言葉の持つ力
俺は沙羅を病室に残して外に出た。病院の正面玄関から沙羅の部屋を見上げると、沙羅が俺の方を見下ろして手を振っていた。
淋しいだとか不安だとか、そんな事を一言も言わずに笑っていた。
沙羅の目の手術日は明後日の午後1時から。できるだけ傍にいてやりたいが、沙羅の母親の事もあるしそうもいかない。
とりあえす胡蝶の所に行って、結果を聞かなきゃな……
俺は携帯を出すと、胡蝶の所に電話をかけた。
「……もしもし……奈菜香か?……胡蝶は?……ああ、ああそうか、これから行くから……ああじゃあな」
しっかし、耳が痛くなるくらいのキンキン声だな。まったく。
俺は刑事のオンボロ車に乗って、車を発進させた。
空から雨が降ってきた。夜には雪になりそうな寒さだった。雲が光を奪い、空気には灰色のベールがかかってる様に、景色を覆っていた。
景色は繁華街に程近い女街に変わっていく。一種独特の色合いの街も、この雨のせいで今日は色あせて見えた。
俺は胡蝶の劇場の前に車を止めると、建物の脇の通路を通って、突き当りのドアを開く。
女どものつける香水の匂いが漂ってくる。
「玲!」
そう叫びながら一番最年少の20才の奈菜香が、飛ぶように俺に近付いてきて抱きつく。
裸に近いその体を俺の摺り寄せながら、しがみ付いた。
「ねえねえ玲、最近遊んでくれないのね。つまらない」
奈菜香は俺にしがみ付きながら、なやましい瞳でそう言ってくる。確かに男としてはそそられるものがあるが……今はあの幼児体形に魅力感じる自分がいて……自分でも可笑しくてしかたがなかった。
「奈菜! 玲には手を出さないのよ、相手がいるのを知ってるでしょう」
胡蝶の凛とした艶やかな声が響き渡った。奈菜香はその声にすねたような表情を浮かべて俺から離れる。
「玲、上へ」
胡蝶のその短い言葉に促がされて俺は階段を上っていく。
俺は部屋の中の唯一の窓の横に立ち、壁にもたれながら腕を組んで立った。
胡蝶は部屋に入るとドアを閉めて、中央に置いてある座布団の上に腰を下ろした。
「玲、窓を閉めてこっちに来ておくれ」
胡蝶はそう言うと、自分の眼の前のもう一枚の座布団をかるく叩く。俺は窓を閉め切ると胡蝶の前に腰を下ろした。
「さっそくだけど、沙羅の母親の居所なんだけどね……はっきりした所在は不明。ただ一箇所だけ急に見張りの人数が増えた場所があってね」
胡蝶はそこまで言うと、俺に一枚の折りたたんだ紙を差し出す。俺は胡蝶の表情を見ながらその紙を受け取ると静かに開いた。
紙にはキスマークが付いていた。これは……どういう事だ。
「どこに落ちてたと思う?」
胡蝶が赤い唇を歪めさせてそう言う。
俺は胡蝶の顔を上目遣いで真っ直ぐに見つめた。
「……ブラックオパール……日本最大級カジノさ」
ブラックオパールか。鬼柳……いやあのクソジジイの資金源になってるカジノ……
あの場所か……一番厄介だな。
「見張りの数も増やしてる。罠かもしれない」
胡蝶は眉間にしわを寄せながらそう言う。
確かにその確率もあるな。だがそこに沙羅の母親が拉致されているとしたら……助けなくてはならないだろう。
「……一度行ってみる。胡蝶、色々とありがとう」
俺の言葉に胡蝶が鼻で笑う。
「あんなにぶっきら棒な坊やが、こんなに柔らかくなるとはね。可笑しなもんだね」
胡蝶は俺の顔を覗き込みながら、愉快そうにそう言う。
俺は少し顔が熱くなるのを感じた。なんとなくそれが恥ずかしくて俯いた。
「藪さんも、坊やみたいになれたら違った生き方ができたかね……」
胡蝶はそう言いながら横を向き、何かを懐かしむように遠くを見ていた。
たぶんヤブ医者の事を刑事から聞いたんだろうな。
「藪さんの人生は、医者免許を剥奪された時に終ったんだ……悲しい男だよ。まったく……私も藪さんもどこでどう間違えたのか、闇の中に足を突っ込んじまった」
胡蝶はそう言いながら、涙を一筋流した。
ヤブ医者がどうして医師免許を剥奪されたか俺はよくは知らない。だが胡蝶と結婚しようとしていた事だけは知っている。
その当時は胡蝶も普通に看護師をしていたらしい。
どこをどう転がって、二人の人生が違う方向へと転がっていったのか理由はわからないが、その裏側には自分達の力ではどうにもならない、大きな流れに押し流されてしまった深い悲しみを感じた。
「沙羅を私達の住む世界に落ちないようにしてあげないとね。しっかり落ちないように手を掴んであげるんだよ」
胡蝶は真剣な表情で俺を見るとそう言った。
ヤブ医者が俺に最後に言った言葉を思い出す。
「俺みたいな失敗をするな」深い後悔を感じさせる言葉だった。
何かの事情があって胡蝶との関係が壊れ、胡蝶の大事な妹を闇に落とす手伝いをしてしまった事を、ずっと後悔していたんだろうな。
俺の心の中の古傷が疼く。妹を自分の手で葬ってしまった過去。
俺は左手で顔を覆うようにため息をついた。その時だ一瞬眼の前に光が見えたかと思うと、沙羅の笑顔が現れて俺に微笑みかけて通り過ぎて行く。
俺は思わず苦笑いをした。
「そうだな……沙羅だけはかならず守るよ」
俺はそう言って立ち上がると、ドアへと向う。そんな俺に向って背後から胡蝶の声が聞こえてきた。
「藪さんのお墓は私が建てる事にしたから……お参りに行ってあげてね。あの人きっと貴方に感謝してたはずだわ」
少しだけ、胡蝶としてじゃなく小百合としての雰囲気を漂わせながらそう言った。
「……そうだな。それまで生きていられたらな」
「坊やは死なないよ。絶対に」
俺の言葉に胡蝶の凛とした強い言葉が返ってきた。何を根拠にそんな言葉を言ったのかわからない。もしかしたらただの気休めなのかもしれない。
だがその言葉には不思議と確信のような強い力が宿っているように感じた。
俺はその言葉を胸に、胡蝶の劇場を後にした。
車を森の中の隠れ家へと向わせる。
太陽が西へと傾いてるはずだが、わからないほど雲は厚く、空気の色も暗く重く圧し掛かってくるようだった。
胡蝶と藪の間にある悲しい過去を知らない玲も、なんとなくそのどうにもならなかった大きな流れを感じた。
藪の最後の言葉を玲は思い出し、沙羅を守ると心に改めて誓う。
玲はブラックオパールに潜入する。そこで何が起こるか!?




