第63話 診断結果は『ご懐妊』。氷の騎士が人生で一番の歓喜の涙を流す
隣室の寝台へ移されてから、複数の医師たちによる診察そのものは、思っていたより静かに進んだ。
年配の経験豊富な女医は、とても落ち着いていた。
領都の常駐医も、屋敷の薬師長も、隣の部屋のクライス様のようにパニックになって必要以上に騒いだりはしない。
ただ真剣な目で質問を重ね、手首の脈を取り、眼球と顔色を見て、腹部へそっと温かい手を触れ、私の体調の変化を一つひとつ丁寧に確かめていく。
私は寝台へ浅く腰掛けたまま、自分の細い指先をぼんやりと見つめていた。
異常な眠気。
身体の鉛のようなだるさ。
紅茶やバターの匂いへの敏感さ。
朝の突然の吐き気。
そして、さっき女医から聞かれた質問。
――月のもの(生理)は、いつ来ましたか?
(……まさか)
限界オタクの頭の片隅で、前世の知識も相まって、その『可能性』はもうハッキリと浮かんでいた。
浮かんではいたのに、まだ現実として受け止めきれてはいない。
だって、あまりにも大きすぎる。
あまりにも、今の私とクライス様にとって、特別で意味のあることすぎて。
女医は診察を終え、しばらく黙って脈の動きを確認していた。
そして、やがて確信を持った、ひどく柔らかな優しい目で私を見る。
「奥様」
「……はい」
「お加減が悪い(ご病気)のではございません」
「……」
「むしろ、フェルド家にとって、大変喜ばしいことでございます」
胸が、ドクリと大きく鳴った。
「それは」
私の声は、自分でも驚くほど小さく震えていた。
「……ええ」
女医は、私の手を優しく握り、ハッキリと頷いた。
「ご懐妊です」
「…………」
その瞬間。
私の世界から、フッとすべての生活音が消えた気がした。
ご懐妊。
その言葉の辞書的な意味は、痛いほどよく分かる。
分かるのに、すぐには頭の処理回路へ入ってこない。
ただ、何度も何度も、胸の奥でその四文字がこだまのように反響していた。
ご懐妊。妊娠。
つまり。
今、この私のお腹の中に、新しい命があるということ。
「……ッ」
喉の奥が、熱くキュウッと詰まる。
「奥様?」
女医が少しだけ心配そうに身を乗り出す。
「あ……」
私は慌てて、熱くなった目元を押さえた。
「いえ、その、どこか痛いわけでは」
「お身体が辛いですか?」
「違いますの」
気づけば、自分の頬へあたたかい涙が一筋、ツーツーと落ちていた。
「あまりにも、急で……嬉しくて……」
「ええ。おめでとうございます」
女医は、我がことのように優しく微笑む。
「お母様の脈も落ち着いておりますし、今のところお腹の赤子に大きな不安はございません。順調です」
「……」
「ただし、これからの無理は絶対禁物です」
その声が、ほんの少しだけ主治医として厳しくなる。
「今まで以上に、でございますよ。書類仕事もほどほどになさってください」
「……はい」
はい。
本当に、全くその通りですわね。
今までの私は、限界オタクのテンションと前世の社畜根性に任せて、自分の身体を“まあチート魔法もあるし、一晩寝れば何とかなるでしょう”で無理やり押し切ってきた部分があった。
でも、もう違う。
この身体は、私一人のものではないのだ。
まだ平らなお腹へ、そっと両手を置く。
ここに、いる。
まだエコー写真すらない、魔法でも感じ取れないほど小さな命が。
私と、世界で一番愛するクライス様の間に結ばれた、奇跡のような新しい存在が。
(……まあ)
胸の奥が、ジンワリとあたたかく熱くなる。
嬉しい。驚いている。
母親になることへの責任で、少し怖くないわけではない。
でも、それ以上に、どうしようもなく、愛おしくて尊い気持ちがとめどなく湧いてくる。
女医が、立ち上がりながら静かに言った。
「扉の外で生きた心地がしておられない旦那様へ、すぐにお伝えいたしますか?」
