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婚約破棄の瞬間に「前世の記憶」が戻りまして。〜ヒロインの座は譲りますので、私は推しキャラの側仕えを目指します!〜  作者: 綾瀬蒼


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第7話 推しの汗を拭うという致死量のイベント

「次からは、事前に一言、言え。心の準備がいる」


 その一言は、訓練場を後にした私の頭の中で、エンドレスリピート再生されていた。


 心の準備。

 心の準備。

 推しが、私のバフを受けるのに、心の準備が必要……。


(だめだわ。言葉の意味を深く考え始めると、脳が勝手に都合のいいハッピーエンドへ向かって爆走してしまう……!)


 落ち着きなさい、ルシア。

 あれはきっと、純粋に「急に身体能力がバグレベルで跳ね上がると訓練にならない(から事前の申告が必要)」という意味だ。

 そう。絶対にそう。分かっている。分かっておりますとも。


 ……分かっておりますけれど。


(あの時、推しのお耳、ほんの少し赤くありませんでした……?)


 そこだけがどうにも引っかかる。気のせいかもしれない。けれど、もし気のせいでなかったなら――。


「ルシア様」

「は、はいッ」


 不意に呼ばれて肩が大きく跳ねた。

 訓練場脇の簡易控え所で、若い騎士がきょとんとした顔をしている。


「どうされました? 先ほどから、銀盆の同じところを三回ほど布巾で磨いておられますが」

「……」


 私は自分の手元を見た。

 そこには、水差し用の盆。すでに鏡のようにピカピカに磨き上げられたそれを、私は虚無の表情でキュッキュと擦り続けていたらしい。


「少々、思考が別件でマルチタスクを引き起こしておりましたの」

「別件……」

「お気になさらず。それより、打ち合わせ後に副団長へお渡しする冷水と『清拭用の布』はどこに保管されております?」

「あ、そちらならこの棚です」


 案内された先には、訓練後に使うらしい水桶、清潔な布、替えの上着などがまとめて置かれていた。

 私は棚を開けた瞬間、ハッと目を見開いた。


(来ましたわね……)


 清拭用の布。

 つまり、タオル。

 汗を拭うための、あの、タオルである。


 訓練後の推し。熱を持った肌。滴る汗。

 そこへタオルを差し出す。


 ――王道ベタイベントでは?


 いや、待ちなさい。これはただの業務。側仕えとしてごく自然な、当然の職務の一環。何ひとつ特別では……。


(いや致死量では!?)


 私はそっと胸元を押さえた。危ない、不整脈が起きそうだ。


 前世の乙女ゲームでも、戦闘後や訓練後の『汗を拭うスチル』は鉄板中の鉄板だった。しかも隠しキャラであるクライスは、本編でそういうベタな甘いイベントが驚くほど少ない。

