシシィは知っている。
それなのに。
「探しにも来ない、努力もしない……そんなヤツに会って何が楽しいの。知らなければ幸せだって事もあるのよ!」
「いい!」
シシィの言葉を遮るようにフゥが叫ぶ。
自分でも馬鹿だと思うこともある。けれど、色々考えて決めたことだ。
わかりきったことを並べられても、今更止められるはずがない。
正論であっても、自分の思いを否定されたくなかった。
「理由なんてないよ、私が会いたい……だからいいんだ。それに本人から嫌いっていわれてないもの……だから」
「あんた馬鹿だから教えてあげるけど」
フゥの言葉をさえぎるように今度はシシィが口を開く。
シシィがフゥの言葉を遮ることは、初めてのことだった。
――聞きたくないし、知りたくもない。
言いたくても、真剣なシシィの顔を見れば口に出すことはできない。
口は悪くてもシシィは自分を守るための嘘はつかない……それだけは確かだった。
「な、に?」
身構えて返すと、シシィはフゥから視線をはずして、遠くにある赤紫の花穂が揺れる草を見つめる。それは大切な花迎えがいる植物だった。
「今まで、あんたが起きるたびに、あの花迎えが目覚めてるか確認してるでしょう? で、今まで毎回目覚めてないって言ってるけど、あいつ、あんたが目覚める前から起きてるわよ」
「……え?」
呆けた返事を返す。
言っている意味がわからなかった。
確かに、あの人が目覚めた瞬間を自分は見ていない。
けれど隠れるなんて、なんの意味があるというのだろうか。
「だ、だって……探したけど花迎えみたいな姿は見つからなかったよ? 遠いけど花が咲いてるのかもわからなかったけど、でも……いなかったよ?」
声が震えている、とフゥは自分でも分かった。
すぐに泣きそうになる自分が嫌で下を向く。
シシィは遠くの花穂から目を離さなかった。
「あんたが目覚める前に隠れるのよ。どうしてかは知らないけどね。あいつの花は咲く前も咲いた後も同じような色をしてるし、花穂だから分かりにくいのもあるけど、毎回だと呆れるのを通り越して気の毒だから教えてあげるわ」
蔑むようなシシィの声。
足から力が抜けていく。
フゥはペタリとその場に座り込むと、うなだれたまま返事もできなかった。
「まぁ信じるも信じないも勝手だけど、今回はまだ目覚めてないから本当の目覚めが見れるわよ。多分それで私が言ってることが嘘じゃないって分かるでしょう。私にはどうでもいいことだけど」
シシィはその言葉を最後に、何も話さなくなった。
雨の音が、やけに鮮明に聴こえる。
静かな雨が止んだころ、フゥはシシィの言葉が正しいことを知った。
雨がやみ抜けるような青空が顔を出す頃、太陽を待っていたかのようにあの人が目覚めたのだ。
反応が怖くて、フゥは葉の影からずっとその様子を見ていた。
目覚めた花迎えは、ゆっくりと周囲を見回すと一瞬だけこちらを見てすぐに花穂のうしろに消える。自分の状況を確認しているふりをしているが、こちらの位置を確認しているだろうことは、すぐに見てとれた。
けれどフゥは今まで見たことがない光景を見られたことに驚いていた。
――私のことを、覚えている?
どうしようもなく嬉しかった。
一瞬だけでも、多分あの人はこちらを見た。
自分が思いこんでいるだけで勘違いかもしれない。覚えているのに忘れたふりをしている理由を考えると、酷く落ち込んだ。
それでも忘れられるより覚えていてくれたほうが、フゥにとっては幸せだった。
生まれ変わる種を決めて願えば、その種について生まれ変わることができる。だから今まで大好きな人に会うためにフゥは少しでも近づくよう、願いをこめて種を投げてきた。
嫌われている可能性が高いのに行く意味などあるのだろうか。
自分の想いを相手に押し付けるのは迷惑以外の何者でもないだろうと自分でも思う。
だが、想いが変わることはない。
シシィの花が種になり、花迎えの役割を終えた。
太陽の陽を浴びながら、黄色の髪が透明になって消えていく。
「それでもフゥは、会いに行くのね」
消えていく中、穏やかに呟く声。
「ごめんね」
泣きそうな顔で返すと、シシィは穏やかに微笑んだまま消えた。