↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

「役立たず」と工房を追放され、銘も給金も奪われた蜜蝋令嬢。二軒の納品帳を自筆で訂正させ、今夜から私の銘で灯します

作者: 花房 ゆり
掲載日:2026/09/08

「火加減一つ、芯二本、帳面の嘘は三つ。直す順番だけは簡単です」


 濁った蜜蝋を布へ戻そうとした私の手を、プリモジュ親方が払いのけた。


「勝手な真似をするな。お前は皿を運べばいい」


 では、この鍋底で焦げかけている塊は、親方の誇りということで。誇りは融点が低いらしい。


 私は黙って布を二重にし、巣板を絞り直した。太すぎる芯はほどき、燃焼時間に合うよう縒り直す。親方は客が来るまで腕を組み、客が来ると私の前へ半歩出た。


 祭壇用の蝋燭は、前月まで途中で火が消えていた。その日、炎はまっすぐ立った。


「さすがプリモジュ殿だ」


 注文主の言葉に、親方は胸を張った。


「長年の勘ですよ。この娘は皿を運んだだけです」


 その皿で蜜蝋を冷まし、その娘が芯まで直したのですが、皿の功績にしておくほうが親方の沽券には優しいのだろう。


 納品帳の製作者欄へ、プリモジュの名が入った。


 火が安定すると、私の名は消えた。


 夕刻、お父様が工房へ来た。親方から給金袋を受け取り、受領欄へさらさらと署名する。


 私に渡された袋は軽かった。逆さにしても、銅貨一枚落ちない。空袋の中身まで家のものにはできなかったようだ。


「帳面の数字を弄ぶ娘は置けん」


「弄んだのは芯の縒り数です」


「口答えまで覚えたか」


 私の道具箱が戸外へ置かれた。


 お父様は給金袋を懐へ入れたまま言った。


「役立たずでも、次の親族なら使ってくれる。恩を忘れるな」


 恩は便利だ。払わなくても増える。


    *    *    *


「型へ流しなさい。余計なことはしないで」


 ブレダ親方は客へ砂糖菓子のように笑い、振り返ると声から砂糖を抜いた。


 二軒目の祭壇蝋燭は、冷えるたび中央から割れた。


 私は浅型を温め、蜜蝋を流す時機をずらした。割れ目は消え、納品も戻った。


 ブレダ親方はその温度を製法帳へ書き、自分の職人印を押した。


「修業させてあげたのだから、当然でしょう?」


 その後、親方が急ぎの追加注文へ温度の違う蜜蝋を流した。割れた品が戻ってくると、弁済欄に私の名が追記された。


 成功した品では消え、不良品では現れる。私の名は、ずいぶん働き者だ。


「製作者なら給金をいただけますか」


「あなたが作ったのは不良品だけよ」


 客の前では柔らかな声だった。私と二人になると、帳面を閉じる音まで命令形になる。


 お父様はまた給金を受け取った。


「二軒も追い出されるとは。責任を負えない半人前め」


「弁済の責任だけは負えるそうです」


 机が鳴った。お父様の手の下で。


「誰に食わせてもらっていると思っている!」


 答える前に遮られたので、給金の所在も尋ねられなかった。


 空の袋を道具箱へしまい、鍵を机に置く。返せと言われるより先に返すのは得意だ。名も、席も、鍵も、先方の手間にならぬよう消えてきた。


 三軒目へ送る、とお父様は言った。


 二軒目より短く済むだろう、とも。


    *    *    *


「まず、ここへ名前を書いてください」


 三軒目の老親方、マティヤは雇用帳を私の前へ置いた。


「私の名でよろしいのですか」


「あなた以外の名を書く理由がありますか?」


 難問である。


 私はポロナ、と書いた。乾くまで親方は帳面を閉じなかった。


 次に鍵を一つ、椅子を一脚、食事を一人分渡された。


 食事は作業台の隅ではなく、椅子の前へ置かれた。温かい煮込みから湯気が立っている。私は匙より先に周囲を見た。