 だからこそ、たまに差し込まれる些細な接触スキンシップが、プレイヤーのライフを的確に削りに来るのだ。


 それが今、現実リアルで、私の手に委ねられようとしている。


「ルシア様?」

「大丈夫ですわ。ただ、職務に全力を尽くす覚悟をキメていただけですもの」

「はあ……」


 若い騎士が若干引いた顔をした。失礼な。私は今、命懸けである。


 ◇ ◇ ◇


 東部隊長との打ち合わせが終わる頃には、陽はかなり傾いていた。

 クライスは副団長室へ戻る前に「もう一度だけ数名の騎士の動きを見ていく」と言い、そのまま居残り指導に入った。

 つまり私は、その間に必要なものを完璧に整える猶予を得たのである。


 推しの肌に触れる『完璧な布』を選ぶ猶予を。


 私は控え所の棚の前に立ち、宝飾品でも鑑定するような真剣な顔で布を検分していた。


 厚み。吸水性。肌当たり。織りの細かさ。香り移りの有無。


「……こちらは少し硬いですわね」

「えっ、はい?」

「これは吸水が遅い。論外です」

「ろ、論外……」

「副団長のお肌に余計な摩擦ダメージを与えてはなりませんもの」


 近くにいた騎士二人が、揃ってドン引きした顔をした。


「副団長の、肌……?」

「……いや、まあ、確かに訓練後だから柔らかい布の方がいいのか……?」

「当然ですわ。熱を持った状態の肌は普段より敏感ですもの。ゴシゴシ擦るのではなく、優しく押さえるように水分を取れる質感が理想です」


 キリッと言い切ると、二人はなぜか一歩だけ後ずさった。本当に失礼である。私はただ、推し活における最適解を求めているだけだというのに。


 結局、私は最も肌当たりの柔らかい極上の白布を一枚選び、それを冷やしすぎない程度の清水で軽く湿らせた。その隣には、飲み水用の冷水と、塩分補給用に少しだけ果汁を落とした薄い飲み物も用意する。


 完璧である。完璧な『推し用・訓練後ケアセット』だ。


(よし……!)


 これでいつでも来なさい、推し。私は業務として、完璧に対応してみせる。

 なお、内心の私はすでにシミュレーションで十回くらい死んでいる。


 ◇ ◇ ◇


 訓練場の中央では、まだ剣戟の音が響いていた。

 クライスは若手騎士相手の指導でも一切の容赦がない。だが、ただ叩きのめすだけではなく、相手の癖を見抜き、最短の言葉で修正点だけを伝えていく。


「踏み込みが浅い」

「はいッ!」

「視線が先に動いている。その癖は実戦で狙われる。直せ」


 短い。だが的確。

 その一言一言に、騎士たちは真剣な顔で頷いている。


(指導する推し……最高……)


 私は布と飲み物を載せた盆を抱えながら、少し離れた位置でその姿を見守っていた。


 剣を握る手。汗でわずかに額へ張りついた前髪。訓練の熱を帯びた深い呼吸。夕暮れの光の中で動くたび、銀灰色の髪がかすかに揺れる。


 だめだ。何度見ても格好いい。

 戦闘そのものだけでなく、後進を育てる姿まで美しいとはどういうことだ。神は彼にどれだけ属性を盛れば気が済むのか。


「……副団長、少し休憩を入れられた方がよろしいのでは」


 気づけば、自然とそう口にしていた。

 クライスがこちらを見る。汗を滲ませたままの、あの射抜くような蒼い瞳で。


「まだいける」

「“まだいける”とおっしゃる方が無茶を重ねて倒れるのを、私は山ほど見てまいりましたの」

「お前の前職(社畜)の話か」

「それも含みますわ」


 周囲の騎士たちから、小さな笑いが漏れる。

 クライスは一瞬だけ黙り、それから木剣を下ろした。


「……五分だ」

「承知いたしました」


 勝った。

 内心で小さくガッツポーズをキメながら、私はすぐに盆を持って歩み寄る。

 ここからが本番。本番中の本番。推しの訓練後ケアという名の致死イベントである。


 クライスは訓練場脇の長椅子へ腰を下ろした。息は乱れていない。だが近づくと、戦闘後特有の熱気が陽炎のように伝わってくる。


 汗の匂いは決して不快ではなかった。鉄と革と、日差しに温められた布地の匂い。その奥に、うっすらと清潔な石鹸の名残がある。

 あまりに生々しくて、あまりに現実的リアルで、私は一瞬クラリとした。


(ち、近い……ッ!)


 だが退いてはならない。私は有能な側仕え。今この場で「推しが近すぎて無理です尊い」などという個人的感情を優先してどうする。


 私は完璧な微笑を貼りつけ、まず飲み物を差し出した。


「どうぞ。塩分を少しだけ補っておりますわ」

「……気が利くな」

「職務ですもの」


 受け取る際、彼の指先がカップに触れる。たったそれだけで、私の心臓がまた変な跳ね方をした。

 クライスは一口飲み、ほんのわずかに目を細めた。


「甘すぎない」

「訓練直後ですから」

「そうか」


 それから、私は問題の『布』へ視線を落とした。

 差し出すべきか。差し出してよいのか。いや、ここで躊躇しては厳選した意味がない。


 私は静かに、うやうやしく布を両手で掲げた。


「副団長。こちらを」


 クライスが布を見る。そして次に、私を見る。

 その視線だけで喉がキュッと鳴りそうになる。


「……汗を?」

「はい」

「自分でできる」

「存じておりますわ」


 私はニコリと極上の笑みを浮かべた。


「ですが、今の副団長は右腕の負荷が少し強うございますでしょう? 先ほど最後に受け流された時、肩の入り方がほんの少しだけ変わっておりましたもの」

「…………」

「ご負担を減らすためですわ。業務です」


 半分は本当。半分はもちろん、私情(オタクの欲望)である。


 クライスはしばらく黙っていた。

 断られるかもしれない、と覚悟しかけた、その時。


「……渡せ」


(あっ)


