生きてきた人生の清算
私の体は後ろ側に凄い力で引っ張られる。そして……抱きしめられた。
右側にある腕に私の手が触れる……包帯の感触……私はその右腕を優しく触る。
やっぱり包帯が巻かれている。
玲……玲だ……私はそう確信した。胸の中に熱さがこみ上げて、涙が流れる。安心して一気に涙腺の蓋が開いてしまったようだった。
「無事でよかった」
頭の後ろから玲の冷たいけど優しい声が聞こえてくる。
玲の声、息遣い、鼓動、体温……私の体がそれを感じて安心に包まれる。
「此処から離れよう」
玲はそう言いながら私を立たせると、私の手をしっかり握り締め、状態を低くしながら移動する。枯れてしまった草たちが私の手や足をかする様に触る。ヒリヒリとした痛さが残った。
目の見えない私を引っ張りながら歩いてる事で、思ったよりも前に進めない。
私自身が、自分の目に対して腹立たしさを感じていた。
「苛立ってもいい事ないぞ」
前の方から優しい玲の声が聞こえてくる。
なんでわかったんだろう……私は不思議に思いながら、玲が握ってくれてる手を握り返した。
なんとなく玲のクスリと笑う声が聞こえてきたような気がした。
「キャ!」
いきなりの横から衝撃を受けて、玲と手をつないだまま草の上に転ぶ。
暗闇の中に一つの影が立っていた。私は息を飲み込みその影が如月じゃない事を祈る。
「やっとみつけた」
そう言ったのは如月の声だった。一瞬背筋に緊張が走って体が強張る。そして噛まれた首筋に気持ちの悪い違和感を感じた。
玲が咄嗟に私と如月の間に入り込み、私を守るように立ちはだかる。
「玲……このお嬢さんは、人の心を狂わす力を持ってるらしい。あの医者がまさか俺に銃を向けるとはな……そんな事、許されるわけはないだろう? 金にならない殺しをしちまった」
皮肉めいた笑い声とともに如月のそんな言葉が聞こえてくる。
その言葉が私の心に突き刺さった。私の助けるためにヤブ医者が……嘘よ……やだ……
心の中で何かが砕けてしまったような、そんな痛みが私の神経に触って通り過ぎる。
頭の中が、ぼんやりとして、真っ白になってしまったようだった。
「沙羅、如月の言葉は信用するな」
玲のそんな言葉で現実へと引き戻される。
ぼやけていたけど、玲の背中全体が外からの雰囲気を針の先ほども取り逃さないように、神経を張り詰め研ぎ澄ませているように感じた。
その時だ、銃声の音が聞こえた。一瞬息が止まるほどの不安に襲われたけど、玲には当たらなかったらしい。
玲が上半身を動かし、必死に如月の攻撃にかわしながら抵抗してるようだった。
そして、私の目の前に何かが落ちる音がした。音のした場所を手探りで触ると、硬くて少しだけ温もりの残っている何か……形は……拳銃……だ。
私は少しの躊躇もなくその拳銃を拾い上げると、ゆっくりと立ち上がり見よう見まねで拳銃を構えた。意外にも心は静かに凪いでいた。
「動くな!」
私は両手で拳銃をしっかりと支えながらそう叫んだ。声は冷たい空気を切り裂くように響き、空気を震わせた後に、静寂に包まれる。
玲と如月の動きも、空気の動きを感じさせず、止まっているのがわかった。
次の瞬間、玲が先に動く。風のように私の背後に周ると、背後から手を伸ばして私の拳銃を持ってる手に優しく手を添える。
「沙羅……もういい。拳銃から手を離せ」
玲の言葉に拳銃を放そうとしたけれど、がっちりと力が入って握られていた手はすぐには開かなかった。
玲の長い指が拳銃から私の指を一本一本放して行く。そして玲の手に拳銃が握られた。
「……終わりだな」
玲がそう言い終わるか終らないうちに、私は横からの衝撃にまた草の上に転んだ。
それと同時に銃声も響き渡った。
何? 何が起こったの……ぼやけた中には人の影らしき姿が何一つ見えない。
「沙羅……大丈夫か?」
玲の優しい声にやっと心が安心していく。
「玲、怪我は? 怪我は無い?」
私は玲の体に縋りつくようにそう聞いた。
玲の優しい手が私の頭に触れ、静かに緩やかに撫で、手は頬へと滑ってきて、摩るように触った。
「大丈夫だ……如月には逃げられたが、今は深追いは禁物だ……おいで」
玲はそう言うと、私の両肩を掴んで体を持ち上げるように私を立たせ、服についた土をほろった。
そして私の手を優しく握ると歩き出した。
診療所のガラス戸を開く音をさせて中に入る。
玲は如月の言葉を信じるなと言ったけれど、やはりヤブ医者の容態が気になっていた。
オレンジの薄明かりの中に、白い影が横たわっているのがなんとなくわかる。
「沙羅はここにいろ」
玲はそう言うと、その影の傍らに膝を付いた。
「ヤブ医者……ヤブ医者……」
玲の声に反応して、微かに呻き声のようなものが聞こえた。生きてるの?
