マイスイートボム
日も暮れた頃、彼女がおかしなことを言い出した。
「敬語の彼女がほしい」
俺はキーを打つ手を止め、ベッドで伸びた鏡子を見やる。人の枕に頬を預けたまま、動く気配は全くないが……。聞き違いではないと思う。
藪から棒だ。同性愛に目覚めたのか? 特殊な別れ話かと身構える。
「俺じゃ、物足りなくなったか?」
「なんでそうなるの」
外れたらしい。
鏡子が不満げに身を起こす。彼女の唇は尖っていた。虫の居所が悪いらしい。
下手な刺激はせず、彼女が尻を落ち着けるまで見守る。俺の様子を確かめてから、鏡子は話し始めた。
「帰りに、はっちゃけた声が聞いてきたの。『敬語の彼女が欲しー!!』って。やな感じだな―、って」
分かりにくいが、学生か何かが叫んでいてその内容に腹を立てた、といった所か。俺には非がなさそうだ。……不満を家に持ち込んで、いきなり睨みつけてくるのは止めていただきたい。
「なるほどー、やな感じ、なぁ」
まあ、話を聞けば収まるだろう。少しだけ付き合うことにする。俺は、キーボードから手を離した。
とりあえず、分からない部分を明らかにしておこう。
「『敬語の彼女』ってなんだと思うんだ?」
問いかけをゴーサインと受け取ったのか、鏡子の瞳がきらめく。やや前のめり気味に話し始めた。
「言葉だけだと『敬語を使う子』、『言葉遣いが丁寧な子』って意味になりそうだよね? でも、そういう響きには全然聞こえなかった。もっと、容姿が好みなのを前提として、立ち振る舞いとか性格とか、色々含めて『しおらしい子』を彼女にしたい、って感じで……。図々しいと思わない!?」
早くも語気が強まっている。こちらは冷静な対処を心掛けよう。
「そうだなぁ……」
返事は努めて穏健に。さて、どうしたものか。
普段から見透かされている者として、彼女の理解は少なからず当たっているのだと思う。しかし、仮に相違なかったとして、何か問題があるだろうか。夢を見る権利くらい、誰にでもあると思うのだが……。
「『しおらしい子』か。望むだけなら、タダじゃないか? プリプリするほどでもないと思うんだが」
「それでも、雑な表現が我慢ならないの!」
彼女の声が苛立った。怒りのツボに触れたみたいだ。まあ、爆発させた方が早く済むので好都合。引っかかれたりしないし、さっさと愚痴を引き出してしまおう。
鏡子に、手の平だけで続きを促す。
「んー、もう。軽くいなされてる気がする、なんかヤダ。……話すけど」
手早く進めようとしたら、チクリと刺された。理不尽だ。今度おもいっきり可愛がろう。
眉を中央に寄せたまま、鏡子が口を開く。
「……続ける。大人しい子が好きなら、そう言えばいいと思わない? なのに『敬語の彼女』なんて。薄っぺらい表面だけを見て、中身を蔑ろにしてるとしか思えない。恋人の気持ちを汲み取れるのか甚だ疑問。『自分の勝手を押し付ければ、相手も幸せだ』とか思ってない? 付き合ったら、絶対ストレス溜めると思う!!」
最後に「まあ、そもそも誰も取り合わないだろうけどね!」と言い捨てた。
未だ不機嫌な目が、俺を捉えて離さない。口をつぐんでいるものの、次なる爆発のエネルギーを溜めているようだ。さて、どう返したものか。
俺としては、人なんて他者との関わりでいくらでも変わるものだと思う。願望だけで人間性は推し量れないんじゃなかろうか。
だが、反論を求められていないのは明らかだ。聞いた限り、彼女の中では既に結論が出ている。覆そうとすれば、要らぬ火の粉を浴びるだろう。
上っ面で同意はしたくないし、取れる行動がない。このまま黙ってしまおうか。思考は逃避に傾き始める。
他人の恋愛観に対して、よくここまで怒れるものだと思う。上手くいかないと思うなら、捨て置けば良いだろうに。
まあ、はっちゃけ野郎と可愛い女子なら、俺も後者の味方になりそうだ。
「ちょっと、今何か別のこと考えてるでしょ」
横道に逸れつつあるのを、鏡子に悟られた。
荒々しい鼻息と共にねめつけられる。迫力は、あまりない。一気に話して昂ぶっているのだろう。潤んで赤くなった瞳が、泣き出しそうだ。
一言答えれば済むと分かっている。後はダラダラと鏡子を宥めていればいい。しかし、その一言が思い浮かばない。
濁った思考の間にも、沈黙は硬度を増していく。そろそろ、限界だ。
「なあ、鏡子」
「ん? 何?」
鏡子の整った眉が動く。俺は席を立ち、彼女の方へと歩き出した。視線は通ったまま、一切途切れない。彼女は身動き一つなく、俺を待っている。
頭が彼女の顔に影を落とす距離までやってきた。鏡子に体重を預けるようにして、ベッドへ倒れ込む。戸惑いの声は上がらなかった。
寝具にて、見つめ合うこと数秒……。
「疲れた」
おもむろに言葉を結ぶ。鏡子は、口をぽかんと開けた。
「ハァ……。ホント、ねぇ……」
失望と脱力の視線が俺を刺す。吐き出すものは吐き出したせいか、非難にはそれほど覇気がない。徐々に状況を受け入れ始めているようだ。
「続き、聞いた方が良いか?」
一応、尋ねてみる。
「今それ聞く? もういいよ。……いいから、抱っこ」
許された。彼女を覆っていた負の気が霧散する。切り替えが早いのは、本当にありがたいことだ。
彼女が機嫌を損ねぬよう、希望に応える。自分の胸辺りを鏡子に押し当てた。
家のシャワーを使ったはずなのに、彼女からいつもの香りがする。考えて見れば不思議だ。
「……誤魔化すの、上手だよね」
何気ない発見に気を取られていると、吐息が胸元を温めた。不完全燃焼だったろうか。視線を落とし、詫びておく。
「悪い、やっぱり話すか?」
「いや、褒めたつもりだったんだけど」
皮肉ではなかったようだ。別の意味で謝らなくてはならなくなった。少し強めに抱き寄せる。
「んっ。まあ、扱い辛いはあるから。こっちも、……ごめん。こじれる前に打ち切ってもらえて、ある意味助かった。ありがと」
プライドが邪魔をするのか、少しそっけない謝罪と感謝だった。素直になりきれない所も含めて彼女らしい。直接伝えたら、絶対怒られるだろうが。
「あ、でも安易に誤魔化し始めたら怒るから」
念押しも欠かさない。自称する通りの扱いづらさである。
「分かった、分かった」
やり取りを愛おしく思いながら、俺は彼女をダラダラと抱きしめた。
ありがとうございました。