過去の記憶の中 漂う淋しい空気
柔らかい日差しの温かさが頬に感じる。体はまだ重いけれど、体の熱さは無くなっている。
体調がだいぶよくなっているみたいだ……私はそう胸を撫で下ろした。
でも目は……ゆっくり目を開けてみる。やっぱり真っ白い霧に覆われているようにしか見えなかった。
玲……玲……私は玲の存在を手探りで探す。手元のどこを触っても見つからない。
ゆっくりと上半身を起こして、見えない目で周りを見渡す。だけど人らしきものは見えなかった。
どこに行ったの? 目が見え無い事も手伝って強烈な不安に襲われる。
「玲……玲!」
叫び声にも似た声で私は玲の名前を呼んだ。
その声に反応するように廊下をスリッパで走る音が聞こえて、ドアが開いた。
「玲……」
私は手を伸ばす……ぼんやりとした視界の中に、なんとなく玲とは違う影が映る。
誰……私は咄嗟に伸ばした手を引っ込め、体を緊張させる。
「安心しろ。ここのヤブ医者だ」
ヤブ医者の声に、私は少しだけ安心し、そしてガッカリした。
「玲は?」
「車を処理しに行ったのと、病院にも行くと言ってた。ここじゃ応急処置しかできないからな」
ヤブ医者はそう言いながら私の額に手を当て、布団をお腹のあたりまでめくると私のブラウスのボタンを上から二つはずして聴診器を当てた。
「うん、熱は下がったみたいだし、呼吸もいい感じだ……目が見えないんだって?」
ヤブ医者の言葉にドキッとする。自分がこのまま目が見えない状態から脱せない事を、決定づけられるのではないかとドキドキしていた。
ヤブ医者は胸のボタンを閉じると、目を指で開いて私の瞳を見た。
「確かに白く混濁してるみたいだな。真っ白い霧がかかったみたいに見えるんだろう?」
その通りだった。やっぱりこのまま見えないままなのだろうか……。
私の不安そうな顔を察したのか、ヤブ医者は私の頭を撫でる。意外にもその感触は優しいものだった。
「眼科は専門外だからはっきり言えないが、手術すればおそらく見えるようになるだろう」
ヤブ医者の言葉が一瞬、左の耳からから右の耳を素通りして行き、頭の中に言葉が残らなかった。
私のキョトンとした表情を見て、聞こえているのか不安を感じたのか、ヤブ医者が私の頭を押さえ込むようにもう一度撫でる。
「聞こえたか? 見えるようになるって言ったんだぞ」
ヤブ医者が私の耳元に口を近づけてそう言った。今度は確かにその言葉が頭に響き渡った。
「見えるようになるの……ね……」
「ああ」
私の心の中は安堵感で一杯になった。また玲の顔を見れるようになる。よかった……
安心したと同時に怒りに似た感情が湧き上がってくる。祥はなぜあんな嘘をついたのかしら……
私を精神的に痛めつけるため? そうとしか考えられない。私の反応を見て楽しんでいたに違いない。
そう考えると怒りがジワジワと込み上げてくる。今度会ったら絶対に許さない。
ヤブ医者が私に背を向けて出て行こうとして足を止める。
「っと、そうそう、そう言えば玲が女街にも寄るって言ってたな。帰りが遅くなっても心配するなと……まったくなんで俺がアイツのフォローをしなきゃいけないんだ」
ヤブ医者は小声でそんな文句を言っていた。
「ねえ……ヤブ医者さん、玲と胡蝶姉さんってどんな関係……なの?」
胡蝶姉さんが前に言っていた「借りがあるって」どういう意味なのか、そして松永恭次郎に対しての思いが気になっていた。
ヤブ医者は私の問いに振り返りながら、ゆっくりと私の方に近付いて、傍らにおいてある椅子に腰掛けた。
「聞きたいか?」