私は思わず、玲のすぐ後ろまで歩み寄っていた。
「……玲……俺のような……失敗……するな」
微かにヤブ医者の声が聞こえてくる。弱々しく今にも消えてしまいそうな音だった。
「話すな」
玲の短い言葉に、ヤブ医者のいつもの鼻で笑う声が聞こえた。
「……俺に……ピタッリの……さい…………ご」
言葉は徐々に小さくなり、最後は聞こえなかった。そして息遣いがゆっくりと消えていく。玲の深いため息が聞こえた。それが眼の前の現状の全てを物語っているようだった。
心の中に、太い杭を打ち込まれるような衝撃が襲う。その衝撃に耐え切れなくて、その場に落ちるように座り込んだ。
心に大きな穴が開いて、そこから言葉も涙も流れ落ちてしまっているようで、言葉一つ口から出す事もできず、涙一つ流れる事も無かった。
玲は私の方に振り返り、頬を優しく触る。そして左手だけが伸びてきて私を包むように抱きしめた。
何も言わず、ただ抱きしめるだけだった。
玲の肩が震えていた……玲が……泣いている……
私は少し玲の体から自分を離す様にして、玲の頬を触った。濡れていた。
玲は俯くようにして、私に向けて顔を上げようとはしない。ただ声を出さずに肩を震わせていた。
私はそんな玲の体にしがみつく様にして抱きしめる。わからない。ただとてつもなく苦しくて悲しくて仕方がなかった。
自分という存在のために人の命が消えてしまった。
「……私のせいで」
私がそう言いかけた時、玲の左手がより一層力強く私を抱きしめる……そうか、玲は私の悲しみに共鳴して泣いている。私のかわりに泣いてる……
「沙羅……ヤブ医者はお前のせいで死んだんじゃない。たぶん……自分の今までの人生の中でやってきた事への清算をしたんだと思う」
玲のその言葉の意味が分からなかった。
だって私を守ろうとして、撃たれたんだもん。それは確かだから……
「俺には、ヤブの気持ちがなんとなくわかる。お前のせいじゃないんだ」
玲はそう言うと、私の肩に縋るように寄り添ってくる。感じていた。玲の中にある闇が震えて悲しい悲鳴を上げている。
意味はよくわからなかった。ただ計り知ることの出来ない深い深い悲しみと、重い過去を感じた。ヤブ医者も玲も同類の行き方としてきて、同じ何かを感じているのだろうとそう思った。
「だから、お前が責任を感じる事はない……わかったか?」
玲は私から体を少し離すとそう言って、私の顔を見てるようだった。
「お前が悲しむ必要はない……わかったな?」
玲の長い指が私の頬に触れる。優しさが波のように押し寄せて、心を揺らして大きな穴が少し小さくなったような気がした。
「お前は、俺達の世界の巻き沿いをくっただけだ」
玲の言葉は悲しい響きを漂わせながら、私の心に手を差し伸べる。
私の心に冷やかな風が吹く。
なんとなく……玲もこんな風に消えちゃうんじゃないかって……
そんな不安が心を通り過ぎていった。
ヤブ医者は沙羅を守るために死んだ……
闇に手を染めてしまった者の死に様とはこうゆうものなのかもしれない。玲はそう思っていた。
玲と沙羅はどうなっていくのか?
沙羅の母親救出のために少しずつ動き出す。




