第99話 前世の社畜+公爵令嬢スキルで、現代の実務など赤子同然です
クライス・ホールディングスから『社長秘書・採用内定』のメール通知が届いた日の夜。
私は、狭いワンルームの自室でたいへん静かに、しかし盛大に限界を迎えて取り乱した。
「……受かりましたわ」
私はスマートフォンの発光する画面を、穴が開くほど見つめたまま震える声で呟いた。
「受かりましたわね? 幻覚ではありませんわね?」
誰もいない部屋で、目をこすってマイページをもう一度リロードして確認する。
「『採用』の二文字、確かに輝いておりますわ……!」
次の瞬間。
「よっしゃああああああああああ!!!」
私は狂喜乱舞し、クッションを抱えてベッドへダイブして突っ伏した。
無理でしょう。
これは無理ですわ。嬉しすぎてオタクの心臓が破裂しますわ。
だって、今世でも大好きな推しの『側仕え』という神ポジションを、面接という実力行使でちゃんと勝ち取ってしまったのだ。
社長秘書。
若きカリスマCEOの専属秘書。
つまり、現代日本において合法的に推しを一番近くで拝める“最高の特等席”。
何ですの、この素晴らしい世界(現代社会)。
コンプライアンスと雇用契約の力で、ストーカーにならずにこんなにも堂々と推しの傍へ行けて、しかも推しを世話するだけでお給料まで貰えてしまうのですか。
文明、ありがたすぎませんこと? 資本主義バンザイですわ!
「……落ち着きなさい、私」
私はベッドの上で荒い息を吐きながらどうにか起き上がり、両手でパンッ!と頬を叩いた。
「ここからですわ」
そう。
ここからなのだ。
採用はゴールではない。
推し活のスタートラインである。
むしろ、本番の戦いはここからだ。
九条柊介CEO。
今世の私の最愛の夫、クライス様。
あの若さで大企業を率いる手腕はさすがだが、私との記憶はおそらくない。
だからこそ、最初の印象、最初の実務、最初の『有能な手駒としての信頼構築』が極めて重要になる。
「私に求められるのは」
私はデスクのノートを開き、真剣な顔でミッションを書き出した。
「『有能』であること」
「『自然』であること」
「『過不足なく』動くこと」
「前世の妻だと『怪しまれず』に」
「だが、秘書として『完璧に』」
「そして最終的に、推しの胃袋と生活導線のすべてを私が独占して握る」
うん。
完璧な事業計画(推し活プラン)ですわね。
◇ ◇ ◇
そして迎えた、初出社の日。
クライス・ホールディングス本社三十階、選ばれしエリートだけが在籍する『秘書課』の空気は、朝から冷暖房が効きすぎているのかと思うほど、ピリッと張り詰めていた。
「本日から社長秘書へ配属になった、藤咲瑠衣さんです」
秘書課のトップであるチーフが、私をフロアの全員に紹介する。
年齢は三十代半ばほど。
一糸乱れぬ無駄のないまとめ髪に、鋭い切れ長の目。高級なスーツ。
仕事のできる女性特有の、隙のない静かな圧がある。
あら。
よろしいですわね。
こういう厳しいお方、大変好きですわ。
新人の愛嬌や余計なお世辞には騙されず、でも実力で結果を出せば正当に評価してくださる『実力主義の現場猫タイプ』と見ました。
「藤咲です」
私は、公爵令嬢として叩き込まれた完璧な角度で、優雅に一礼した。
「本日から、皆様のお力になれるよう尽力いたします。よろしくお願いいたします」
「よろしく」
「よろしくお願いします」
「聞いてるよ、最終面接で社長の評価が異例なほど高かったって」
周囲の先輩秘書たちから、品定めするような挨拶が返ってくる。
そして、チーフが表情を変えずに淡々と私へ続けた。
「社長秘書の仕事は、一般的なスケジュール管理や来客対応の秘書業務に加えて、CEO直下の莫大な情報整理、役員間の利害調整、緊急案件の一次判断の補助まで含みます。激務です」
「承知しております。望むところです」
「社長は極端な『合理性』を重視します。1秒の無駄も嫌います」
「はい」