 許可が出た。

 許可が。出た。


 私は平静を装いながら、一歩だけ近づいた。そして、彼へ布をお渡ししようとして――止まる。


 クライスが動かない。

 いや、動かないというより、微妙にこちらの出方を待っている。


「……副団長?」

「お前がやると言ったんだろう」

「…………はい?」


 思考が、完全に停止した。


 今、この人は何と?

 私がやると?

 言ったんだろうと?


 え、待って。私は確かに「ご負担を減らすためですわ」とは言った。だがそれは布を渡す(サーブする)意味であって、直接拭う意味では――。


(いや文脈的に『拭いて差し上げます』と取られてもおかしくありませんわね!?)


 しまった。完全に言葉選びを誤った。

 だが、今さら「いえ布をお渡しするだけのつもりでした自意識過剰ですね」と引くのは、それはそれで不自然かつ失礼だ。

 それに、クライスの方も拒絶していない。むしろ、自然な顔で待っている。


 ……つまり。

 やるしかない。


 私は己の理性を総動員した。

 落ち着きなさい。これは仕事。これは介護。これは神聖な儀式。


「し、失礼いたしますわ……」


 震えそうになる声をどうにか丹田で抑え込み、私はそっと布を持ち直した。


 まずは額。直接触れすぎないよう、布越しに軽く押さえる。ゴシゴシ擦るなど論外。あくまで丁寧に、熱を逃がしすぎず、汗だけを吸わせるように。


 だが。

 近い。

 あまりにも、近すぎる。


 額にかかる銀灰色の髪。信じられないほど長い睫毛。ほんの少し汗に濡れたこめかみ。呼吸のたび、わずかに上下する男らしい喉仏。


(無理無理無理無理無理……!! 顔が良い! 情報量が多い!)


 私は内心で絶叫しながら、必死に手を動かした。


 布越しに感じる体温が高い。訓練後だから当然なのだけれど、それがひどく生々しくて、くらくらする。

 香りもそうだ。普段の執務室ではお茶とインクの匂いしかしないのに、今は違う。戦った直後の、熱と汗と鉄の気配。

『生きている男』の匂いだ。


 二次元のキャラクターではなく。ただの推しではなく。

 “この世界で息をしている一人の男性”として、あまりにも存在感が強すぎる。


(待って。いけませんわ。ここで『雄』を意識すると死にますわよルシア!)


 私は鋼の理性で自分に言い聞かせる。


 額が終わったら、次はこめかみ。その次に首筋――いや待って首筋!?

 そこは難易度センシティブが高すぎるのでは!?

 しかし汗は確かに流れている。見えてしまう。見えてしまった以上、見ないふりをするのは完璧な側仕えとして失格では?


「……どうした」


 低い声が頭上から落ちてきて、私はビクゥッと肩を震わせた。

 いけない。手が止まっていた。


「い、いえ。次、首元へ参りますわ」

「そうか」


 サラリと言わないでいただきたい。


 私はそっと布を持つ指先へ力を込める。

 首筋へ布を当てた瞬間、またしても呼吸が止まりそうになった。


 熱い。

 肌そのものの熱が、布越しにダイレクトに伝わってくる。

 しかも首筋という部位はあまりにもマズい。視界いっぱいに、鍛え抜かれた首から肩への美しい線が飛び込んでくる。汗が一筋、鎖骨の方へ流れかけていて、私は危うくそのまま石化しそうになった。


(むり……尊い……)


