第48話 ネゴシエート
部室の中は、まだカーテンが閉められ、誰も来ている様子は無かった。
その暗い部室の中、私たちに向けられた声。
以前にも聞いた声。
礼儀正しいはずなのに、どこか棘のある声。
その声を、私は確かに覚えている。
その声の主は。
「敵情視察といったところですか? ケルベロス」
「ふむ、そんなところだ。あわよくば、貴様等の願いの呟きの1つくらいは持っていけるかと思ったのだが……さすがはキーパー。なかなかどうして、牢固なものよ。全く隙を見せぬものだな」
ヌケヌケと言い放つケルベロス。
それに対して、眉一つ動かすことなく、露草先輩が対応する。
「とりあえず、そこを退きなさい。私の指定席なの」
「ふむ……退いてくれる? と言わないあたりも、よく訓練されているな」
「減らない口ね」
「そうだな。一つしかない口が減ったら、大変だ。ふむ、ひとまず、貴様の願いは聞き届けよう」
「願いじゃないわ、命令よ。犬は、人間に従順であるほうが、世渡りしやすいわよ?」
「さて、犬は犬でも、盲導犬のように引っ張ってやる側なものでな。ただ、盲導犬というのは、気分次第では、引っ張る人間を死に追いやることも出来るのだよ」
そうこう言いながら、席を立つケルベロス。
それを見て、怒りを表すように音を立てて座る露草先輩。
私は、先輩の横に張り付く位置で、パイプ椅子を立てて座った。
「はっはっは。そう怖がるな、新人。別に今日は、戦いに来たのではない。ちょっと話をしにきたのだ」
「そう。それなら、こっちから話すことなんて無いわ。さっさと出て行きなさい」
「そう邪険にするな、露草の巫女」
机越しに、正面に立つケルベロス。
その風貌は、やはりエジプト神話に出てくるアヌビスのようだ。
犬の顔ながら、宿す眼力は、目が合うだけで竦み上がってしまう。
「今回、興味があるのは、そこの新人だ。なぜ、そこらにいるような普通の女子がキーパーをやっているのか」
「それはこっちが知りたいところだけど、あなたに頼む義理も無いわね」
「ふむ、知りたければ、悪魔の力を用いて教えてやれたところだが」
「それが迷惑だから帰れって言ってるのよ」
「なるほど、これは手厳しい。さすがにキーパーの口は軽くないな」
「あなたたちディアボロスが考えそうなことだわ」
私は、2人の駆け引きを黙って見ている他に無かった。
私が押し黙っている間にも、話は進んでいく。
「さて、裏での企みは露見してしまった。では、正面切って聞くとしよう。そこの新人がキーパーになった理由は何だ?」
「知らないと言ったはずよ」
「それは真か?」
「くどいわね」
次第に苛立ちが募っていく露草先輩。
その様子を面白がるように、口角が鋭くなるケルベロス。
「そうか。何か心当たりだけでも分からないものなのか?」
「それも知らないし、仮に知ってたとしても、あなたに教える義理もないわね」
「はっはっは、やはり厳しいな。そうまで徹底されると、やはり知りたくなってきたぞ」
「こっちはそうでもないから、さっさと帰りなさい」
相手にしないようにしている露草先輩。
だが、次の言葉は。
「そうか、そこの新人に似た悪魔を知っているのだが、それは無関係か」
「……っ!?」
その発言は、私にとっても、露草先輩にとっても無視出来ないものになっていた。
「そうか、やはりそこに食いつくのか」
口許を緩めるケルベロス。
動揺を隠しきれない私だったが、露草先輩はすぐに平常心を取り戻していた。
「そう。だからといって、何が出来るわけでもないわね。悪魔に転生した人間にかける情けなんて無いわよ」
「それもそうか。いや、これは失敬した。元は肉親であっても、情けなどいらぬということだな」
こいつは、間違いなく知っている。
キーパーになる条件を。
その上で、こうしてからかいに来ている。
何て奴だろう。
腹立たしいものの、今の私は腹を据えるしかない。
「……ねぇ、いい加減、本題に入ったらどうかしら。くだらない問答は、もううんざりなんだけど」
「おや、つまらなかったかな。前座のつもりだったのだが」
「えっ……」
からかいにきた訳ではないのか。
本当に意外にだった故に、思わず声を上げた。
というか、この何とも言い難い怒りはどこに向ければいいのだろう。
そんな表情の私を見たケルベロスがニヤリと笑う。
「では、本題に入ろう」
僅かな間。
その極微な時の間に、私は息を呑む。
「単刀直入に言う。露草の巫女、俺は今、貴様の父親の願いを持っている」
見せつけてくる光。
それは、何度か見たことのある、願いの輝きだった。
そして、その言葉は、露草先輩の眉をしかめさせるには充分なものだった。
「内容としては、貴様には、苦労のない結婚をして、幸せに暮らして欲しい、とのことだ。昨日、貴様の父の口から出た言葉だ。貴様も、その場に居合わせていたのだ。覚えているだろう? 何とも、親らしい願いといえば、そうなのだろうな」
「そうね、その気持ちは嬉しいかな」
