ベニサクラ
序章
柔らかな光が窓から差し込む昼休み。だが、今日はいつもと違い騒がしかった。
「それは違うわ、志方空」
彼女は俺をしっかり見据えて言った。
「あなたの絵は、誰にも真似できない。あなたは天才なのよ!」
「……勘違いしないでくれ。俺はどこにでもいる凡人で、ただの怠け者だ」
「っ!」
カッとなった彼女は赤く長い髪を揺らすと、俺の懐に踏み込み、胸倉を掴んだ。
大きな黒い瞳で睨みつけながら、女性とは思えないほどの強い力でギリギリと締め付けてくる。
その腕には、無数の痣があった。
普通の女の子らしからぬ傷だらけの腕。ましてや裕福な家庭の子息が通う高校だと、それは余計に目立つ。
だが俺は、この子の腕の痣が、どうしてできたのか知っていた。
それは、ある訓練を勝ち抜いてできた勲章だった。
「あなたの絵は見る人すべての心を動かす、そんな凄い絵なの! 稀有な才能をあなたは持っているの!」
「それは過剰評価だ。第一、俺は二年前に画家を辞めた」
「じゃあ、美術館に飾っているあなたの絵は、なんだっていうのよ!」
「何の事を言っている?」
このまま誤魔化して、うやむやにしてしまおうとする。彼女が言う「あの絵」のことはもう思い出したくもない。
あの絵は、俺の罪だ。永遠の闇に封じ込めなければいけない忌まわしいものだ。
自分が筆を折ったのは二年前の事。三年前しょうもない賞を取った絵画の発表を最後に、俺は絵を発表することをやめた。今では画壇では俺のことなんて、もう昔話だ。
俺はもう、表舞台で絵を描かない。
二度と絵を発表しない。何があっても、もう絵を志さない。
天才だったのは父だけだ。評価されていいのは、志方健十郎だ。俺じゃない。
俺は四年前の父の他界をきっかけに、画家であることをやめた。
……しかし。
「『○○○○』…あなたが描いた絵でしょう?」
「っ!?」
彼女は、俺があの絵から目をそらすのを許さない。
絵の名前が言い放たれた瞬間、俺は息をのんだ。
闇に葬った事実はこうして、暴かれる。
俺はあの時、画家としてのタブー、戒律を破った。あれは……絶対やってはいけない邪道な行動だった。