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婚約破棄の瞬間に「前世の記憶」が戻りまして。〜ヒロインの座は譲りますので、私は推しキャラの側仕えを目指します!〜  作者: 綾瀬蒼


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第9話 氷の騎士を溶かす熱

 クライス・フェルドは、変化を好まない。

 好まないというより、必要としてこなかった。


 毎朝同じ時刻に起き、剣を振り、部下の報告を受け、必要な指示を出し、終わらぬ雑務を片づける。

 訓練、巡回、警備、書類。

 必要なことを、必要な順にこなす。それだけで十分だった。


 余計な会話も、余計な気遣いも、余計な彩りもいらない。

 それらは往々にして集中を削ぎ、刃を鈍らせる。戦う者にとって、思考のノイズは害でしかない――そう思って生きてきた。


 だから、あの夜。

 婚約破棄されたばかりの公爵令嬢が、第一騎士団へ押しかけてきた時も。


 正直に言えば、最初の印象は最悪に近かった。


 騒がしい。突飛だ。しかも、あまりにも堂々としている。

 夜会用のドレスを無惨に引き裂き、裸足で深夜の本部へ現れた令嬢など、常識で測れば狂気の沙汰だ。


 だが。


 彼女は、訓練場の対魔法用の的を『空間ごと』跡形もなく消し飛ばし。

 事務室へ連れて行けば、ひと月分どころか二か月分の未処理書類を、見たこともない魔法の応用で数刻のうちに片づけ。

 挙げ句の果てに、滞っていた案件の優先順位と不正の洗い出しまで完璧にやってみせた。


 そこまで見せつけられれば、警戒より先に一つの判断が下る。


 ――使える。


 いや。使える、などという凡庸な言葉では到底足りない。


 あれは明らかに『異常』だった。

 能力が高いという段階ではない。戦闘(魔力)、実務、観察、推測。そのすべてにおいて、一つの独立した国家機関のように完成されすぎている。


 そして何より。

 彼女は、自分の能力を誇示するために使っているのではなかった。

 当たり前のことのように差し出し、当たり前のことのように片づけ、当たり前のことのように次へ進む。

 そこに貴族特有の打算や計算高さが見えなかったからこそ、余計に得体が知れなかった。


 クライスはそんな得体の知れない女を、自分のそばへ置いた。


 本来ならあり得ない判断だ。副団長付きにするなど、もっと身元や動機を慎重に洗うべきだった。

 だが、あの時はそうする以外の選択肢が思い浮かばなかった。


 他へ回せば組織に不要な混乱を呼ぶ。手元に置けば、自分が管理できる。

 そう判断した。


 少なくとも、最初は。


 ◇ ◇ ◇


 副団長室は、長らく“機能するためだけの部屋”だった。

 必要な書類があり、広域地図があり、手入れされた武具がある。

 それで足りていた。足りていた、はずだった。


 だが、ルシアが入ってからは違った。


 机の上は以前より格段に整っている。次に必要な書類は、探す前に手元へ揃う。茶はちょうどいい温度で置かれ、水差しは気づけば新鮮なものへ替わっている。

 休憩を取るつもりがなくても、いつの間にか、深く呼吸を入れ替える隙間が『デザイン』されていた。


 最初の数日は、正直に言ってひどく落ち着かなかった。


 見慣れたはずの机の上の配置。書棚の並び。ソファの角度。

 何もかもが、ほんの少しずつ違う。

 違うのに、不便ではない。


 いや、むしろ。

 前より、明らかに呼吸が楽なのだ。


 書類へ視線を落とせば、必要な比較資料がスッと差し出される。報告へ返答すれば、その思考を断ち切らないよう絶妙なタイミングで補足文書が置かれる。長引いた打ち合わせの後には、熱すぎず渋すぎない茶が現れる。


