29話 樫木さんと真面目な話
私は、樫儀さんの部屋に案内された。
あのオンボロな建物の中。
やはり相応に古い建物であることを物語るように、壁は汚れている。
ただ、汚れているように見えるだけで、掃除は丁寧にされていて、清潔そのもの。
埃一つ無いように思える。
ただ、部屋というには狭い。
面積は4畳。
洋服のタンスなども無く、梁の間に棒を巡らせ、そこにハンガーをかけて洋服を保管しているみたいだった。
座布団を出してもらっており、そこに鎮座する私。
置いてあった、脚を折り畳むタイプの小さなちゃぶ台を展開させ、目の前に置かれていた。
何というか、昔ながらの工夫を凝らした部屋だった。
「あははっ! 一子、びっくりしてるですねー」
言いながら、襖を足で開ける。
お盆で両手が塞がれているが故の行動だが、何ともお行儀が悪い。
制服から着替えた樫儀さんは、ゆったりとした黄色のTシャツに黒のハーフパンツという、気軽な格好になっている。
お盆からお茶とお菓子をちゃぶ台に置き、ゆっくり座ると、煎茶を飲む。
「はぁ~……」
うっとりとした目をして、頬を僅かに赤らめ、春の空気の中で、僅かに白く見える息を漏らす。
「何というか、樫儀さんは日本人以上に日本人らしいよね」
「何言ってるですかー。日本人の血も混ざってるですよー」
「まぁ、そうなんだけどさ」
私はいただいたお茶を飲む。
口の中では、程良い温度のお茶が転がり、苦みと渋み、僅かな甘さが舌を刺激する。
思わず、はぁ~、と吐息を漏らす。
「一子も日本人でーすねっ!」
「私は生粋の日本人だしね」
「そうでしたー」
お互いにコロコロと笑いあう。
しかし、あることを思いだし、思わず表情が曇ってしまう。
「ん? どうしたですか、一子」
「あ、あのさ。ごめんね」
私の後悔。
幽体になっている中、宙を泳いでいた私を抱き留めてくれた樫儀さん。
冗談で、空中に立たせようとさせて、大怪我を負うところだった私。
その謝罪として、ほんの軽い気持ちで、ちょっとした報酬であるケーキを求めた。
でもそれは、想像以上に重荷のようだった。
この家を見て……
何より、900円を払いきれなかった樫儀さんを見て思う。
あれは、言ってはいけない一言だったのだと、そう悟った。
なんて、こっちは後悔の念でいっぱいなのに。
一方の樫儀さんは、アホみたいに口をポカーンと開けて見つめているのだった。
「あ、あの……樫儀さん?」
「ん、何ですか一子?」
「あの、ごめんって」
「うーん、ごめんです一子。一子が何について謝っているのか分からないのです」
「あ、えっと、その。私が謝ってるのは、無理矢理ケーキを奢らせちゃったことなんだけど」
「それについて、一子に謝ることがどこにあるですか?」
「それは、樫儀さんの家庭の事情を少しも気にしなかったから……」
正確には、ここまでとは予想もしていなかったということなんだけど。
私の言葉を受けて、樫儀さんは腕組みして長考した後に。
「……なるほど、そういうことですかっ!」
右手の拳を、左の掌にポンと打ち付け、頭には電球をピカピカさせる。
……何というか、古い。
そんなことはさておいて、樫木さんは言葉を続ける。
「それは一子が謝ることじゃないでーす。むしろ謝るべきは私だから、ケーキをごちそうしたです」
「いや、それが悪かったなぁって……」
「そんなことないです。今日、一子があそこに連れて行ってくれなかったら、私はきっと、あのおいしいケーキに出会えなかったです。それは、何よりも喜ばしいことで、私が感謝こそすれ、謝られることは何も無いでーす」
「いや、そうじゃなくてね。生活大変なんでしょ? それなのに、高価なケーキを……」
「お金のことは気にしないでいいでーす」
「そんなこと言っても……」
私がまごまごしていると、樫儀さんの次の一言。
「私がしばらく考えてしまったのは、お金は大事、という感覚がいまいち無いからなのです」
「えっ?」
この一言に、驚きのあまり、呆気にとられた。
お金は大事。
お金のために働いている人が大半だし、お金のために人が死ぬこともある。
でも、何をさしおいても大事なものか、と言われると、口ごもってしまう。
でも、やっぱり大事なもの。
普通の人は、大抵はこういう感覚なんじゃないだろうか。
それなのに、樫儀さんは、お金があまり大事ではないという。
「でも、お金が無いと不便でしょ?」
「もちろん、お金があると便利だし、無いより有る方がきっといいでーす。でもね一子。お金のために働くっていうのは、私にとってはちょっと違う気がするです。自分がやりたいことの先にお金を得られる。これが本来だと思うですよ」
「それはそうだろうけど……」
それは理想論だということは、言うまでもない。
誰だって、なりたい自分になりたい。
やりたいことを仕事にして、それで食べていけることは、きっと幸せなことだ。
でも、それを実現させることは難しい。
だからみんな、勉強をして、良い学校に入って、就職する。
結局はそういうこと。
樫儀さんの言うことは理想論だ。




