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ドリイ  作者: 猫文字隼人
最終章
14/15

14

 ナタクと別れ、俺はナタと再会する為に更なる地下へと降りていく。最後の扉を開くと猛烈な甘い香りを纏う湿った空気が吹き出した。意を決して俺は前を見た。そこにはただ、血と肉があった。

 異常なほど天井が高く設計されたその部屋はまるでホールのようであった。視界に入る範囲は手当たり次第に肥大化した肉で装飾され、内部から部屋を食い尽くさんとしているかのようだった。

 そしてその中央に隆起した巨大な塊が目に入る。目測で五メートルほどはあるだろうか、黄色い脂肪と網目状に走る血管で彩られたその肉塊の頂点に、ようやくこの部屋の主の名残を見つけることが出来た。

 その頂上部分に人の上半身らしきものが、生えている。恐らくは両腕を背後の巨大な十字架に張り付けにされていたのだろう。向かって右腕は関節から裂け、既にちぎれ落ちている。もう片方も自重により徐々に肉が裂け始めているらしく打ち付けられた杭によって骨が縫い止められているだけに見えた。

 その背後には幾重にも折り重なる管。赤黒い血液を強制的に循環させ、腐敗を防ぐ『生命強制維持装置』。諸田に使われていた物と同じだろう。ナタの上半身から何十と伸びた大小様々な太さの管は天井へとつながり、それは一見すると、まるで教会のパイプオルガンにも似ていた。

 だがそこに神々しさや荘厳さは存在せず、ただ赤い肉と管だけが縦横無尽に部屋を蹂躙している。室内は腐り落ちる寸前の肉が放つ濃厚な甘い香りで満たされており、入った物全てを蝕むかのようだった。それはさながら食虫植物の甘い蜜のように。

 先ほどの隠し部屋で拷問を受け赤い翼を広げた異形の天使のようになっていた諸田とは違い、ナタはその体積を肥大化させ部屋一杯にその身体を行き渡らせている。

 俺はただ感情を殺し、目的を果たす為だけにその中央の肉へと近づいていく。床にまで広がった肉を避けて歩くことは出来ず、やむなく踏みしめることになった。だがそれに併せて苦悶の声が部屋のあちこちから聞こえてくる。既に失った発声器官を機械で補い、その苦痛を抽出し、諸田を喜ばせる為の機構なのであろう。そして俺は漸く先ほど諸田の身体のあちこちに付着していた肌色のこぶの正体を理解した。あれは、豚の肉だった。

 諸田はナタの肉をそぎ取りながら拷問し、生体接着剤を塗布した豚の肉で止血した。そうして修復しながら永遠の苦痛を与えようとしたのだろう。諸田によって無節操な増改築を繰り返されて豚の肉を継ぎ足され続けたナタは半年を経てこのような異形へと変貌させられてしまった。

 ナタの下半身は完全に肉の塊と同化し、どこから区切れば良いのか解らないほどに長大なものになっている。視界に入る全てがナタだった。細長く幾重にも枝分かれし、部屋の隅々にまで広がった肉は、所々に肥大化した虫こぶのようなものを形成している。周囲の拷問器具や管を取り込んで脈動する姿はまるでそれ自体が巨大な心臓のようにも見えた。

 漸くうなだれたナタの下半身に至る肉塊の側にたどり着いた。見上げると既に肺での呼吸は行われていないらしく微動だにしない。既にナタを生かしているのは臓器では無く体中に突き刺さっているこの管、生命強制維持装置と呼んでいた装置なのだ。諸田の狂気によって生み出されたこの装置によって血液が送り出される音が部屋中にごぐん、ごぐんと響いている。俺は自らの折れた指を握りしめて、痛みで正気を取り戻す。

「遅くなって、すまなかった」

 ナタへそう告げた。けれど当然何の返事も無い。ナタクが言ったように数々の拷問によりナタはその感覚器官の殆どを物理的に破壊され、その精神と理性すら失っている。

 自我の無い、けれど命を宿した肉。苦痛だけを延々と感じているだけの存在。それが今のナタだった。


 愛される為に生み出され、、俺と再会することを夢見ていたはずの少年。彼はここで、諸田の黒い怨念に焼かれ続ける事になった。半年もの間、死ぬことすら許されずただひたすらに。