「これは、どなたの分でしょう」


「ポロナの分です」


「食べ終えたら、どなたへ運べば?」


「腹へ」


 老親方は温厚な顔で難しい指示を出す。


 腹へ運んでよい食事など、ずいぶん久しぶりだった。


 食べ終えると、私は巣板を絞った。混じり物を除き、芯を縒り、浅型の温度を見た。完成した蝋燭へ火を移す。炎は揺れず、煤も上がらない。


 マティヤ親方は雇用帳を開き、製作者欄を指で叩いた。


 私の名は残っていた。


 どうやらこの工房では、炎が安定しても文字は蒸発しない。


 その隣には品質責任欄があり、まだ空いている。


「職人印が登録されれば、ここもあなたが署名することになります」


 名だけ欲しいとは思わない。折れた芯も、煤けた天井も、私の仕事なら私の欄へ来るべきだ。成功と失敗を別々の人間へ配るから、帳面が嘘をつく。


 けれど未登録の印を押すことはできない。


 マティヤ親方は、王都職人院へ出す品質照会を作ってくれた。旧工房で私が担当した作業を確認し、職人登録を申請するためのものだ。


 私は文面の下へ二つの欄を足した。


 回答者本人の署名。


 回答に用いた職人印。


「ずいぶん念入りだね」


「私の名は火がつくと消える性質なので」


 親方は髭の奥で笑い、照会書を作り直した。


    *    *    *


「動くな」


 背後から命令され、私は芯を縒った姿勢で固まった。


 ヤネス様が私の髪をまとめている。肩から落ちた髪が炎へ近づいたのを見つけたらしい。


 公爵家の後継者が職人の髪を梳く必要はない。必要はないのだが、櫛の歯は乱暴さの欠片もなく通っていく。


 何ですか、これは。厚遇が首筋から攻めてきます。


「結び方が緩かった」


「作業を始めた時は結べていました」


「今はほどけている」


「蜜蝋より先に私を検品なさらないでください」


 結び終えた指が、髪の先を一度だけ撫でた。


 翌日は火傷を見つかった。


「手を」


「浅型へ少し触れただけです」


「手を」


 心配すると命令形になる。私は薬壺を奪うつもりで手を出し、なぜか指へ薬を塗られた。


 傷に触れる手つきだけが、恐ろしいほど静かだった。


 その翌日、工房の扉の前に護衛が二人立った。


 蝋燭が逃げる工房は初めてです。


「必要ありません」


「旧工房から連れ戻される可能性がある」


「では、私が頼んだ時だけ一人お願いします」


「常時二人だ」


 ヤネス様は短く言い切り、机へ契約書を置いた。


 独占雇用。保護のため、公爵家側はいつでも作業場へ立ち入れる。退去には承認を要する。


 給金は十分。材料も販路も申し分ない。


 そして私の出口がない。


「署名できません」


 ヤネス様の指が契約書の端で止まった。


「危険から遠ざけたい」


「世話はありがたく受け取ります。薬も、髪を結んでくださることも。でも、鍵を持つ人までヤネス様が決めるなら、前の工房と同じです」


「同じではない。私はあなたのものを奪わない」


「辞める権利を奪います」


 紙の角が、彼の指先で少しだけ歪んだ。


「誰にも渡したくない」


「私は納品物ではありません」


 ヤネス様は契約書をたたんだ。


 怒って帰るのかと思った。けれど扉の前で足を止め、護衛へ「外せ」と命じる。


 それから私を振り返った。


「では、私が選ばれる条件を教えてください」


 声が低かったので、冗談ではなかった。


「給金を受け取る人を私が決めること。立入りは私の許可を取ること。辞める時は私の署名だけで辞められること」


「ほかには」


「今夜は帰って寝てください」


 ヤネス様は一晩で契約を書き直した。


 同じ朝、旧工房から二通の回答が届いた。


 どちらも署名入り。どちらも職人印つき。そして、どちらも不具合の責任を私へ押しつけるため、私が担当した作業を実に丁寧に書いていた。


