太陽の欠片を握り締める
後ろからの気配が近付いてくるのがわかる。諦めるな。俺の中でそんな声が響きわった。
そうだな、やるまえから諦めたらそれで終わりだ。諦めるならとりあえずやってみてからだな。
俺は2、3歩後ろに下がり、深呼吸をして神経を集中し、意を決して地面を蹴った。
崖に向って軽く助走をつけ、できるだけ高く飛ぶ。崖肌を足場にして右足を引っ掛け、左の腕と足を崖の上に上げる。一瞬動きが止まり、崖の下へと体が引っ張られそうになる。沙羅はその細い腕で俺の着ている服を力一杯握り締めて引っ張った。俺は沙羅のその力を利用しつつ、左の腕と足に力を入れて、上へと体を持ちげるようにして這い上がった。
地面の上に手足を投げ出し、大の字になって深呼吸を何回もする。
「よかった」
横で沙羅の安心したような声がした。
俺はゆっくりと起き上がり、立ち上がった。
遠くの方で朝日が顔を出し始めている。
崖の下の木々の中から複数の人間の気配と話し声が聞こえてくる……何を話しているのか、そこまでは聞き取れないが、その中に確かにクソ坊主の声を聞いたような気がした。
俺はあたりを見渡す。すると一軒の民家の前に駐車してある車に目が止まる。あれを拝借しよう。
俺は沙羅の脇に手をいれ、体重を持ち上げるように立たせる。沙羅は深いため息をつきながら立ち上がった。
かなり疲れているように見えた。
俺は沙羅の体を支えるようにして歩く。沙羅もそれに引っ張られるようにしてゆっくりと足を進める。たかが50メートルくらいの距離が異様に長く感じられた。
やっとの思いで車にたどり着く。冷たい空気の中をピーンと張り詰めたような静けさが纏わりついていた。
車のドアに手を掛け開けてみるが、やはり鍵がかかっていた。
ふと家の脇に、手入れの行き届いた綺麗な石で縁取られた小さな庭を見つける。
俺はその石を手に取ると、できるだけ音を立てないようにして窓ガラスに叩き付けた。
ガラスにはヒビが入り、粉々に砕ける。中に手を突っ込んで鍵を開けると乗り込んだ。
配線を引っ張り出して接触させ、エンジンをかける。
沙羅は重そうな体を引きずりながら、ドアを開けると助手席に乗ってきた。
深いため息と供に座席の背もたれに体重を預け、静かに目を閉じる。その表情は疲れきっていて、そのまま目を開けないのではないかという不安さえ感じるほどだった。
俺は車を発進させる。沙羅の言った通りに此処は山の麓だった。走り出すとすぐに大きな国道に出た。
空は光の色を帯びながら、明るい青に染まっていく。オレンジ色の外灯が色あせるように輝いていた。
沙羅の容態が心配だった……目が見えなくなったと言ったが、本当にこのまま目が見えなくなるのだろうか? もしもその話があのクソ坊主の入れ知恵だったのだとしたら、嘘だということも有り得る話しだ。
熱も心配だった。原因はいったい何なんだ?
俺はそんな事を思いながら、自分の中の沙羅を失う事への恐怖感と戦っていた。
沙羅という存在が自分の中でこんなにも大きくなり、幅をきかせて心を覆ってしまうとは。息苦しい束縛を感じる。
だが沙羅を失う事に対しての恐怖は、その息苦しい束縛を塗りつぶすかのように存在して、このまま沙羅を手放したくないという気持ちをより一層強くしていった。
沙羅の存在を求めている自分に苦笑する。
とにかくヤブ医者の所に急ごう。
信号の青が濡れたアスファルトに映り込み、まるで俺達を導いているようだった。
俺はアクセルを踏み込み、スピードを上げ車を走らせた。
「ヤブ医者!」
俺はヤブ医者の診療所のドアを叩く。
ガラス越しに白いカーテンが揺れ、中から分厚い眼鏡をかけたヤブ医者が顔を出した。
俺の顔を見たとたん、ヤブ医者の顔は不機嫌極まりない表情を浮かべる。そしてゆっくりとドアの鍵を開けて、俺たちを招き入れる。
「朝っぱらからうるさいぞ」
ヤブ医者の第一声はそれだった。いつもなら言葉を返す所だが、今はそんな暇は無い。
「とにかく、沙羅を見てやってくれ」
俺はそう言いながら、奥の部屋にあるベッドの上に沙羅を寝かせる。
ヤブ医者は嫌味たらしい笑みを浮かべながら、微笑んだ。
「報酬はいつもの3倍だぞ。いいな」
分厚い眼鏡を光らせてヤブ医者はそう言った。
金の亡者め……心の中でそう思ったが、今は沙羅の体調を改善させる事の方が大事だ。
「わかった、わかった……とにかく早く見てやってくれ」
「フン……じゃあ、俺が呼ぶまで廊下で待ってろ。その後お前の手の方も見てやるから、それまで倒れずに待っていろ」
ヤブ医者は、淡々とした口調でそう言い、俺を廊下に追いやるとドアを閉めた。
沙羅……俺の心が沙羅を呼ぶ。
お前を愛している……言葉に出来ない程の重い思いが心の奥底から湧き水のように溢れてくる。
お願いです。俺の前からあの笑顔を取り上げないで下さい。
俺はそんなわがままな願いを、生まれて初めて目に見えない神に祈っていた。
窓にかかる白いカーテンの向こう側から温かい太陽の日差しを感じた。
夜が明けたな……
カーテンの隙間から光が細い線を作って差し込み、俺の掌の中に太陽の欠片を落としていた。
沙羅……太陽の欠片をゆっくりと優しく握り締めた。