 それらはどれも些細なことだ。だが、些細だからこそ、じわじわと効く。


 クライスは気づいてしまった。

 自分が今まで、どれだけ“小さな不便”を当然のものとして切り捨ててきたかに。

 そして、その不便が消えるだけで、どれほど思考が澄み渡るかに。


 不快ではない。むしろ、恐ろしいほど助かる。

 それが、ひどく厄介だった。


 ルシアは決して出しゃばらない。

 必要な時だけ口を開き、不要な時は静かに控えている。だがその沈黙は、ただ黙っているのとは違う。常に部屋全体を見て、次に何が必要になるかを先読みしている、極めて高度な沈黙だった。


 そして、能力以上に不可解だったのは――彼女の『視線』だ。


 クライスは、人に見られることには慣れている。

 副団長という立場上、部下から向けられる視線は多い。畏敬、緊張、期待、恐れ。そういったものが混ざった目には、いくらでも晒されてきた。


 貴族の令嬢から向けられる視線も、知らないわけではない。

 作り物めいた敬意。あるいは、肩書きと顔立ちへ向けられた打算混じりの熱。どれも同じで、どれも薄っぺらい。


 だが、ルシアの目は違った。


 熱を持っている。妙に、真っ直ぐで。

 必死に隠そうとしているのに、底の方でマグマのように燻る熱が隠しきれていない。

 それが単なる好意なのか、尊敬なのか、別の執着なのか。クライスには判別がつかなかった。


 ただ一つ分かるのは。

 あの女は、自分を見る時だけ、時折ほんのわずかに呼吸を止める。

 そしてすぐに、完璧な淑女の微笑でそれをごまかす。


 その落差が、どうにも妙に気になった。


 ◇ ◇ ◇


 騎士団の納入業者との一件も、クライスの想定を遥かに超えていた。


 あの商人は以前から鼻につく男だったが、決定的な証拠がなく、深く切り込む時間が取れずにいた。

 そこへルシアが入り、わずかな帳簿の端数の歪みから、鮮やかに不正を炙り出した。


 数字。市場相場。納入物資の質。法律の条文。

 まるで最初から答えを知っていたかのような速度と精度だった。

 しかも、ただ不正を暴くのではなく、どこまで追い込み、どこで手を打てば騎士団側に最も『実利』があるかまで含めて、すでに彼女の頭の中では盤面が整理されていた。


 会議室で彼女が商人を理詰めで追い詰めていく姿を見ながら、クライスはひどく冷静に思った。


 ――絶対に、敵に回したくない。


 それは単純な恐れではない。刃物のような危うさを感じたのでもない。

 彼女は、組織の害になるものを『必要だから』切る。切ると決めた相手を、感情ではなく完璧な理屈で詰める。そのやり方があまりにも鮮やかで、迷いがなかった。


 自分の剣が、物理的な敵を断つためのものなら。

 彼女の舌と頭脳は、見えない病巣を断ち切るための刃だ。


 そして、その最強の刃が、今は味方として自分へ尽くしてくれている。

 これほど頼もしいことはない。同時に、これほど不思議なこともなかった。


 なぜ、こんな女が王太子に見限られたのか。

 いや、違う。なぜ王太子は、この『国家の生命線』とも言える女を手放すという愚行を犯したのか。

 考えれば考えるほど、王宮の連中の頭の中は理解不能だった。


 ◇ ◇ ◇


 訓練場での一件は、さらに妙だった。


 支援魔法。

 それも、ただの補助ではない。一流の剣士の動きを、そのまま理外の領域まで引き上げるような、異常な出力の底上げ。


 あれほどの術式を、王妃候補教育の一環で教わったと言っていた。それ自体は事実なのだろう。

 だが、問題はそこではない。


 彼女は、あれを『無意識』に発動させた。


 いや、正確には。

 自分の剣の冴えを見て、勝手に感情が高ぶった結果、無意識に魔法が漏れ出たのだ。


 それが、どうにもクライスの胸の奥に引っかかっていた。