「判断は恐ろしく速いですが、その分、周囲の我々秘書にも同じ速度と質を求めます。ついてこられなければ即刻外されます」
「はい」
「そして」
チーフの目が、警告するように少しだけ細くなった。
「社長は、中途半端で的外れな『忖度』を一番嫌われます。イエスマンは不要です」
「なるほど」
私は嬉しそうに頷いた。
「私の一番得意な分野で、分かりやすくて大変助かります」
チーフが、私の余裕の返答に、ほんの少しだけ眉を動かす。
あら。
そこは、少し威勢が良いと気に入っていただけたかしら。
「では、まずはこれを」
チーフから私のデスクへドサリと渡されたのは、分厚いファイルの山と、最新の支給タブレット端末だった。
「社長の直近二週間分の、分刻みのスケジュールと調整依頼」
「はい」
「本日の役員会議の各部署からの膨大な提出資料一式」
「はい」
「国内外の関連拠点との連携・要望メモ」
「はい」
「そして、昨日までの社長の決裁が下りていない未処理案件一覧」
「……」
「何か?」
チーフが、私の沈黙を「あまりの量に絶望した」と捉えて冷たく問う。
「いいえ」
私はファイルの山を見て、穏やかに微笑んだ。
「私が想像していたより、量が少ないですわね」
「……は?」
秘書課の空気が、ピタリとエラーを起こして止まった。
あら。
本音が出すぎましたかしら。
「失礼いたしました」
私は即座に、新人らしく訂正する。
「少ない、ではなく、整理しがいがある『やり甲斐のある分量』と申し上げるべきでした」
チーフが、無言で、宇宙人でも見るような目で私を見る。
周囲の先輩秘書たちも、「初日で強がりすぎでしょ……」と何とも言えない顔をしていた。
「藤咲さん」
チーフが、静かに、しかし冷たく言う。
「これ、普通は超優秀な中途採用でも、初日でその量を前にして軽く悲鳴を上げて泣きを入れる量です」
「そうなのですか」
「そうです」
「まあ」
私は少しだけ首を傾げた。
「前世の領地経営(魔境)の決裁書類に比べれば、だいぶ紙が薄くて可愛らしく見え――いえ」
危ない。
今のはオタクの独り言が漏れて危ないですわね。
「前職で、かなり頭のおかしいマルチタスク寄りの激務をしておりましたので」
私は、前世のサビ残の日々を思い出して滑らかに言い換えた。
「この程度の量なら、慣れております」
「……」
「まずはこの一覧をデータ化し、優先順位を三段階に分けて、社長の高度な判断が直接必要なものと、事前に私たち秘書側で論点を潰せるものを切り分けます」
「……」
「並行して、各部署の役員会議資料の重複情報を整理し、参照リンクを一つにまとめれば、社長が読む際のだいぶ見通しがよくなるかと」
「……」
「あと、この海外拠点との連携メモですが、時差の反映と現地の祝日の考慮が少し甘いので、ここ、私の方で再設計してよろしいですか?」
「……」
沈黙。
それから、チーフが信じられないものを見るように小さく言った。
「……あなた、始業二十分で、そこまで内容を見たの?」
「はい」
「……そう」
「何か問題がございました?」
「いえ」
彼女は一拍置いてから、ため息をついて淡々と告げた。
「……あなたの好きにやってみて」
「ありがとうございます。お任せください」
よろしい。
業務改善の許可はいただきましたわね。
◇ ◇ ◇
そこから先の私の作業は、神速だった。
私はまず、支給されたパソコンを立ち上げ、未処理案件一覧をスプレッドシートへ高速で打ち込み、流し込んだ。
複雑な条件分岐の関数。
緊急度のマクロ設定。
担当役員のタグ付け。
期限のハイライト。
経営判断の要否のソート。
時差の自動調整。
タタタタタタタタタタタタタタタタタタタッ!!(※異常なタイピング音)
「……」
私は完成した美しい画面を見つめ、ホッと息を吐く。
「やはり、こういう情報整理は血が騒いで落ち着きますわね」
前前世。
過労死するまで働いた社畜OL時代に、血反吐を吐いて鍛え上げた限界突破の『Excel筋(マクロ構築術)』。
