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◇◆◇◆ 1-6
私は凡人で、明人はハイスペック人間。
だから考えることは分からない。
そんな三段論法もどきが成立すればよかったんだけど、残念ながら私たちは大学卒業まで一緒に暮らした家族同然だ。
明人の頭の回転の早さにはついていけないけれど、おおまかな考えは分かる。……はずだった。でも今は分からない。
なんで抱きしめられてるんだろう。
私と明人はただの従兄妹……というには一緒に暮らした期間が長いけれど、とにかく身内だ。そして、三十五歳になった今まで明人にこんなことされたのは一度もない。……あ、いや、正確には一度あるけど。
引き取ってもらった直後の、中学生時代だから、あれはノーカウントだろう。カウントしたとしてもあれから二十年近くそれらしいことは何もなかったんだし……意味が分からない。
「ここに来てから、初めて笑っただろ」
この体勢で明人が口を開くと、耳元で囁かれている事になる。
他意もない関係なのに、ドキっとするのは己の経験値の少なさの現れだから、なんだか悲しい。
「ええと……そうだった?」
「ああ」
心臓に悪いのではなれて欲しいのに、それを言うと明人を意識してるみたいで言えなかった。何かあるはずのない私と明人の間柄なのに、一人意識してるのは滑稽だし明人に失礼だ。
「余裕なんて、ほんとに無いんだ」
ああ、話はまだ終わらせてもらえないのかと、ぼんやりと思う。
「着の身着のままでこんなところに放り出されて。近くに川があるから水は調達できても、食料は手に入らない。後ろの建物は、およそ生活拠点と思えないから屋根下にはいれるぐらいのメリットしかない。どういう生態系か分からないから何に気をつけたらいいかも分からない。そんな状況で余裕なんて、ない」
……ソウデスネ。
今の苦境を、改めて語ってくれなくてもいいのに。なんだか私まで絶望的な気分になってきたよ……。
「でも美弥がいる」
そりゃ居ますけど。
もうほんとに、明人がさっぱり分からない。私が私なんだろうかという以前に、明人が別人に思える。でも明人だ、という確信もある。……うん、訳が分からない。
気づいてから一番、混乱してる自覚はある。
「最初はいつも通りつれなかったけど、でも話してるうちにそうじゃなくなったから」
私の明人と接する態度は、外モードと家モードの二種類ある。
外ではとにかく接点を少なく、会話は必要最小限に。親しいと思われないように素っ気なくする。
でもそれを明さんたちの前でするととても悲しまれるので、他人がいない場では家族として。
一緒にいる時に向けられる嫉妬や侮蔑の視線は、慣れるものでも、楽しいものでもない。何をしても「明人の従兄妹」としか見られない状況も嫌だ。私は私なのに、明人が凄すぎて、付属品扱いしかされない。だから、明人を避ける。
他人の目を意識する自分にうんざりしつつも目先の過ごしやすさに、ちっぽけな安心を覚えるのも事実。
ただ、明人本人に問題があるのでも、明人を嫌いなわけでもないのだ。問題は私自身や周囲であって、明人ではない。
何も気にせず、明人と接する時間が楽しいのも事実。
気兼ね無く過ごす時間は、肩の力がぬけて、とても楽だ。まるで本当の家族のように、互いを思いやりながらも冗談を言ったりして笑う時間は宝物にも感じる。前触れもなく、いきなりなくなる事もあるのだと知っているだけに。
よく考えれば、明人は両極端な態度によくつきあってくれるものだ。わりと聖人君子に近いと思う。
「余裕があるように見えたなら、それは浮かれてたからだろう」
「……どこに浮かれる要素があるっていうのよ。ねぇ、本当に大丈夫? やっぱり頭打ったでしょう?」
分からないを通り越して心配になってきた。
だって、ねぇ。さっきあれだけ厳しい現実を語っておいた直後に浮かれる発言。明人らしくもない。
「美弥が普通に接してくれたら、他はどうでもいいんだ」
「……」
絶句した。
これは誰だ。確かに明人だけど、言動がおかしい。
「そっちの事情だって分からないでもないし、家では普通だから我慢してたけど。どっちが本音か分からなくなるし、わりと限界近かった」
切々と訴えられたのは、もう耳元で喋らないでほしいとかを言える内容じゃなかった。
そうか……そうだよね。申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
聖人君子に近いとか勝手に言ってるけど、そりゃ嫌だよね……。
「と、とりあえず、落ち着いて!」
置かれている状況が普通でない、という非日常性が私の背中を押した。
火事場の馬鹿力で、えいや、と明人を押し退ける。
「あのな、」