ヤブ医者はため息混じりそう言った。悲しみを含んだ淋しい雰囲気が空気に混じっているような気がする。
私は静かに頷いた。
「小百合はな、ああ小百合ってのは胡蝶の本名だ、アイツには妹がいたんだが……シャブにはまってしまってな。シャブ欲しさに鬼柳のアホどもにそそのかされて、小百合の命を狙ったのさ。小百合の腹には刺された痕が残ってるよ」
かなり衝撃的な内容だった。胡蝶姉さんに妹がいて、その妹さんが胡蝶姉さんを殺そうとしたなんて……だけどそれと玲とどういう関係が……
そう考えて、その先の事になんとなく予想がつく自分がいた。
「小百合の妹を殺したのは玲だよ。あの時玲が殺らなかったら、小百合は死んでいた。小百合には自分の妹を殺す事はできないだろうからな」
ヤブ医者はそう言いながら私の後ろにある窓の外を見ているようだった。
そう……やっぱり……ね。玲の悲しい瞳を思い出す。私の胸が締め付けられるように痛んだ。
シャブに溺れたのにはきっと松永恭次郎がからんでいるのよね……私はため息をついた。
ヤブ医者に纏わりつく悲しい空気、このヤブ医者と胡蝶姉さんの関係って何なのかしら……本名で呼ぶしアイツなんて言い方、親しい感じだけど……
「ヤブ医者さんは胡蝶姉さんの事が好きなの?」
私は直感的にそう思った。だってなんとなく名前を言う口調に温かみを感じたから。
玲と話す時とは全然違う感じだった。
私のその言葉にヤブ医者の鼻で笑う声が聞こえてきた。
「……だから玲には借りがあるのさ」
ため息を混ぜたような小さな微かな声でそう言った。今の言葉……胡蝶姉さんの事じゃなくて、自分が思った言葉に感じた。胡蝶姉さんの事で玲に借りがあるって事? やっぱりこのヤブ医者は胡蝶姉さんに特別な思いがあるのかもしれない。
「これだけ長く生きてると、色々な事情やしがらみがあってね……自分の思うようには人生が転がらないもんさ」
ヤブ医者が淋しそうな声でそう呟いた。
この人っていったいいくつなんだろう? この前あった時の印象だと40歳くらいかな……
この人にも何か重い過去があるのだろうと感じた。玲も胡蝶姉さんもこのヤブ医者も色々な過去を持っている。
それに比べたら私の人生なんて可愛いもんね。私はそう思って苦笑した。
「ヤブ医者さん、元気出して」
ヤブ医者からとても淋しそうな悲しい雰囲気を感じて、思わずそう口にしていた。
たぶんヤブ医者に言ったと同時に、自分にも言った言葉だったかもしれない。
ヤブ医者が私の頭を撫でる。それはとても優しく温かい手だった。
「最近、玲の顔が柔らかくなった……それはきっとお嬢さんの影響だな。お嬢さんと玲がうまくいく事を祈っているよ」
そう言って、ヤブ医者は立ち上がるとドアを開けて出て行った。軋む音をさせながら閉まる音が聞こえた。
私の周りを静けさが包む。窓の外から風の音、街のざわめき……耳の中にさまざまな音が入り込んでくる。こんなに沢山の音の中でいつも暮らしていたんだな……
見える事に頼っていた時は、気付かなかった事……
あれ?……嫌な予感。なんとなく足の方がスースーする。
私は布団を上げて、自分の手で太もものあたりを触った。やっぱり何も履いてない。
またやられた……もう……玲の馬鹿……
そう思いながら、私の心の中には心地いい温かい風が吹いていた。
あまり動きのない展開で、退屈かもしれませんが、もう少しの辛抱を……
玲と胡蝶姉さんの過去につながりがあった事を知った。
そしてヤブ医者と胡蝶姉さんの間にも何かが特別な感情があるのだという事を感じた。
少しの間、玲と沙羅の穏やかな時間が訪れます。
嵐の前の静けさです。