前世。
広大な辺境領地の経営と、魔王討伐の兵站管理で培った、異常なまでの『複数案件同時処理能力』。
そして、公爵令嬢として幼少期からスパルタで叩き込まれた『完璧な文書読解と対人交渉スキル』。
それら人生三周分のチートスキルが合わさると、現代企業のただの実務など、わりと赤子の手をひねるようにどうにかなってしまうのである。
「ふ、藤咲さん……」
隣席の先輩秘書が、私の異常なタイピング音に恐る恐る画面を覗き込む。
「はい」
「今、何してるの?」
「社長が1秒で把握できるための、案件の可視化ダッシュボードの作成です」
「可視化」
「はい」
私は長い指先で、綺麗に色分けされた画面を示した。
「赤色が、本日中に社長の最終確認がどうしても必要なもの」
「……」
「黄色が、事前に私たち秘書側で論点整理と裏取りだけ済ませておくべきもの」
「……」
「青色は、社長まで上げる価値がない、役員へ差し戻した方が速い無駄な案件」
「……」
「あと、こちらの会議資料に同じ売上グラフが三回も無駄に出てくるので、見やすい一枚の統合スライドへまとめます」
「……」
「この長ったらしい営業部のメール、結論が見えづらくて社長の時間を奪うので、冒頭に『三行要約』をつけます」
「……」
「それから」
先輩秘書が、顔を引きつらせて静かに言った。
「待って」
「何でしょう」
「あなた今、頭の中でいくつの作業を何個並行してる?」
「六つほどです」
「六つ!?」
「はい」
「入社初日で?」
「はい」
「何で!?」
「推し(社長)の快適な執務環境に、必要でしたので」
先輩秘書は、口をパクパクさせてしばらく黙った。
それから、震える声で小さくチーフに向かって呟く。
「……チーフ。社長、面接でとんでもなく変な化け物を拾ってきた」
「お言葉ですが」
私は真顔で訂正した。
「面接で有能な私を拾い上げていただいたのは、こちらです。推しの審美眼に感謝ですわ」
「そういう意味じゃなくて!」
「ですが、化け物とは最高の光栄ですわ」
「1ミリも褒めてない!」
ええ。
でも、だいぶ順調に有能さをアピールできておりますわね。
午前中のうちに、私は渡された二週間分のスケジュールをすべてパズルブロックのように再構成した。
部署間の重複会議を圧縮し、メールで済む必要性の薄い報告会を容赦なく切り捨て、推しの疲労を減らすために移動導線を最短に整え、海外拠点との接続時間も向こうの深夜にならないようスマートに修正する。
その後、分厚い役員会議資料を、見やすい一つのファイルへまとめ直す。
情報の重複を削り、論点を赤字でハッキリと立て、参照先をワンクリックのリンク化。
ついでに、九条CEO(推し)の思考回路と見る順番に合わせて、論理的に並べ替えた。
「……終わりましたわね」
私は優雅に時計を見た。
まだ昼の休憩前である。
あらまあ。
思ったより現代の業務の手応えが軽いですわね。前世の魔王討伐の方がよほどキツかったです。
「藤咲さん」
チーフが、背後から亡霊のように声をかけてきた。
「はい」
「これ、本当にあなたが直したの?」
「ええ」
私はスッと立ち上がり、完成したタブレットを差し出した。
「会議資料の『完璧な統合版』です」
「……」
「こちらが、社長確認の必須案件」
「……」
「こちらが、くだらない役員差し戻しの候補」
「……」
「そして、午後の打ち合わせのスケジュールですが」
私は次の画面をスワイプして開く。
「十五時の国内会議と、十六時の海外接続は、論点が七割重複しているので『統合可能』です」
「……」
「オンラインで繋げば、無駄な移動時間を差し引いても、社長の時間を三十五分浮かせられます」
「……」
「その空き時間で、社長の決裁待ち案件を一つ前倒しで挟めます」
チーフが、私のあまりの有能さに、珍しく完全に無言だった。
「何か、不備がございましたか?」
「……ちょっと待って。頭の整理が追いつかない」