 ナタは恐らくは俺を恨んでいるだろう。愛される為に作られたと騙されて、連れてこられてからは死ぬことすら許されず、絶望の日々が待っていた。再会を約束したにもかかわらず一度も会いに来ず、そのまま忘れ去られたと思っているのだろう。どこからどこまでが本当か、それとも全部が嘘だったのかと疑い始め、最終的には何も信用出来なくなり、俺を恨み続けたはずだ。そうしながらも自分の知らない罪を強制的に精算させられる日々。

 産まれてこなければ良かったと、俺がナタだったならばそう思ったはずだ。

「知らなかったんだ……」

 涙が溢れてきた。ナタがここで感じたであろう感情を幾通りにも想像した。けれどそれは全て黒い怨念に行き着く。だがそれでも俺はここに来た。それは何の為に。

 巨大な肉の塊を目の前にして、その肉壁に手をかける。ナタの身体に少しでも近づきたくて。ぎいいいと苦悶の悲鳴が部屋の中を響かせる。この悲鳴こそが諸田を喜ばせ、生きながらえさせた怨念の糧そのものだった。いつか本物の敵を取る為に諸田はこれだけを食んでその命を繋いでいた。

 その身体をよじ登り、上半身の元へ、少しでも近づく為に上っていく。皮膚の失われたむき出しの筋肉に接触するたびに苦しみの声があふれ出し室内の空間を飽和させる

 ナタの悲鳴を耳にしながらも俺は漸く登り切り、半年以上の時を経て、変わり果てたナタと対面した。既に元の面影はどこにも存在しない。頭部にくっついているのは頭蓋骨にわずかな筋肉がへばりついているだけの肉だった。甘い香りを漂わせながら、強制的に送り込まれる代替血液によって腐敗に抗うだけの。

「こんな姿になっちまうまでひとりぼっちにさせて、ごめんな……」

 涙は涸れることを知らない。俺が接触するだけでナタは意識が無いままに苦痛を感じ悲鳴を上げている。目玉は既に無く、鼻も削がれ、下あごと舌も切り取られ、耳もえぐりとられ、皮膚すらも無い。五感を失ったナタに何かを伝えることはもう出来ない。――来るのが遅すぎた。

 それは十分に解っていた。それでも俺がここに来たのは――。

 先ほどナタクに託されたナイフを見やる。

 これで、終わらせよう。せめて俺がナタを苦痛から解き放とう。

 意味が無いことはわかっていたが最後に、ナタの身体をきつく抱擁した。

「ぎいいいいい……」

 悲鳴を上げる余力すら既に失いつつあるのだろう、俺が抱きしめたことで更なる苦痛を感じ電子音に変換された歪な悲鳴が部屋の中に鳴り響いた。ナタの心臓を背中越しに突き刺そうと、ナイフを振り上げた。

「……いいい……ぎいい……こ、の……せ……せ……?」

 悲鳴に混じり何かが聞こえた気がした。ぴたりと手を止める。だが何も聞こえなかった。それは俺が都合の良いように解釈しただけの幻聴だと落胆した、その直後、

「せ、んせ?」

 確かに聞こえた。何かの幻かと思った。けれど更にもう一度確かにナタは俺を呼んだ。

「ナタ、お前まだ意識があるのか!?」

 喜びが身体を突き上げそう叫んだ。奇跡が起きたのかと思った。けれどその声に対しては何の反応も無い。

「せん、せの匂いが、する……」

 ナタの声が震えながらそう小さく響いた。

 匂い。

 もう一度ナタを見やる。確かに鼻はそぎ落とされてはいるが、嗅覚は鼻の更に奥にある受容体によってもたらされている。嗅覚だけは、まだ残っていたのかもしれない。


 当初、クローンとして生み出されたナタにはインプリンティング効果を期待してアイマスクを付けさせていた。感覚器官の中で最大の情報量を誇る視覚だけに絞って行っていたインプリンティング、けれどナタにとって視覚以外の全ての感覚は俺を最初に捉えていたのだ。あの時、分娩水槽から抱きかかえた時に、ナタは俺の匂いを嗅いでいた。ナタにとっては俺の匂いは最初の記憶そのものだった。

「ナタ、俺だ。もう一度、会いに来たんだ。約束したのに、遅くなってすまなかった」

 泣きわめいてナタを抱きしめた腕に力を込めた。けれど声は届かない。もう二度と届きはしない。俺達はふれあっているのに。その距離は無限であった。ナタは未だに独り暗闇の中に居る。