 書きすぎです、親方たち。


 嘘は火に弱い。照会書へ近づけただけで、もう端から溶けている。


    *    *    *


「この確認席で見るのは、誰が善人かではありません」


 王都職人院の記録官が告げた。


 長机の上には、二軒の納品帳、注文主が署名した受領証、照会への回答書、そして現在も登録されている二つの職人印が並べられていた。


 傍聴席には取引先と職人たちがいる。


 逃げ道には、ずいぶん見物人が多い。


 プリモジュ親方は入ってきた時、私へ顎を上げた。


「恩を仇で返すつもりか。何も知らなかった娘に仕事を与え、寝る間も惜しんで教えてやったんだぞ。布の扱いから客への礼まで、それを今さら——」


 マティヤ親方が回答書を持ち上げた。


「それはお気持ちです。私は署名について尋ねました」


 プリモジュ親方の声が一段低くなった。


 私は白い確認票を親方の前へ滑らせた。


「この署名はあなたのものですか」


「……そうだ」


「職人印も?」


「私のものだ」


 記録官が回答書を開いた。


「では、回答部分をお読みください」


 プリモジュ親方は紙をつかんだ。まだ指には力がある。


「ポロナは、私の許可なく蜜蝋を二重の布で絞り直し、芯を、規定より細く縒り直した。その結果については、ポロナ本人が責任を負うべきである」


「その作業日は?」


 記録官が尋ねた。


 親方は答えた。


 注文主の受領証が隣へ置かれる。同じ日付。祭壇で燃焼試験を終え、品質良好として受け取ったという署名がある。


「この納品が成功したことは認めますか」


「成功はした。だが、全体を指揮したのは私だ。あの娘は言いつけを聞かず、たまたま——」


「回答には、変更したのはポロナ本人とあります」


 マティヤ親方は声を荒らげない。


「成功品に押されていた印は?」


「私のだ」


 長机の上で、金属の印が布から出された。プリモジュ親方の職人印。底面の欠けまで、受領時に注文主が写し取った印影と一致する。


 私が作業を変えた。


 品は成功した。


 親方の印で納められた。


 給金は別の人が受け取った。


 親方は自分で全部認めた。見事な仕上がりです。嘘だけが不良品でした。


 記録官が納品帳を返した。


「製作者欄を訂正してください」


「私に書けと?」


「あなたの署名回答に基づく訂正です」


 プリモジュ親方の指から力が抜けた。


 製作者欄に書かれていた自分の名へ線を引き、その下へ、ポロナ、と書く。一度で読める字だった。追い出す時より丁寧で、たいへん結構。


 訂正理由の欄にも、自筆で記した。


 製作者本人の名を記載せず、自身の職人印で納品したため。


 最後に署名する。


 記録官の受領印が、その場で落ちた。


 傍聴席から低いざわめきが起きた。プリモジュ親方は振り返らなかった。振り返れば、自分が私へ語った恩を、何人が聞いていたか分かってしまう。


 次にブレダ親方が座った。


 客へ向ける笑みを薄く浮かべている。


「若い子を預かれば、失敗も引き受けるのが親方ですもの。あの子の将来を思って、責任の所在を記録しただけです」


「この署名はあなたのものですか」


 笑みが止まった。


「ええ。私のものです」


「職人印も?」


「もちろんですわ」


「回答をお読みください」


 ブレダ親方の指先が紙をめくる。


「ポロナは祭壇蝋燭の型流し温度を独断で変更した。最初の納品は偶然割れなかったが、後日の追加品が破損したため、弁済責任はポロナにある」


 注文主の受領証が出された。


 最初の納品は全数合格。その後、同じ仕様の注文をしたが、割れた追加品には別の温度で流された痕跡がある。検品記録には、追加品の作業日に私は工房へ入っていなかったと記されていた。