 あの時、ルシアは確かに自分を見ていた。いや、普段から見ている。

 だが訓練場での彼女は、その視線の熱がいつもより遥かに露骨だった。


 剣が交わるたび。踏み込みが決まるたび。

 彼女の表情は淑女のまま変わらないのに、その視線だけが熱を帯び、膝の上で握られた拳が小さく震えていた。


 まるで――。


「……憧れているみたいだな」


 誰もいない副団長室で、クライスは小さく呟いた。

 口にしてから、少しだけ眉をひそめる。


 憧れ。それは近いようで、どこか違う気もする。


 尊敬にしては、熱が重い。

 恋慕にしては、方向が少しずれている(距離を詰めようとしてこない)。

 執着にしては、見返りを求める気配が一切ない。


 ただ、ひたすらにこちらを見て。勝手に高ぶって。勝手に役に立とうとして。

 こちらがただ一言「頼む」と言えば、自分のことのように――いや、自分のこと以上に嬉しそうな顔をする。


 理解できない。

 理解できないのに、目が離せない。

 本当に、厄介だった。


 ◇ ◇ ◇


 そして、その“厄介”は。

 訓練後の、あの時に決定的になった。


 本来なら、汗を拭うくらい自分で済ませる。怪我をしていない限り、他人に世話を焼かれる必要などない。

 だからルシアが布を差し出した時も、最初は受け取って自分で拭うだけのつもりだった。


 だが。

 あの時の彼女は、普段以上に真剣マジだった。


 ただの布一枚に対して、妙に慎重で。妙に気負っていて。それでいて、絶対に逃げる気がない。


「自分でできる」と言った時も引かなかった。右腕の負荷まで見抜いて、「業務です」と言い切った。

 そこまで言うなら、やらせてみようと思った。


 半ば、意地が悪かったかもしれない。

 本当にそこまで平然と自分の顔に触れられるのか、確かめてみたくなったのだ。


 結果は――。

 見事なものだった。


 手つきは丁寧で、無駄がない。肌を擦らないよう、布の当て方まで計算されている。側仕えとしての手際だけ見れば、非の打ちどころがなかった。


 だが、それと同時に。

 彼女の指先は、ひどく熱かった。


 手は震えていない。表情も崩れていない。声も安定している。

 なのに、布越しの指先だけが、火傷しそうなほどの熱を帯びていた。

 あれほど完璧に取り繕っておきながら、そこだけが致命的に隠しきれていなかった。


 あの瞬間、クライスはようやく確信した。


 ルシア・フォン・グランツは、自分の前でだけ、時々おかしくなる。

 いや、正確には。『おかしくなるのを、必死の形相で隠している』。


 それが、どうしてだかひどく愛おしく――いや、可笑しくて。

 ほんの少しだけ、気が緩んだ。


 彼女が「熱気に当てられただけ」だと誤魔化した時も、当然、本気でそうは思っていない。

 だがそれを指摘して追い詰める気にもなれなかった。

 その代わりに、「次からも今日と同じ布を使え」と言った。


 我ながら妙な指示(甘え)だと思う。

 布の質は確かによかった。だが、それだけなら備品担当へ同じものを発注させれば済む話だ。

 わざわざ彼女へ伝えたのは。多分、彼女が真剣に選んだものだったからだ。


 そこまで考えたところで、クライスは深く息を吐いた。


 面倒だ。実に面倒くさい。

 一体いつから、自分は布の質だの茶の温度だのに意識を向けるようになったのか。

 そんなものは今まで、ただ“整っている”か“整っていない”かの二択でしかなかった。誰が用意したかなど、気にしたこともない。


 なのに今は違う。

 机の上の配置も。訓練後の飲み物も。差し出される資料も。

 その向こうに、必ず『ルシアの存在』が透けて見える。


 それが当然になりつつある自分に、クライスは眉間を押さえた。

 これは、よくない兆候だ。