彼女は画面の完璧な資料を何度か見返し、それから恐ろしいものを見るように低く言った。
「これ、普通は超優秀な秘書でも、数日かけて社内の空気に慣れながら、必死に残業してやるやつよ」
「そうなのですか」
「そうです」
「まあ。皆様お仕事が丁寧でゆっくりですのね」
「嫌味!? しかも」
チーフがさらに眉を寄せる。
「このレイアウト、何でこんなに社長の好みにドンピシャで見やすいの。誰に教わったの?」
「前世からの長年の癖です」
「癖!?」
「論点が見づらい資料は、上に立つ者への罪ですので」
「……」
「私の推し(社長)の貴重なお時間を、1秒でも無駄にするのも万死に値する罪です」
「……」
「あと、無駄に色数が多いチカチカする表も、目の負担になるので罪です」
「……」
「スクロールしないと見えない位置に重要情報を置くのも、だいぶ重罪です」
「……分かった。もう言わなくていい」
チーフが、頭痛薬が欲しいと手で額を押さえた。
「あなた、仕事に対する価値観が極端すぎて狂ってる」
「そうでしょうか。推しへの愛ですわ」
「……でも、社長と仕事の相性は、恐ろしいほど最強に良さそうね」
「まあ」
私は内心で、「計画通り!」とそっとガッツポーズをした。
◇ ◇ ◇
そして、午後。
ついに、その運命の時が来た。
「社長、失礼いたします。午後の会議資料をお持ちしました」
チーフが、九条CEOの神聖なる執務室(社長室)へ入る。
その後ろに、私は補助資料を持って、静かな足音で続いた。
ああ。
来ましたわね。
面接以来の、今世初の、“秘書業務を通じた推しとの正式な接触イベント”ですわね。
執務室は、私の想像通り、たいへん整理整頓されて整っていた。
黒とグレーを基調にした、冷たくも知的な内装。
東京を見下ろす大きな窓。
無駄なものが一切ない広いデスク。
綺麗にファイリングされた棚。
空気まで静かで、ひどく“あの人の空間”という清潔な感じがする。
そして、その中心の特等席に。
九条CEO。
私の愛するクライス様が、座っていた。
「……ッ」
ああ。
だめですわね。
たった数秒見るだけで、やはり顔が良すぎてオタクの心臓に悪いですわね。
艶やかな黒髪。
パソコンの画面を見つめる、端正で知的な横顔。
冷たくも美しい、伏せられた目元。
現代の高級なスーツ姿なのに、なぜこんなにも“圧倒的強者の氷の騎士”感が隠しきれずに残っているのでしょう。尊いですわ。
「資料を」
低い、耳が妊娠しそうな極上の声が落ちる。
「はい」
チーフが差し出そうとした、そのタブレットの前で、九条CEOの視線がわずかにピタリと止まった。
資料の表紙。
完璧に整理された見出し。
色の少ない、だが一目で結論が分かるロジカルな構成。
「……これは」
「本日から配属の、新人秘書の藤咲がすべて再構成しました」
チーフが正直に答える。
九条CEOの鋭い目が、面接以来、初めて私へ向いた。
「藤咲」
「はい」
「これを、初日の君が、一人でやったのか?」
「はい」
「……」
彼はタブレットを受け取り、一枚目をめくる。
次をめくる。
さらに次をスクロールする。
その確認の動作は、恐ろしいほど速い。
でも、明らかに「自分が読みやすいように完璧に最適化されている」と感じている、驚きの顔だった。
「不要な会議論点が、すべて整理されている」
「はい」
「各部署のデータの重複も消えてる」
「はい」
「ダラダラとしたメールに、的確な三行要約まで付けたのか」
「はい」
「なぜ、誰にも指示されずにここまでやった」
私は、静かに、最高の秘書の顔で答えた。
「社長の貴重なお時間を1秒でも節約した方が、この会社にとって最大の利益になると判断いたしましたので」
沈黙。
その一瞬、九条CEOの氷の目が、ほんの少しだけ、ハッとしたように見開かれて細まった。
ああ。
はい。
その反応、前世から痛いほど知っておりますわ。
“こいつ、自分の思考を完全に理解している有能だ”と、合理的に判断して認めた時の目でしょう?