この事実を受けてなお、冷静に返事をする露草先輩。
それを、面白がって見ているようで、ケルベロスはさっきから嫌な笑いを浮かべたままでいる。
だが、その表情は一変して真剣なものとなった。
「さて、貴様等にこの件を話したのは理由がある」
「あんまり興味は無いけど、どうせ続けるんでしょ?」
「よく分かっているな」
僅かに口元をゆるませてから続ける。
「俺の所感だが、今回のキーパーたちは、なかなか腕が立つように思える。例えば貴様だ、露草の巫女。貴様1人で、俺とあれほどの時間対峙して見せた。貴様等がディアボロス2体を倒したことは、決して偶然では無いだろう。これは、賞賛に値する」
「素直に受け取っておきましょう」
「うむ、惜しみなく賛辞を送る。貴様等は、間違いなく、今までで最強のキーパーだろう」
急に褒めちぎるケルベロス。
そして一呼吸置くと。
「そこで、貴様等との真剣勝負をするために来た。」
「……はい?」
思わず私が反応してしまった。
意味が分からない。
私たちはいつだって真剣勝負だ。
手を抜いたことなんて無い。
こいつは、本当に何を言っているんだろう。
「なるほどね。それで、そこに繋がるわけ」
「察しがいいな、露草の巫女。それが、差し当たっての条件となるが、受け入れて貰えるだろうか」
「私の一存では何とも。後日、返答させてもらうわ」
「それもそうか。では、明日のこの時間にでもまた来よう」
「あ、一つ確認だけど」
「何だ?」
「もちろん、先払いよね?」
「悪魔というのは、信用が第一であるはずが、その信用が無いからな。やむを得まい」
「はい、いただきました」
えっ、何?
どういうこと?
さっぱり分からない。
「では、さらばだ。森川の娘にでも見つかろうものなら、何をされるか分かったものではない」
「私はむしろ、その展開を期待しているんだけれど」
「その願いは成就しそうにないな。では、さらばだ」
言い残したかと思えば、気づけば、目の前からケルベロスが消えていた。
「さて、どうしたものかしらね」
呆けている私を余所に、露草先輩が小さなため息をつく。
「あの、どういう意味なんですか?」
「うん……? あぁ、あの呼吸じゃちょっと分からないわよね」
小さな間を空ける。
私の頭の中は、もうグチャグチャで訳が分からないため、そんな僅かな間でも、答えを得られないもどかしさを感じていた。
「ケルベロスは、ニヒルで皮肉屋な割には、妙なところで武人気質なのよ。今回は、本当に正面切って、私たちに勝負を挑んでくるつもりのようね」
「でも、ディアボロスがそんなことを……」
「ディアボロスだから、でしょうね。少なくとも、私はケルベロスの言うことを、決して無碍には出来ない」
露草先輩がそこまでケルベロスを信頼する理由もいまいち分からない。
でも、あれだけの会話で様々な意図を汲み取った露草先輩だし、私の分からないところで色々と察しているのかもしれない。
「私達との真剣勝負を受けた場合、その報酬として、私たちに教えようとしてるわけ」
「何をですか?」
「朝生さんが、キーパーになった理由よ」
「えっ……」
もう、何度言ったか分からないこの言葉。
でも、何度でも言い続けるしかない。
だって、これしか出ないくらい、驚きが連続しているから。
「あいつは知ってるのよ。朝生さんがキーパーになった理由をね」
「ということは、私達が勝負を受ければ、その理由を教えてくれるってことですか?」
「そういうこと。まぁ、私の父の願いを持っていることに対しての、彼なりの負い目なのでしょうね」
「負い目……?」
「そう。私たちと本気で戦いたい。そのために、私の父の、独り言のような願いを掠めとった。これは、私たちにとってはもちろん許し難いこと。でも、ケルベロスにとっても、許容し難いものだったみたいね。そこで、免罪符として、私たちに情報を開示することにした。それを持って、私の父の願いを持ったケルベロスと本気で戦ってくれってね」
「そんなことを……」
何というか、この取引は私達に得があるのだろうか。
まだゴチャゴチャした頭で考えていても、イマイチ整理がつかない。
もし断ったとして、ケルベロスが本当に願いを捨てるかも分からない。
受けたとして、本当に教えてくれるかも分からない。
そもそも、理由を知ったところで、得なんてあるのだろうか。
負ければ、露草先輩の未来が閉ざされてしまう。
そんなリスクを背負ってまで、やるべきことなのだろうか。
「まぁ、まずは皆に意見を聞きましょ。話はそれからよ」
頭の中で考えが交錯している私を余所に、ゆっくり立ち上がる露草先輩。
「あ、あの。どこに行くんですか?」
歩いていく先輩の背中に声を掛ける。
そんな錯乱気味な私だけれど、露草先輩のその脚が、少しだけ震えているのが見えたから。
「……もう、朝生さん。トイレにも行かせてくれないの?」
赤面する先輩に、私も顔を赤らめて見送るのだった。




