中国に行きましょう
玲はまだ帰ってこない。正直に言えば淋しいし不安だった。だけど玲に負担をかけたくない。今は自分の目が見えるようになる事だけを考えよう。
私はベッドの上に座りながら。看護師さんが貸してくれたラジオを聴いていた。
遠くの方から足音が近づいてい来るのが聞こえる。玲かな……
ドアをノックする音がした。
「どうぞ」
私の声を合図にするようにドアが開かれて、廊下の空気が病室の中へと流れ込んでくる。
ほんのりと薬品の匂いがした。
「玲?」
なんとなく玲とは違う雰囲気だったけど、一応ちょっとの期待をして聞いてみた。
「チガイマス」
その言葉に日本人じゃない事に気付く。体に緊張が走り硬直する。
「ダイジョウブ レイニ タノマレタ」
玲に頼まれたって、どういう事なの? 玲に何かあった訳じゃないわよね……
私の心が不安で満ちていき、重くのしかかってくる。
「レイハ ダイジョウブ」
淡々とした外国語なまりのある日本語を聞いても、少しも安心できなかった。
「貴方は誰なの?」
顔はぼやけていてよく見なかったけど、かなりの長身でスラリとした体形である事がわかった。
もしかしら玲よりも背が高いかもしれない。
「ワタシ コウリャンノ ナカマ シュリュウ イイマス」
コウリャン……それってお母さんの中国の名前。じゃあこの人は中国人で、お母さんと一緒に来たって事なの?
不安だらけの心の中に疑問が生まれて、余計に整理するのに時間がかかりそうだった。
シュリュウという長身の男がワタシに近付いてくるのが見える。
私はベッドの上で、体を横に動かしてその男からできるだけ離れようとした。
男はベッドの横に跪くと私の手を握る。一瞬私の体は驚いたように反応した。だけど不思議と嫌な感じを受けなかった。
「アナタ コウリャンノ ダイジナヒト ダカラ ワタシモ ダイジ」
お母さんが私を大事だって言ったの? この人ってお母さんとどんな関係なのかしら。
不思議と温かさの感じる手に、少しだけれど安心する自分がいた。
「ねえ、母とどんな関係なの?」
男は私から手を離すと、傍にあった椅子を引っ張ってきてベッドの傍らに持ってくると座る。
ぼやけた世界の中で、男は長い髪の毛を掻き揚げたように見えた。
「ステラレテタ ワタシヲ ボスガ ヒロッテクレタ ソシテ コウリャンガ ソダテテクレタ」
ちょっと待って、この人っていくつなの? 外国語なまりのある日本語じゃよくわからない。印象としては私よりも年上のような気がするんだけど。
「貴方はいくつ?」
「ワタシ 25」
やっぱり私よりも年上だ。私が5歳の時に母がいなくなったんだから。その当時この人は12才って事よね。
12才で捨てられたの……親に捨てられたって事なのかな……それとも何か他に事情があるのかな。
「ワタシ オヤノカオ シラナイ キヅイタトキニハ ストリートチルドレンニ ナッテタ」
私が不思議そうな顔をしていたものだから、気を利かせてくれたのか、そう話してくれた。
ストリートチルドレン。ニュースか何かで見た事がある。
「コウリャン ヤサシクシテクレタ」
そうか、この人にとってお母さんが母親代わりって事なのね。
こんな時、実の子供ってやきもちを妬いたりするのかしら……私は不思議とその話を聞いて安心に近い心地よさを感じていた。
「コウリャン サラノコト ワスレタコトナイ イツモ シャシン ダイジニシテタ」
写真……あの写真。そうか……なんだか胸が熱くなって来る。悲しくもないのに涙が込み上げて来て、今にも溢れてきそうだった。
私は慌てて涙を拭う。
驚いた……いきなり抱きしめられてどう対応していいのかわからなかった。
男の長い腕が私を包む。玲とは違うけれど、なんとなく安心できる気がした。心の中にゆとりができる。
「サラ イッショニ チュウゴク イキマショウ」
その言葉に驚き嫌悪感を感じて、私は男を突き飛ばすようにして離した。
今、中国に行こうって言ったの……
「ニホン キケン」
私はそう言葉を発する男を睨みつける。
危険なのはわかってる。今自分がどういう状況に置かれているのか、こうしてる間も危険と隣りあわせだって事も知ってる。でも……私は日本を離れない。玲のいる場所を離れない。
玲と離れた場所に、私の心を癒してくれる場所はない……
これは、私の思い込みかもしれない。だけど玲の事が大好きで、大切で、いつも一緒にいたくて、どうしようもないんだもん。
「絶対に行かない」
「コウリャント イッショにイレル ナゼ」
この人の言うとおり、おかあさんとは一緒にいれる。これは素直に嬉しい。この13年間、叶う事ないと思っていた願い。それが今、叶う願いとして眼の前に現れた。
だけど……私にとってお母さんも大事な存在に変わりはなけれど、玲は……玲はもっと大きくて特別な存在だもの……
今は玲と一緒にいたい。
「玲と一緒にいたい」
私がそう言うと、男の手が私の頭に伸びてきて優しく撫でる。
「ソノコトバ レイノ スクイ」
男は小声でボソッとそう言った。私の言葉が玲の救いになるって事なのかしら。
この人に玲と同じ雰囲気を感じた。冷たくて悲しい雰囲気……
「レイモ イケト イウ」
男のこの言葉に私は少し驚いた。でも怜ならそう言うかもしれない。私を危険から回避させるために。
「玲が何て言おうと、私は嫌なのよ」
男は私の言葉に軽く笑い、私の頬を撫でる。それはそれは優しい感触だった。
「レイガ ウラヤマシイ アイツハ シアワセダ」
悲しみを感じさせる口調で男がそう言った。
この人も玲と同じように親の顔を知らないで育って。その12年間の生活の中で感じた悲しみや不安、恐怖やひもじさ……そしてたぶん、対象のない憎しみ。そんな感情から生まれた闇が心の中に深く足跡を残している。そんな気がした。
「コウリャン カナシム」
男はそう言って立ち上がり、窓の所まで行くと外を眺めているようだった。
この人は母の事をきっと愛してるのね。初めて優しさに触れたのがきっと母の存在だったんだわ……
私は悲しい空気の流れを感じていた。
沙羅の前に現れたシュリュウは、沙羅に「中国に行こうと」と言った。
だが沙羅は玲と離れたくないと断る。
シュリュウの中に玲と同じ雰囲気を感じた。
手術日だというのに、玲は沙羅の前に現れない……
どうしてなのか!?