「……午後の会議」
彼が資料から顔を上げ、私を真っ直ぐに見た。
「十五時と十六時、統合提案が入ってるが」
「はい」
「理由は」
「論点が七割重複しております」
私は少しの淀みもなく即答した。
「別々に行うと、社長の説明が二重になり無駄が生じ、海外側の待機時間とストレスも増えます」
「……」
「統合すれば、移動の手間も含めて三十五分短縮可能です」
「……」
「その空いた時間で、急ぎの未決裁案件を一つ前倒しで処理できます」
「……」
「資料の八頁目に、詳細なタイムテーブルがございます」
九条CEOが、言われた通り実際に八頁目を開く。
数秒、その完璧な計画を読む。
それから、迷いなく短く言った。
「君の提案通り、統合で進めろ」
「承知いたしました」
チーフが、横で信じられないものを見るように息を止めていた。
先輩秘書たちも、ガラス張りの扉の外で「社長が新人の提案を初日で丸呑みした!?」とだいぶざわついている気配がする。
あら。
そんなに驚かなくてもよろしくてよ。
推しの思考回路を熟知した私の『完璧で合理的な提案』が、普通に通っただけではありませんか。
……ええ、相手が私の最愛の推しだと、少しだけ限界オタクの感動補正(内心のガッツポーズ)は入りますけれど。
「藤咲」
再び、九条CEOが低い声で私を呼ぶ。
「はい」
「午後からの統合会議に、同席しろ」
「……」
「俺の社長秘書として、君が議事録と進行を回せ」
「承知いたしました。完璧にこなしてみせます」
私は、感謝と歓喜を込めて完璧な角度で一礼した。
その瞬間、胸の奥で、限界オタクの心臓がドクン! と大きく跳ねた。
来ましたわね。
来ましたわね!?
入社初日で、まさかのトップ会議への同席許可(大抜擢)。
推しの隣の特等席に立つための『最高の一歩目』としては、上々どころか、SSR確定の満点ではありませんこと!?
◇ ◇ ◇
執務室を出た瞬間。
「……一体何者なの、あなた」
先輩秘書が、真顔で私の肩を掴んで聞いてきた。
「ただの有能な新人です」
私はニコヤカに営業スマイルで答える。
「それはさっきのタイピング音で知ってる!」
「藤咲瑠衣と申します。以後お見知りおきを」
「そういう意味じゃなくて!」
チーフが、頭痛を堪えるように小さく息を吐いた。
「……社長が、初日の新人に、あそこまで権限を任せるなんて異例中の異例よ。前代未聞だわ」
「そうなのですか」
「そうです」
「まあ。光栄ですわ」
「しかも」
チーフが、じっと私を観察する。
「あんなにこだわりが強くて神経質な社長が、あなたの資料を一目見て、少しも機嫌が悪くならなかった」
「……」
「それ、この会社において、かなりすごいことなのよ」
「推しへの愛の勝利ですわ」
「あと」
チーフがジッと私を見る。
「数日分溜まっていた面倒な案件、もう半分以上片づいてるんだけど」
「ええ。残業は嫌いですので」
「まだ初日の午後よ?」
「ええ」
「何でそこまで社長の考えが手に取るように分かって、動けるの?」
私は少しだけ考えて、それから穏やかに、最高の笑顔で答えた。
「前世からの、愛の積み重ねでしょうか」
「……は?」
「あ」
しまった。
あまりの順調さに、オタクの口が滑りましたわね。
私は即座に、完璧な笑顔で微笑み直した。
「いえ、前職からの、ビジネス経験の積み重ねでございます」
「……今の間は何よ」
「多分、チーフ、お疲れですのね。幻聴ですわ」
「誰が?」
「皆様が」
「……」
「甘いものでも買ってきて、差し入れいたしましょうか? 糖分補給は大事ですわよ」
「見事に話を逸らしたわね」
「お気づきになりまして?」
「なるわよ! 全然誤魔化せてない!」
でも、職場の空気は、たった半日で確実に変わっていた。
午前中の最初は“ちょっとタイピングのうるさい新人の藤咲”を見る目だった。
それが今は、“何かちょっとおかしいくらい社長の思考を理解している、ヤバい有能な新人”を見る、畏怖の目に変わっている。
ええ。
大変よろしいですわね。外堀は埋まりました。
私は、秘書課の自分のデスクへ戻りながら、そっと社長執務室の重厚な扉を見る。
この先、もっと近くへ行く。
もっと完璧に支える。
もっと彼好みに環境を整える。
そして、今世でもきっと、この人の一番近くで、当たり前みたいに顔を拝みながら働ける『私だけの特等席』を、完全に手に入れてみせる。
だって。
前世で過労死した社畜スキルも。
公爵令嬢としての完璧なマナー教育も。
あの地獄の領地経営で鍛えた、異常なマルチタスク能力も。
全部、全部。
今世のこの日、再び推しに出会い、推しを完璧に支え抜くためにあったと言っても、過言ではございませんものね。