 戦う者は依存を作るべきではない。何か一つに慣れすぎれば、それを失った時に致命的な隙が生まれる。


 それなのに。

 もし今、あの女がいなくなったら。

 副団長室はまた以前の殺風景な形へ戻るだけのはずなのに。その光景を思い浮かべると、妙に胸の内側が冷える。


「……厄介だな」


 また、同じ言葉が零れた。


 ◇ ◇ ◇


 その日の夜。

 副団長室の扉が静かに叩かれた。


「副団長、こちらにいらっしゃいましたのね」


 聞き慣れた、澄んだ声。

 入室を許可すると、ルシアが湯気の立つカップを載せた盆を持って入ってくる。

 動きはいつも通り静かで、完璧だ。昼間の訓練場で見せた限界ギリギリのあの熱など、まるで嘘のように。


「夜分に失礼いたしますわ。少し冷えますので、温かいものを」

「……頼んでいないが」

「存じております」


 ニコリ、と微笑む。

 その笑みが、妙に心地よいから困る。

 彼女はカップを机へ置き、それから静かに視線を上げた。


「何か、気になることでも?」


 クライスは一瞬だけ黙った。

 この女は、こういうところが鋭すぎる。何も言わずとも、空気のわずかな揺らぎからこちらの思考を拾ってくる。


 本当のことを言えば。気になっているのは、お前のことだ。

 だが当然、そんな言葉を口にするわけがない。


「……いや」

「そうですか」

「ただ」

「はい」


 クライスは、カップへ手を伸ばしながら言った。


「お前は、なぜそこまでする」


 何度目か分からない問いだった。

 有能だから、では説明がつかない。側仕えだから、でも足りない。彼女は明らかに、それ以上の熱量と執念で動いている。


 ルシアは少しだけ目を瞬き、それから柔らかく微笑んだ。


「お役に立ちたいからですわ」


 また、それだ。

 だが今回は、以前より少しだけ響きが違った。完璧な建前の奥に、ほんのわずかに不器用な本音が透けている。


 役に立ちたい。その言葉は恐らく本当だ。

 だがそれだけではない。彼女の熱は、もっと個人的で、もっと真っ直ぐで、もっと――重い。


 クライスはカップを口元へ運ぶ。

 温度はちょうどいい。香りも強すぎない。以前よりさらに、自分の好みのど真ん中を射抜いている気がした。


「……そうか」


 結局、それしか言えなかった。

 ルシアは満足そうに小さく頭を下げる。それから、もう用は済んだとばかりに静かに退室しようとした。


 だが、扉の前でふと立ち止まり、振り返る。


「副団長」

「何だ」

「本日は少しだけ、お疲れのお顔をしていらっしゃいますわ」

「そう見えるか」

「ええ。ですので、夜更かしはほどほどに」


 まるで当然のように、だが確かな気遣いを残して、彼女は部屋を出ていった。


 扉が閉まる。沈黙が戻る。

 だがもう、その沈黙は以前の冷え切ったものではなかった。


 部屋には温かな茶の香りが残り。机の上には次に必要な書類が完璧に整えられ。

 そして、今しがた消えた銀髪の令嬢の気配が、まだわずかに空気を暖めている。


 クライスはしばらく、その閉じた扉を見ていた。


 理解できない女だ。

 理解できないのに、気づけばその動きを探している。

 声が聞こえれば無意識に耳が向く。

 部屋へ入ってくれば空気が変わり。出ていけば、ほんの少しだけ静かすぎる。


 それが何を意味するのか。

 クライスはまだ、その感情に名前をつけるつもりはなかった。


 だが一つだけ、確かなことがある。

 ルシア・フォン・グランツという存在は、もうすでに。

 彼の思考の中で『有能な側仕え』という枠には、到底収まりきらなくなっていた。


 そしてその事実を、彼はまだ誰にも――自分自身にすら、認めていなかったのである。


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