 これが致死量。この世界に“尊死”という概念があるなら、間違いなく今がそれだ。

 だが、外面の私は完璧だった。


「少し冷たすぎましたか?」

「いや」

「力加減は」

「問題ない」

「……よろしゅうございました」


 会話だけ聞けば、落ち着き払ったメイドそのものである。

 実際の中身は、とっくにショートして煙を吹いているのだけれど。


 その時だった。


「うわ……」

「近ッ……」

「副団長、あれ許すのか……?」


 少し離れた位置から、若い騎士たちのヒソヒソ声が聞こえてきた。

 やめていただきたい。意識するでしょう。ただでさえ瀕死(HP1)なのに。


「何だお前ら、見るな見るな!」

「いやでも気になるでしょローデン隊長!」

「気になるのは分かるが、副団長の顔を見ろ。下手に茶化したら物理的に殺されるぞ」

「……確かに」


 なるほど。ローデン隊長が牽制してくれているらしい。

 ありがたい。いや、ありがたいのだけれど、茶化されても困るし、固唾を呑んで見守られても困る。どう転んでも地獄である。


 私は最後に、こめかみから顎のあたりまで汗を丁寧に押さえ、サッと一歩引いた。


「……以上ですわ」


 終わった。

 何とか生き延びた。私、まだ生きている。偉い。本当に偉い。


 クライスは受け取った飲み物をまた一口飲み、それから私を見上げた。


「手際がいいな」

「ッ……ありがとうございます」


 心臓が変な跳ね方をした。

 褒められた。推しに。訓練後ケアを。

 いや待って、今のは仕事の評価。そう、ただの業務評価。分かっている。だが限界オタクとして嬉しいものは嬉しいのだ。


「慣れているのか」

「……お世話を、することには」

「そうか」


 私はほんの少しだけ目を伏せた。

 前世では、病気の母を支えた時期があった。現世では、あのバカ王太子の尻拭いと、使用人たちの仕事の流れを読みながら場を整える日々だった。誰かの負担を減らすことに、私は妙に慣れている。


 けれど。

 こんなにも手が震えそうになったのは、当然ながら人生で初めてだった。


 クライスは黙ったまま、しばらくこちらを見ていた。

 やめてほしい。その無言の観察はとても心臓に悪い。


 やがて彼は、ふと視線を私の指先へ落とした。


「……お前の方が、熱いな」

「えっ」


 間の抜けた声が出た。

 何の話。何の話ですの。


「指先だ」

 クライスが淡々と告げる。

「少し、赤い」

「…………」


 終わった。

 完全に終わった。


 私は今すぐその場に崩れ落ちて砂になりたい衝動を、気合いだけでねじ伏せた。

 そう、布を持っていた指先。極度の緊張と羞恥と興奮で、どう考えても体温が急上昇していたに決まっている。


「これは、その……」

「無理をしたか」

「…………はい?」


 予想外の方向から気遣われて、私は目を瞬いた。

 クライスはわずかに眉を寄せている。


「訓練場は暑い。お前は見学と補助が続いていた」

「い、いえ、私は」

「副団長付きとはいえ、限度はある。具合が悪いなら言え」


 あっ。

 これは。

 完全に勘違いしてくださっている。

 そして、その勘違いは私にとって大変都合がいい。


「……ご心配、ありがとうございます」

 私はできる限り上品に微笑んだ。

「少々、熱気に当てられてしまっただけですわ」

「なら日陰へ戻れ」

「かしこまりました」


 熱気に当てられて、という意味では嘘ではない。

 主に『あなたのフェロモン』のせいで、ですけれど。


 ◇ ◇ ◇


 その後、私は控え所の日陰へ戻された。

 手には空になった盆と布。胸の奥には、まだ全然治まらない動悸。


「ルシア様……」

 そっと近づいてきたのは、先ほど席を用意してくれた若い騎士だった。

「大丈夫ですか?」

「何とか」

「お顔、リンゴみたいに赤いですよ」

「ええ、自覚しておりますわ」


 主に羞恥で。


 若い騎士は微妙に気まずそうにしつつ、しかしどこか感心したような顔で言った。


「すごいですね」

「何がかしら」

「副団長、あんなに自然に人に世話を焼かせる方じゃないんです。というか、基本的に他人の接触を断るんです」

「……そう、なの?」

「はい。怪我の手当てですら最低限しか受けないですし、訓練後もだいたい自分でサッと済ませます」

「…………」


 それを聞いた瞬間、私の心臓がまた変な音を立てた。

 では、さっきのあれは。


 タオルを差し出し。私がやると言ったんだろう、と受け入れ。そのまま自然に任せてくださった、あれは。


(えっ)