「さっきの聞いて少しは反省したんだから謝らせてよ。ごめんなさい、って言う時は、ちゃんと目を見て言わないと」
「……」
明人が何か言いかけたのを遮って、言う。
抱きしめられていたら、表情が分からない。それじゃ駄目なのだ。
どこか不満げだった明人は、とりあえず黙ってくれた。
こんな状況でもないと言わなかっただろう気持ちをどう伝えるか、必死に考える。
「まずは、色々とごめんなさい。自衛のためでもあるから私に必要なことだけど、アキには愉快なことじゃないし、説明もなしにしていいことじゃなかったよね。アキが察してくれたのに甘えてました。ごめんなさい」
当時は若かったし、自分のことで精一杯だったのだ、というのは言い訳でしかない。ある日突然身内から避けられて、何も思わないはずがないのに。
「弁解にもならないんだけど、アキが嫌いになったわけじゃないの。嫌なのはアキの周囲と、自分自身で……だから完全にアキはとばっちりよね……」
自分で言ってる内容が情けなくて、視線がさがりそうになるのをこらえる。目を見て話したいと言ったのは私だ。
「自分でもどうよって感じなんだけど、外でのあれはまだ私には必要だから続けると思う。二十年近く続けたことをそう簡単になかったことには出来ないし。甘えまくりで勝手な事言ってる自覚はあるの。ごめんなさい分かってください、としか言えない」
明人は最後まで聞いてくれるらしい。これで終わりじゃないだろうと眼差しで続きを促される。
「でも昔からアキは私にとって大事な、大好きな人です。どっちが本音かっていうと、家での態度が本音です」
勢い大事。こんなこと恥ずかしくて素で言える内容じゃない。あともう少し。こんな機会じゃないと伝えられないから、頑張れ私。情けなくても本心からの言葉を、告げたい。
「大切な家族だから。こんな私だけど見捨てないでいてくれたらとても嬉しいです」
押し退けた時のまま……つまり、明人の肩に手をおいたまま、頭を下げる。
しばらくの間、二人そろって動けなかった。
最初に動いたのは明人。特大のため息を落とされた。ええと……呆れた……よね? 愛想つかされても仕方ない、身勝手な内容だったし……。
「…………最後の最後で落とすなよ……」
落とすって、何を?
明人の呟いた意味が分からない。でも好意的な内容じゃないのは分かった。こんな勝手な主張を受け入れてもらおうなんて、虫がよすぎるか。いくら明人の心が広くても限度がある。
「ごめん」
明人の肩においたままだった手を引っ込める。まだ顔をあげられない。呆れられるならまだいい。少しでも明人の表情に嫌悪を見つけたら、しばらく立ち直れないだろうから。
「ちょっと頭冷やしてくる」
さっき、勢いにまかせて何を言ったか。それを思い出すと、恥ずかしくて顔をあわせたくなかった。
落ち着く時間、クールダウンが私には必要だ。
となれば逃げるが勝ち、とばかりに立ち上がって走った。
「おい、待てよ!」
とりあえず建物の陰になるところで一人になって……という目論見は、あっさりと腕をつかまれて、潰える。
「少しは俺の話も聞けって」
ぐい、と引き寄せて、再度抱きしめられた。でもこれ抱擁っていうより捕獲だよね……。逃亡防止。
「や、その、言い終わったらなんか我にかえっちゃって……あ、でも嘘じゃないからね。勢いないと言えないけど本音だから、えっと、」
もごもごと言い訳を試みるも、なんだかよく分からなくなってきた。
「そこは疑ってないから安心しろ」
「……うん」
落ち着けとばかりに、頭を撫でられた。
これはこれで恥ずかしくて、逆に落ち着かない……と思ったら、しばらくすると落ち着いてきた。何故だ。慣れ?
「美弥の気持ちは分かったから。うん、まぁ……悪くはなかった。それで、途中で遮られたけど、俺は、美弥に冷たくされないから、余裕ないこの状況でも嬉しいって言いたかったんだ」
……ええと。
「そんなに嫌だったの!? だってなんだかんだであわせてくれてたじゃない」
びっくりした。この意味不明な状況が嬉しいって、どれだけよ。
「限界近かったって言っただろ」
「覚えてるけど……」
でもさぁ。
「それだけ俺にとって美弥は大きいんだよ。覚えとけ」
「……アキヒトサン、それ、素面で聞くの恥ずかしいです……」
誰もいないシチュエーションだけど、もし見てる人がいたら、ラブシーンとしか思わないような……。
「美弥の発言だって大概だったからお互い様」
あ。明人の耳が赤い。抱きしめられてるから表情はみれないけど……照れてる?
これは、ちょっと……
「なんだよ」
思わず、ふふっと笑った私に、明人は怪訝そうだ。
私からも抱きしめかえすと、明人は硬直した。
「アキ、可愛い」
「……っ」
明人の耳がさらに赤くなったのがおかしくて、声をあげて笑った。