「最初の納品で型流しを担当したのは誰ですか」


「ですから、あの子が勝手に——」


「名前でお答えください」


「ポロナです」


「追加品を作ったのは?」


 ブレダ親方の目が父へ動いた。


 お父様は見返さない。共に給金を受け取った時は目配せ一つで済んだのに、弁済欄となると視線まで別会計らしい。


「工房の者です」


「ポロナは不在だった」


「……そう聞いております」


「では、なぜ弁済欄へポロナの名を?」


「修業代だったのです。製法を教えたのはこちらですし、家族同然に面倒を——」


 記録官が給金欄を開いた。


 私の名はない。


 代わりに、お父様の受領署名がある。


 ブレダ親方はそこから目を逸らした。


 マティヤ親方が尋ねる。


「製法を教えた記録は?」


 答えはない。


「照会回答では、温度を変更したのはポロナと記しています。どちらを公式回答として残しますか」


「それは……言葉の綾で」


「では、先ほど署名が自分のものだと認めた回答を撤回しますか」


 撤回すれば、虚偽回答として職人資格が止まる。残せば、私の作業を認める。


 柔らかな笑みが完全に落ちた。


「撤回は、いたしません」


「製作者欄と弁済欄を訂正してください」


 ブレダ親方は、自分の帳面を自分の手で直した。


 成功品の製作者欄へ私の名を書く。


 不良品の弁済欄から私の名を消し、自工房、と書く。


 訂正理由を読み上げる声は、私へ「流しなさい」と命じていた時の半分も出ていなかった。


 署名。


 職人院の受領印。


 二軒目の帳面にも、私の名が戻った。


 さて。火を消したい人ほど、顔色から先に蝋になる。


「家族の間で行った仕事です」


 最後の席へ着いたお父様は、両手を膝へ置いていた。


 作業場では机を叩く手だ。第三者が並ぶと、ずいぶん行儀がよい。


「父親として娘を案じ、親族へ預けました。未熟な娘に社会を学ばせるためです。家族内の手伝いに、いちいち作者名を付ける慣習などありません」


「ポロナを職人として紹介したことは?」


 記録官が尋ねる。


「半人前の見習いとしてです」


 マティヤ親方が一通の紹介状を置いた。


 親族工房へ宛てた、お父様の手紙だった。


 ポロナは蜜蝋精製と芯縒りに熟達しており、必ず売上を戻す。指導成果はボシュティヤン家のものとして扱うこと。


 お父様の喉が動いた。


「父として励ますため、大げさに——」


「娘には何と?」


「責任を負えない半人前だと」


「では、成功品の受領欄へあなたが署名した理由は?」


「家長ですから」


「不良品の弁済欄へポロナの名が記された理由は?」


「作った者が責任を負うのは当然でしょう」


 傍聴席の空気が動いた。


 成功品を作れば家長のもの。


 不良品を作れば本人のもの。


 家族愛という名の秤は、給金袋を載せた側へだけ傾く。


「この署名はあなたのものですか」


 私は空の給金袋を机へ置いた。


 その横に、二軒分の給金受領欄が並ぶ。


 お父様の顔から色が引いた。


「……私のものだ」


「声が記録へ届きません」


「私の署名だ」


「受け取った給金は、私へ渡しましたか」


「家の維持に必要だった。お前も家族の一員なら——」


「金額をお答えください」


 記録官が促した。


 お父様は一軒目の額を読み、二軒目の額を読んだ。空袋が急に重くなった気がした。入っているのは銅貨ではない。記録だ。誰が働き、誰が受け取ったか、もう逆さにしても落ちない。