 だめだ。考えるな。オタクの深読みは身を滅ぼす。


「まあ、副団長もルシア様が有能すぎて、もう『任せた方が早い』ってなってるのかもしれませんけど」

「……ええ、きっとそうですわ」

「でも」

 若い騎士は少しだけ笑った。

「それだけでも、かなりすごいことだと思います」


 私は返事ができなかった。


 訓練場では、すでにクライスが次の指導に戻っている。

 少し離れた日陰からでも、その姿は嫌というほど目に入った。

 木剣を構える横顔。まだ首筋に残る微かな汗。さっきまで私がそこへ布を当てていたという事実。


(だめ……思い出したらまた死にますわ……)


 私はそっと顔を伏せた。だが、どうしても口元が緩むのを止められない。

 仕事として受け入れられた。役に立てた。それだけで十分幸せなはずなのに。

 胸の奥が、前よりずっと騒がしい。


 ◇ ◇ ◇


 訓練が終わり、本部へ戻る帰り道。

 私はいつものようにクライスの半歩後ろを歩いていた。夕方の風が、火照った頬に少し心地よい。


「ルシア」

「はい」

「さっきの件だが」

「……はい」


 心臓が、ドクリと重く鳴る。

 さっきの件。どの件だろう。支援魔法? それともタオルの――。


「今後も、訓練後の飲み物はあれでいい」

「……ッ、承知いたしましたわ」

「布も」

「はい」

「今日のものを使え」


 私は危うく足をもつれさせるところだった。

 今日のもの。つまり、私が吟味に吟味を重ねて選んだあの柔らかい布。


「副団長のお好みに合いましたのね」

「使いやすかった」

「……それは、何よりですわ」


 だめだ。

 嬉しい。純粋に、ものすごく嬉しい。


 私が選んだものが、この人の基準に残る。次からもそれでいい、と言われる。

 たったそれだけのことなのに、心がどうしようもなく温かくなる。


 クライスは前を向いたまま、淡々と続けた。


「お前が選ぶものは、外れがない」

「…………」


 今度こそ、本気で立ち止まりそうになった。


 外れがない。

 そんな評価を。そんな、信頼みたいな言葉を。こんなに何気なく、寄越してしまうなんて。


「……恐悦、至極にございます」


 声が少しだけ掠れた。情けない。だが、これが精一杯だった。

 クライスはそれ以上何も言わなかった。けれど、その横顔はいつもよりほんの少しだけ柔らかく見えた。


 そして私は、知ってしまったのである。


 推しを遠くから尊ぶだけで満足できると思っていた。役に立てるだけで十分だと思っていた。

 なのに今は、評価されたことが、頼られたことが、選んだものを受け入れてもらえたことが、こんなにも嬉しい。


 それはきっと。

 ただの『推し活』だけでは、もう説明がつかない感情だった。


 ――などと、そんな厄介な真実に気づいてしまいそうになった私は。


「…………ッ」

「どうした」

「い、いえ。少々、風が心地よいだけですわ」


 全力で誤魔化した。

 まだ駄目。まだ認めては駄目。私はあくまで、推しキャラの側仕えを目指す限界オタク令嬢。それ以上でも、それ以下でもないのだから。


 ……多分。


 その頃、後方では。


「見たか?」

「見た」

「副団長、タオル拭かせてたな」

「しかも全く拒否しなかった」

「いや、あれはもう拒否しないどころの騒ぎじゃないだろ」

「完全に心を許した相手への距離感では?」


 などと、訓練場に残っていた騎士たちが大いにザワついていたのだが。

 当然、そのことを知る由もない私は。


『本日使用した清拭用の布を“副団長専用・訓練後用”として、今後も最適な状態で管理・運用しよう』と、極めて真面目な顔で固く決意していたのだった。


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