渦巻く怒りと憎悪
ママ〜!ママ!虫!こわ〜い!
「ほら虫だって一生懸命生きてるのよ」
……お母さん……優しい笑顔。
夢を見ていた……
私は薄っすらとした意識の中で玲が言った言葉を思い出した。
「虫だって一生懸命生きてるんだ、仕事以外の殺生はしない」
母と同じセリフを言っていたな。私はまどろみの中でそんな事を思っていた。
目を閉じていても日差しの温かさを感じる。ゆっくりと目を開ける。頭がまだ痛かった。
「お嬢様、お目覚めですか? 心配したんですよ」
そう言って私の顔を覗き込んできたのは斉藤だった。
「上原さんが夜中にお嬢様を抱えてきた時は本当にビックリしたんですから。でも熱も下がって一安心です」
斉藤はそう言いながら、私の額に手を当てる。
私は熱が出て倒れたんだ。ホテルのトイレでの出来事を思い出す。まだ胸がムカムカして気持ちの悪さが残っていた。
「父は……」
私の言葉に斉藤は一瞬、表情を曇らせた。
「今朝、蔵元様からご連絡があって、その後、ご自分の部屋に入ったきり出てきていません。お嬢様が気がつかれたら連れて来る様にと」
斉藤が私の顔を見つめる。心配そうに不安に満ちた表情だった。
私はゆっくりと起き上がる。少し頭が重たくて軽いめまいを感じる。
「斉藤、私の洋服を取って」
私の言葉に斉藤はクローゼットの中から適当に服を選んで持ってくる。
私はその服を受け取ると着替えた。
「お嬢様」
斉藤が何か言いかけたのを私は言葉で遮った。
「大丈夫だから、あまり心配しないで」
そうは言ったものの、正直もの凄く恐怖を感じ、心は押し潰れそうになっていた。
私は部屋を出て階段を下りる……1階の奥にある父の部屋へと向う。
父の部屋の前で一瞬足を止め、小さく深呼吸した。私の中の恐怖は父への決別を決意させていた。
私はドアをノックする。
「入れ」
父のしゃがれた低い声が中から聞こえてきた。私はドアを開き中へ入る。
父の傍らには上原が立っていて、右側半分の顔が腫れ、青くアザになっていた。
きっと父の仕業に違いない。
「上原、後で呼ぶから外に出ていろ」
父の言葉に上原はほんの一瞬だけ父を見る、だけどすぐに歩き出して無表情のまま私の横を通り過ぎ、部屋から出て行った。
「沙羅……お前は母親にそっくりだな」
父は呟くようにしゃがれた声でそう言った。その声のトーンは静かで淡々としていて不気味さすら感じる。
「愛からは金も生まれないし、権力の糧にもならん、無意味な感情は捨てろ」
父は机の上で手を組み、冷たい目で私の見つめながらそう言った。
「……嫌」
やっとの思いで搾り出した言葉だった。恐怖に覆われた心は萎縮していた。だけど自分の意思だけはしっかりとその場に踏ん張り踏みとどまっていた。
父は私のその言葉にニヤリと嫌な笑みを浮かべる。
「いい事を教えてやる。お前の母親はわしの意のままにはならなかった……だから身を滅ぼした」
父はそう言うと愉快そうに声を小さく漏らしながら笑った。不気味な笑いだった。
「……殺したの?」
私の口から自然とその言葉が漏れていた。父は一瞬笑いを止め、私を鋭い目で睨みつけてきた。
「だとしたら?」
父は冷たく地を這うような声でそう言った。
その言葉に私は全ての感情がすっ飛んでしまうような強い衝撃を受ける。
許せない、許せない! 許せない!! 私の中にあった恐怖は凄まじい怒りに押し流され消えていく。
私の体は自分の意思よりも早く走り出し、拳を握り締めて父の机の上に飛び上がり、拳を父の頬めがけて振りかざしていた!
一瞬、自分の眼の前に光が走ったような気がした。そしてその光の威力に押されるように私の体が後ろ側に倒れ机から転がり落ちた。
父の手には刀が握られていた。
私の胸のあたりの服が横一文字に切れ、血が滲んでいた……痛みが走る……
「お前の価値は蔵元と結婚してこそ価値があったものを、それを自ら価値を下げてしまうとはな」
父の表情は人間味を感じさせなかった。愛情や正義、理性の欠片もなく、欲に支配された怪物に見えた。
私は切られた胸元を押さえてその場に膝を付き立てなかった。
自分の父が娘である私に対して刀を抜いた。破られた絵本のページと同じ……とてつもない悲しみが心を覆い、動けなかった。
「お前はもうわしにとって価値のない存在だ。だが他の事には使えるじゃろうから生かしておいてはやる。ありがたく思え」
父はそう言い放つと高らかに笑った。そのしゃがれた声が頭の中にこだまして気分が悪くなりそうだった。
「上原!」
父が上原を呼ぶ、すると上原はドアを開き部屋に入ってきた。上原は私の方を見る事なく無表情だった。
「沙羅を山の別荘へ連れて行ってもらいたい」
父はそう言いながら刀を自分の杖に収めた。山の別荘、深い深い山の中にある別荘、交通手段は車だけ、電気と水は一応通ってるけどまず人は入ってこないし、徒歩で下山する事は登山のスペシャリストならともかく素人ではまず無理だった。
上原が私の腕を掴んで、私を立たせる。
私はムカムカしていた。頭にきていた。腸が煮えくり返りそうだった。
「あんたを絶対に許さない!」
胸が押し潰されるように痛くて声になったのか良くわからない。自分の中に凄まじい怒りと父に対しての憎悪が渦を巻き、私の心を容赦なく傷つけた。
私のその言葉に父はまるで面白いおもちゃでも見つけたかのように、高揚し笑みを浮かべていた。
私は上原に肩を抱かれて部屋の外に出る。上原は無表情のまま台所へと私を連れて行く。
そこには斉藤がいて、とても悲しい表情を浮かべて私を見ていた。言葉を口にする事無く急箱から消毒薬を出し、私の傷の手当をし始める。
斉藤は泣いていた……声を出さずに泣いていた。
父が母にした仕打ち。それは許す事ができない……
絶対にこのままでは終われない。
松永恭次郎は沙羅に刀を抜き切り付けた。
沙羅は衝撃を受け、酷く心を痛めつけられる。
父が母に対してした仕打ちを絶対に許す事はできない!
山の別荘へ向う途中、沙羅にとってチャンスが訪れる!




