凪いでいる海のように
廊下の壁にもたれながら、閉められたドアを見つめていた。
沙羅がドアの向こうに入ってから、まだ15分くらいしか経っていないのに、時間がとても長く感じた。
ドアが軋む音を響かせながら開く。ヤブ医者が出てきて俺の顔を上目遣いで見た。
「入れ」
そう短い言葉を言って、また診察室に入って行く。俺もその後を追って中に入りドアを閉めた。
沙羅がベッドの上で眠っていた。
「お前は此処に座れ」
ヤブ医者にそう言われて、沙羅の横にある椅子に腰を掛ける。ヤブ医者は俺の腕を机の上に置くと治療を始めた。そして静かに口を開き言葉を綴る。
「ここ最近、裏で出回っている薬がある。即効性の睡眠薬と謳っているが、かなり強い精神安定剤の成分も入っているらしい。鬼柳組が中国から大量に仕入れていると聞いてる」
ヤブ医者は腕の治療をしながら淡々とした口調でそう話す。
「つい昨日も一人、それで運び込まれた。まあその女は一日で熱も下がって回復したがな。もし同じ薬を飲まされたんだとしたら、熱はその副作用と疲れによるものだ、2、3日ゆっくり休めば大丈夫だと思う」
ヤブ医者がそう言いながら俺の腕の血を拭き取る、傷口が開き血が流れていた。
「しかし、この傷は深いな……」
そういいながら消毒をして縫合しようした。
「目はどうなんだ?」
俺は沙羅の目の事が気になっていた。ヤブ医者に噛み付くようにそう聞いた。
「目? 目がどうかしたのか?」
「沙羅が目が見えないと言っていたんだ」
ヤブ医者は俺の言葉に、一瞬眉間にしわを寄せて考え込む。
「起きてから診てみないと何とも言えないが、もしそれが薬の副作用によるものなら、見えるようになる可能性も無いわけじゃない」
ヤブ医者のその言葉に俺は少しだけ明るい光が見えたような気がした。
こいつの性格を考えた時に、相手の事を思って優しい言葉を言うなんて事は考えにくからな。
目が見えうようになる可能性があるというのも気休めではないだろう。
ヤブ医者は縫合し始める、俺は歯を食いしばって痛みに耐える。
「さあ、終った……しかしかなり深い傷だな。出血もかなりしている。よく普通に立ってられるな?」
ヤブ医者が皮肉っぽい笑みを浮かべてそう言う。
大丈夫なわけがないだろう……そう思いながら俺は鼻で笑う。俺の腕には真新しい包帯が巻かれた。
「俺は一番奥の部屋にいるから、あとは自由に使え。」
そう言いながらヤブ医者は立ち上がった。
「ああ、わかった」
ヤブ医者はドアを開けて出て行った。俺は診察室の奥の部屋に入って行くと、服を引っ張り出して着替える。
右腕に痛みが走る。指は動かないのに痛みだけは感じるなんてな……
少し安心して気が抜けたせいか、痛みがまい戻ってきやがったか。
俺はクローゼットの中から、沙羅の着替えとして俺のシャツを一枚出し、それを持って診察室に戻りベッドの足元に置く。
枕元にあった洗面器にお湯を入れ、タオルをその中に入れて持ってきた。
こいつがここに始めてきた時もドロドロで、今もドロドロだな……何もなければお嬢様だっていうのに。
汗をびっしょりにかいてる額。二重の瞼。小さな鼻。赤みの差した頬。柔らかい赤い色の唇。
どれをとっても俺の好みじゃないのに、こんなにも愛おしい。
俺はそんな事を思いながら、タオルをお湯に浸して絞ると、沙羅の顔や体を拭いた。
いつも一生懸命で、自分の事よりも俺の事を心配して……馬鹿だな……またっく。
俺は一つため息をついた。
いずれこの場所もクソ坊主や如月に知れるだろう。できるだけ早くに此処を離れた方がいい。だが沙羅がこの状態では今は動かせない。とりあえず熱が下がらないと……。
俺は沙羅が着ていたブラウスを脱がせて体を拭く。平らに近いその小さな胸の上には刀傷……あのクソジジイ……俺は自分の中の怒りを抑えながら沙羅の体を拭く。心臓の鼓動が早いリズムを刻んで、俺に伝わってくる。
沙羅の体に俺のシャツを着せる。片手だけで着せるのは大変だった。
次に履いていたジーンズを脱がせる。汗で濡れていてなかなか脱がせられなかったが、やっとの思いで脱がせると、沙羅の足を丁寧に拭く。
またこのままの状態にしておいたら怒るかな。そんな事を考えながら俺はクスクスと笑っていた。楽しいと感じる自分に驚き苦笑する。
下着の上に大きめのシャツ一枚という姿のままで布団を掛ける。そしてベッドの傍らに座り、沙羅の顔を見つめた。
汗が額を伝い流れていた、俺はその汗をタオルで拭く。
「……玲」
沙羅の唇から漏れた名前。
その言葉が俺の心臓を揺るがす。鼓動が早くなり、思わず沙羅の顔に自分の顔を近づけていた。
そんな自分に気付いて、動きが止まる。躊躇していた。自分の心の箍が外れる事に恐れを感じていた。
そんな臆病な自分に苦笑する。心の中では沙羅への思いが膨れ上がって苦しかった。
俺は沙羅の額にある髪の毛を掻き揚げた、二重の閉じられた瞼……あたたかくまるで天使のような寝顔だった。
沙羅への思いの強さに箍が押し流される。
俺は沙羅の唇へ自分の唇を重ねた。前の時の口付けとは自分の心の中の意味合いが違っている。自分自身が怖がっていた人を愛するという事を、自ら望み気持ちは真っ直ぐに歩み始めていた。
守りたい気持ちの他に、沙羅の存在を生きる糧としたい自分が生まれていた。
共に手を繋ぎ、共に歩き、共に愛し合いたい……そんな気持ちが強く心を揺さぶっていた。
俺は沙羅の唇から離れると、左手で沙羅の手を握る。温かい手だった。
沙羅の手を俺の頬にあて、その手に縋るように布団を枕にうな垂れる。
いつまでも一緒にいよう……なあ沙羅……
誰が何と言おうと、どんな事があろうと、お前に対する俺の気持ちはもう揺るがない。
過去のしがらみも、足枷のような重い恨みも、お前を愛する気持ちに比べたら、色あせてしまう。お前と一緒にいる時だけ、心は凪いでいる海のように穏やかでいられる。
愛しているよ。
俺は静かに目を閉じ、そして安らかな時間に吸い込まれていく感覚に身を委ねた。
沙羅の目がもしかしたら見えるようになるかもしれないと聞き、玲は一安心する。
二人の間にはひと時の安らぎが流れていた。
シュリュウと沙羅の母親はどうなったのか?
祥と如月の行動は?
玲と沙羅の安らぎはまたしても壊されてしまうのか?