 記録官が最後の書面を開く。


「これは二軒目へ出された名義変更の指示です。読み上げてください」


 お父様は最初の一行でつかえた。


 もう一度、同じところでつかえる。


「読めない箇所がありますか」


「ない」


「では、お願いします」


「製作者欄には……ポロナの名を用いず、ブレダの名を記すこと。給金は、ボシュティヤンが受け取る。破損時の弁済責任のみ、ポロナへ……帰属させること」


 誰も口を挟まなかった。


 お父様自身の声が、確認席の壁へ届いた。


「署名者は?」


「私だ」


「娘を案じた結果ですか」


 マティヤ親方の問いに、お父様は唇を動かした。


「家名を守るためだった」


 評判と給金は家名へ。弁済だけ娘へ。


 守ったものの形が、ようやく記録になった。


 記録官が三人へ処分案を読み上げた。


 二軒の納品記録を訂正すること。


 未払い給金と利息を、三人それぞれの財産および今後の報酬から返済すること。


 独立した職人権限を放棄し、監督官の下で販売と原料整理の補助にのみ従事すること。


 職人印、納品帳、給金へ直接触れないこと。


 返済管理は王都職人院が担い、私の工房収入は充てないこと。


 三人は共同体に残る。ただし、二度と誰かの名を消せる席には戻らない。


 プリモジュ親方の職人印が長机の中央へ置かれた。


 ブレダ親方の印も続いた。


 記録官が二つを箱へ収め、封蝋を押す。


 現に失われる音は小さい。金属が箱底へ当たった、それだけ。


 けれどプリモジュ親方の肩は落ち、ブレダ親方の指は自分の帳面を追って空を掻いた。もう触れられない。


 プリモジュ親方とブレダ親方は、返済同意書と職人権限放棄書へ署名した。お父様も返済同意書へ署名した。家長の名で給金を受け取った手が、同じ名で返すと認める。


 これで終わりではない。


 私の名を戻すだけなら、奪われた過去を正しただけだ。今夜の火を、誰の責任で灯すかはまだ決まっていない。


 ヤネス様が席を立った。


「確認いただきたい契約があります」


 差し出されたのは、一晩で書き直された契約書だった。


 独占雇用の条項には抹消線が引かれ、その脇へヤネス様の署名がある。


 新しい契約では、私は共同経営者となる。給金の受取人を自分で指定し、作業場への立入りを許可または拒否できる。護衛は私が要請した時だけ置かれる。契約解除と退去は、私の署名のみで成立する。


 品質責任も私にある。


 失敗した時だけではない。成功した時だけでもない。最初から最後まで、同じ欄に私の名が載る。


「公爵家の保護は、ポロナを所有する根拠にはしない」


 ヤネス様は確認席の全員へ聞こえる声で言った。


「先の独占雇用案を撤回します」


 記録官が撤回を記録し、受領印を押した。


 ヤネス様は先に共同経営契約へ署名した。それから、私の前へペンを置く。


「これで、条件を満たせますか」


「立入りには許可を取ってください」


「取る」


「護衛は頼んだ時だけ」


「守る」


「薬を塗る時もです」


 そこで初めて、ヤネス様の眉がわずかに寄った。


「火傷を隠さないことを条件に加えたい」


「協議事項です」


「厳しい」


「契約ですので」


 ヤネス様は私の手ではなく、机の上の空いた場所へ指を置いた。


「では、この契約の先でも、私を選んでほしい。共同経営者としてだけではなく、伴侶として」


 軽口が喉まで来て、止まった。


 彼は私の髪へも指へも触れなかった。答えを取るために、出口を塞がなかった。


「最後の訂正が終われば」


 私は父の前にある書面を見た。


「その時、私が選びます」


 お父様が顔を上げた。


「ポロナ。家族まで捨てるつもりか」


「家族であることは、給金の受領資格ではありません」


 記録官が訂正書を差し出した。


 お父様は、私を半人前と記した申告を取り消した。二軒へ送った名義変更指示を撤回し、給金の帰属先へ私の名を書く。


 最後に、職人権限放棄の欄へ署名する。


 職人院の受領印が落ちた。


 その音で、三人の逃げ道が閉じた。


 胸の奥で、長く濁っていた蜜蝋が澄んでいく。熱い。けれど火傷ではない。これはよく燃えるほうの熱だ。


 記録官が新しい納品帳を私へ向けた。


 製作者欄には、すでに私の名がある。


 給金受取人も、私。


 品質責任欄だけが空いていた。


 私はそこへ署名した。


 マティヤ親方が、登録を終えたばかりの職人印を差し出す。私の名を刻んだ印。誰の許可も借りず、誰の失敗だけを背負わされることもない。


「今夜から、私の銘で灯します」


 印を押した。


 乾いた音が、確認席に響く。


 ヤネス様は契約書をこちらへ向けたまま待っていた。私は共同経営者欄へ署名し、その下の求婚への回答欄にも、自分の名を書いた。


 髪へ触れてよい、と小さく告げる。


 ヤネス様の指が、ほどけかけた髪をそっと梳いた。


 長机の向こうで、三人は自分たちが訂正した帳面を見ている。見ることしかできない。今度こそ、火が安定しても私の名は消えなかった。


 火加減一つ、芯二本、帳面の嘘はゼロ。ようやく数が合いました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。