5話 約束
突然、床に向かっていく先輩。
引き連れられている私も、当然床へ引っ張られる。
迫る床。
それは、転んだ時の風景とは全く異なるもの。
全力疾走で壁に向かっていくような感覚。
でも、それは床だと認識出来る。
自由落下。
いや、意志による落下?
それでも、手を引かれている私は、自らの力では制御出来ない。
抗うことなど出来ず。
急速に迫る床。
思わず瞼を閉じる。
だが、その一瞬後。
本来あるべき衝撃など、微塵も無く。
何かが身体を突き抜けていく感覚。
身体と物体が一緒になっているはずなのに、自分の思い通りに動かせるという、不思議な感覚。
その感覚も無くなってきた頃、恐る恐る目を開ける。
すると、不思議な光景が広がっていた。
地面の中?
いや、違う。
ここは、違う世界。
地面の中とか、そういう次元じゃない。
すでに世界が違う気がする。
地上とも上空とも……
行ったことなんて無いけれど、宇宙とも違う。
そんな不思議な空間を、私と先輩は、駆け抜けている。
周囲はとても明るく、真っ白なのに。
その明るさが、逆に底知れず、とても怖く思えた。
見上げても、辺りを見渡しても、地面でさえも、濃い霧に飲み込まれたかのように、この世界を閉じこめている。
足を着ける地は有るようで無く、無いようで有る。
それ故か、私も含めて、みんな飛んでいるようだった。
そんな不思議な空間にあるのは、巨大な扉。
私の背丈どころか、高層ビルのごとくそびえるその高さは、見上げてもきりがない。
そんな、途方もない大きさの扉。
その扉が、ポツンと一つ立っていた。
「これが……」
「そう、ハデスゲート。私たちの、戦いの火蓋を切る場所であり、守るべき最後の砦」
露草先輩は、私を愛さんと京さんがいる場所に誘導してくれる。
2人は歓迎するように笑ってくれた。
それに微笑み返すと同時に、今更ながら飛んでいることが当たり前になってる自分に、思わず笑いがこみ上げる。
「今回は見学ということで、愛さんにしっかり守ってもらってね。大丈夫、愛さんの守りは完璧だから」
「あ、あんまりプレッシャー掛けないでくださいっ……! そ、そういうのに弱いの、知ってるじゃないですか」
少し声が震えている愛さん。
京さんはそれを見ながら、何だか微笑ましげに笑っている。
その笑いにつられて、私も笑みをこぼしてしまう。
それが見えてしまったのか、愛さんは可愛らしく頬を膨らませた。
愛さんと京さんがいる場所は、扉からかなり離れた位置だ。
そして、扉に対して正面を向いている。
私たちから見て、樫儀さん、かなりの距離を置いて森川先輩の順番で背中を見ることが出来る。
これから始まるという「バルティナの歪み」
果たしてどんなことが起きるのか。
恐怖とも興奮とも言い難い感情が、胸の鼓動を早くする。
そんな私の肩を、露草先輩が叩く。
「遠足前日の子供みたいな顔してますね」
「そ、そんな顔してますか?」
「ウ・ソ♪」
思わずずっこけてしまう。
笑っている露草先輩が、仕切り直すように咳払いする。
「さて、この「バルティナの歪み」の間で、必ず守って欲しいことがあるの。これは、これからもずっと……そう、退魔部にいる間は絶対に守って欲しい。そのくらい、大切なこと」
「は、はい」
私の肩を掴み、しっかりと眼を見据える露草先輩。
その空気に、固唾を飲んで、次の言葉を待つ。
「「バルティナの歪み」の間は、無心になって欲しいの。どんな些細な願いもしてはダメ。もし、何かを願ってしまえば、すぐさまその願いを魔界へ持ち帰られてしまうわ。悪魔たちにとっては、私たちの願いも例外ではないの。そして、カルマを汚されてしまうわ。だから、どんな願いも、口にしてはダメ」
「わ、分かりました……」
「今回学んで欲しいのはそれだけ。あとは「バルティナの歪み」に少しだけ慣れてちょうだい。それじゃあ、よろしくね」
露草先輩は肩から手を離し、樫木さんと森川先輩の間に陣取っている。
急に身体に力が入ってしまう。
今になって、愛さんを笑えなくなってしまった。
不安。
露草先輩の手が肩から離れたその瞬間。
言いようのない不安に駆られる。
そうだ。
私たちだって、普通の人間。
悪魔たちは、私たち退魔部の人間をも狙っているのだ。
そして、下手をすれば、あっという間にカルマを汚されてしまう。
どうしよう。
どうしよう。
怖い。
怖い。
怖い。
怖い怖い怖い怖い。
怖い怖い怖い怖い怖い……!
フワッと。
私の頭の上を包む何か。
ゴツゴツとした感触。
でも、とても暖かい感じがする。
目の前には森川先輩がいた。
その森川先輩の手が、金属の篭手をつけたゴツゴツとしている手が、私の頭の上にあった。
「怖がるな」
剣を左右に袈裟切りすると、最後に一閃、横に切り払う。
空気すらも切り捨てたと錯覚するほどの風圧。
思わず気圧されていると、森川先輩が、よく通る、だが優しい声で。
「…………必ず、私が守る」
それだけ言うと、ひとっ飛びで再び持ち場に戻っていった。
「は、はい。ありがとうございます……!」
その言葉に、身体がとても軽くなった。
我ながら単純。
でもそれ以上に、森川先輩の言葉がとても有り難かった。
わざわざ、一度持ち場を離れて来てくれた。
さっきの、その一言を掛けるために。
その気持ちを、私は全身で感じることが出来たから。