「せんせ……せんせ……」

 スピーカ越しにもナタの声は震えて響いていく。

「……だめ、だ。みえないし、きこえない。でも、そこに居てくれて、いる気がする。これは、せんせいの、匂い、だから」

 言葉を返せない。ナタは、こんな姿になってもやはりナタのままだった。

「せんせいは、やくそく、してくれたから。だから、きっとわたしが、おわる、まえに」

 ナタの声、その電子音に徐々にノイズが混じり出す。ごぼごぼと何かが逆流するような音。今まで刺激が無かったから、眠っていたからバランスの取れていたナタの命、そこに俺が石を投げ込んでしまった。それにより崩壊が早まっているのかもしれない。

「ああ、ああ……せんせいの、においがきえていく……。もう、わたしには、これ以上、せんせいを感じ取ることができません。みえないし、きこえないし、あじもしない。においも、いま、なくなって、しまった」

 ナタの言葉は揺れながら続いていく。音声は割れていくけれど、その言葉の芯は強さを増していく。それはナタの最後の輝きなのかもしれない。ナタの生命反応をモニターする機械がぴいぴいと悲鳴を上げている。

「だから、せんせい。一つだけおしえてください。せんせいにとって、私はひつようでしたか。私は、先生に作られて、売られていくだけの存在だと知っていました。だからやさしくしてくれるんだって。それを知って尚、わたしは先生を慕っていました。ごはんをくれて、からだを洗ってくれて、おはなしをしてくれて、ねむっているときだけ、あたまを、なでてくれる先生が、だいすきでした。髪の毛を整えてくれた時、どうしても我慢出来なくて、言ってしまいました。先生と一緒に生きて、先生と一緒に死にたいと。あの時、先生は口ごもってくれた。すこしでも悩んでくれた。私はそれだけで、幸せだったんです。たとえあの後私が、こうなる運命だと知っていたとしても、私はそれで良かったんです。ねえ、せんせい、最後に一つだけ。いまでも、そう思ってくれていますか。あのときのように、少しでもまよってくれますか。もしそうであるなら嬉しいです。違うなら、ちょっとかなしいけれど、それでも仕方がありません。もう、せんせいの言葉を聞くことはできないけれど……」

「当たり前だ! お前が俺を変えてくれたんだ! 俺にはお前が必要だった! 打算も金も性欲も、全ての欲望と切り離された、ただの人間として俺に純粋な好意を向けてくれたお前が! けれど俺はその好意が怖かった……! 見えないふりをして、怯えて手を離した……そしてお前を失って、ようやく気付いたんだ……俺に残されたのは後悔だけだった。俺にとってお前は――」

 俺の叫びはナタには届かない。解っている、けれど叫ばずには居られない。想いを吐き出さずにはいられない。無意味な言葉が交差していた。

「だから、あれが本当だったなら、先生。――私を、終わらせて下さい」

 時間が凍り付く。それは予想していなかったからじゃ無い。予想していたからこそだった。飽和した苦痛の中で、感覚器官を失ったナタに何かを伝えるには、もうそれしか残っていない。俺はナタを終わらせる為に来た。確かにそうだった。――けれど。

「先生、お願いです。先生が私を大事に思ってくれていたのであれば、思っていてくれるのであれば、私を殺して下さい。そうじゃなくても結局はもうすぐ私は終わります。それなら同じだと思うかもしれません。優しい先生は、私を殺したくないかもしれない。手を汚したくないかもしれない。けれど、私にとって完全なる停止に至るまでに、それを知る事が出来るならばそれ以上の喜びはないんです。私の死の前の数秒でも一瞬でも良いんです。先生に必要とされたことを、私が産まれてきた意味を、私に信じさせて――」

 言い終わる前に、

「うああああああ!!」

 手の中のナイフを、

「ああ……嬉しい……有り難う、先生……やはり、私は……」

――突き立てた。

「わたし……は、うまれてきて、よかった」

 ナタの心臓を破壊していく。

「せんせい、ありが、とう」

 ノイズに塗れた音声は、直後高音と共にぶつりと落ちた。同時にこわばっていた肉は弛緩し、崩れ落ちていく。

「――――!」

 それでも俺はナタの身体を抱きしめたまま、泣き叫び続けた。

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