二人を引き裂く犬の声
雨の音は消え、夜の闇に割って入るように月の光が差しはじめた。
虫の鳴き声が聞こえてくる。
「雨が上がったわね……立てる?」
お嬢さんの優しい声が響く。
その時だった。お嬢さんの膝の上にコオロギがちょこんと乗っかった。
お嬢さんの顔が一瞬にして硬直するのが見えた。ヤベ!
俺はお嬢さんの口を手で塞ぐ。ここで叫ばれちゃあまずいからな。
お嬢さんはギュッと目を瞑って、泣きそうな表情を浮かべていた。
こんなコオロギなんかより殺し屋の方がずっと怖いと思うけどな。
俺はそう思いながら、お嬢さんの膝の上に乗っかったコオロギを優しく掴んで、夜の闇に逃がしてやる。
俺はお嬢さんの口から手をどける。
「虫には優しいのね」
お嬢さんのこの言葉には笑えたな……だけどいつの頃かわからないけど素直に笑えなくなった俺がいる。
「虫だって一生懸命生きてるんだ……仕事以外の無用な殺生はしない主義なんでね」
俺のその言葉に、お嬢さんはキョトンとした表情を浮かべていた。
「何だよ?」
「ううん、ううん別に……」
お嬢さんはそう言って立ち上がった。そして俺に手を差し出す。
差し出された手に、俺は一瞬手を伸ばしそうになった。だが寸前で踏みとどまる。
俺の中にある闇がそれを許さなかった。
いってぇ……
俺は自力で何とか立ち上がり、足を引きずりながら歩き始める。
さっきは雨で見えなかったが百メートル程先に橋が見えた。車も通っているようだ。
「ここからはもう俺一人で大丈夫だ。借りはこれでチャラだ! いいな!」
俺はお嬢さんに背を向けて歩く。
今、あいつがどんな顔をしているのか……無性に気になったが、俺は振り返らずに前だけを向いて歩く。
するといきなり俺は腕を掴まれる。お嬢さんは自分の肩に俺の腕を回した。
俺は足を止めてため息をつく。
「俺に構うな!」
俺の言葉に動じる素振りさえ見せずに、お嬢さんは微笑んでいた。
「残念だけど、こんな怪我してるのに放っておけるほど薄情にはなれないの」
そう言って、俺を真っ直ぐな瞳で見る。何の曇りも無い澄んだ瞳だった。
「お嬢さん、いい加減にしろよ」
「ああ、それからそのお嬢さんって止めてね、沙羅って呼んで! さあ行きましょう」
お嬢さんはそう言った。何なんだ!? まただ、流される……ついついこいつのペースに流される。
まったく……俺はどうしちまったんだ。
お嬢さんは俺に肩を貸しながら歩く。俺はそれに従うように歩いた。
橋が見えてきた。お嬢さんが橋の脇の土手を必死で登る。そして俺に手を伸ばす。俺は素直に手を伸ばしお嬢さんの手を握った。
優しく微笑んだお嬢さんの笑顔が印象的だった。
俺達は橋の上へと上がる。
「ここに出るのか」
俺の目的地からそんなには離れていないな。
ワン!ワンワン!!
何!? 遠くの方から犬の鳴き声が聞こえる。
「まずい!」
お嬢さんがそう言って、俺の手を掴み走ろうとする。
「つうっ!!」
だが俺の足は走れる状況ではなかった。
お嬢さんは俺の足を見る。そして目線を俺の顔へと上げる。目が合った。
「私が何とかする。だから逃げて!」
お嬢さんはそう言うと、繁みの中から落ちていた棒切れを持ってきて握り締める。そして犬の鳴き声のする方を向いて身構えた。
犬の鳴き声がどんどん近付いてくる。
「早く逃げて!何も考えずに早く逃げて!」
お嬢さんの声に急かされる様に俺はその場を後にする。後ろ髪を引かれる思いだった。
俺は現状でできる限りの力を振り絞って逃げる。
ギャン!……キャンキャン!!……
遠くの方で、犬の痛々しい声が聞こえた。
俺はなんとかバス通りまで出た。
パン!パン!
銃声!? 道路の車の音に掻き消されてしまったが、今のは確かに銃声だった。
沙羅……俺は無意識の中で後ろを振り返り、心臓が高鳴るのを感じた。
無事でいろ……そう願う自分がいた。
違う! 違う違う違う! 俺はあいつの事なんて何とも思ってない。ただちょっと情が移っただけだ……俺は自分の気持ちに嘘をつき、無理矢理正直な気持ちを否定した。
俺は自分の心を意図的に闇で覆う。俺は殺し屋だ……なあそうだろう?
誰に問いかけるわけでもなく。そう自分の言い聞かせていた。
俺は道路向かいに渡り、公衆電話から電話をする。
「ああ、俺だ……悪いんだけどな、迎えに来てくれ……場所は地下鉄森林公園駅の所だ……ああわかってる」
ガチャ……
電話を切った。
俺は時計を見る。午後11時40分。
この時間で助かったな。この辺りは夜中になれば人通りがほとんど無くなる。
俺は公衆電話の奥の茂みに倒れこむようにして座る。
撃たれた足……太ももに巻かれたドレスの切れ端が、真っ赤に染まっていた。
沙羅……か……
「面倒くせぇ女」
俺はそう呟きながら、胸元の服を力強く握り締めていた。
玲は戸惑っていた。自分の中で今まで作り上げたものが崩れ、新しく何かが生まれるような気がしていた。
だが自分の中の闇がそれを許さない。
犬の鳴き声、銃声の音。
沙羅はどうなってしまったのだろうか…