「……ええ」
私は深呼吸をして息を整え、ゆっくり頷く。
「すぐにお願いいたします。私が直接」
だって。
あの方、今ごろ扉の向こうの寝室でどうなっているか分かったものではない。
多分、絶望で顔色をなくしたまま、扉の前で彫刻のように立ち尽くしていらっしゃる。
もしかしたら、本気で私が不治の病だと信じ込んで、王都どころか隣国の名医まで武力で拉致して連れてくる算段を始めているかもしれない。
そう想像すると、涙目になりながらも少しだけクスッと笑ってしまった。
◇ ◇ ◇
寝室の扉が開いた瞬間。
クライス様は、本当に扉の真ん前、あと数センチで板に鼻がつく距離まで来ていた。
「ルシアッ!」
私の姿を見た途端、その蒼い目がすがりつくように鋭くこちらを全身スキャンする。
顔色はまだ死人のように悪い。
息も浅く乱れている。
ああ、やっぱり。
1ミクロンも落ち着いていらっしゃらなかったのですわね。
「大丈夫ですわ」
私が微笑んで先に言うと、クライス様は一歩で距離を詰め、私の両肩をガシッと掴んだ。
「本当か。何の病気だ。俺の寿命を半分やれば治るか」
「ええ? 寿命!?」
「無理をして強がっていないか。腹が痛いのか」
「しておりませんし、痛くもありませんわ」
「だが顔色は……」
「さっき、吐き気がした時よりずっと良いはずです」
「……」
「本当ですわ」
私は少しだけ、彼を安心させるように笑った。
「でも」
「何だ。薬か」
「私が立っているとクライス様が落ち着かないようですから、座っていただいた方がよろしいかもしれません」
「……俺が?」
クライス様が、意味がわからずほんの少しだけ眉を寄せる。
そのポンコツになった反応が少しだけ可笑しくて、でも同時に、胸の奥が愛しさでキュウッとなる。
この人へ、今から伝えるのだ。
私たちの、尊い新しい未来を。
女医が、横から静かに、うやうやしく頭を下げた。
「旦那様」
「……何だ。妻の病名は」
「奥様は、ご病気ではございません」
その一言だけで、クライス様の強張っていた広い肩が、ほんの少しだけガクッと落ちた。
安堵。
まず、最悪の事態(死)を免れたという安堵が来たのだろう。
だが、女医の次の言葉は、その安堵すら一瞬で真っ白に塗り替えた。
「ご懐妊でございます」
「…………」
寝室の時が、完全に止まった。
クライス様の表情が、スッと消える。
いや、消えたように見えただけかもしれない。
それほどまでに、あまりにも予想外の致死量の幸福を浴びて、脳内の処理回路がショートして真っ白になったのだろう。
「……」
「クライス様?」
私は思わず、固まったまま動かない彼の名を呼ぶ。
返事がない。
ただ、その大きく見開かれた蒼い目だけが、ギギギ……と錆びた機械のようにゆっくりと私のお腹へ向き、そして顔へ向いた。
「今」
ひどく低い、かすれた、震える声。
「何と、言った」
女医がもう一度、今度はハッキリと笑顔で言う。
「奥様のお腹には、新しい命が宿っておられます。ご懐妊です」
「…………ッ!!」
それを脳髄で理解した瞬間。
クライス様が、まるで目に見えない巨大な何かに突き動かされるみたいに、私のもとへ崩れ落ちるように来た。
一歩。二歩。
そして次の瞬間には、私は強く、でも私のお腹を絶対に圧迫しない絶妙で優しい力で、すっぽりと抱きしめられていた。
「……ッ」
息を呑む。
あたたかくて広い胸。腕の強さ。
けれど、その抱擁はいつもの甘いものとは全く違った。
もっと必死で、もっと切実で、もっと――ひどく、ガタガタと震えていた。
「クライス様」
私は、彼の背中に腕を回してそっと呼ぶ。
「……本当か」
その声が、すぐ私の耳元で心細げに揺れる。
「ええ」
「……俺の、子どもが?」
「はい」
私は彼の広い背を、優しくトントンと叩いた。
「本当ですわ。私たちの子です」
その瞬間。
私を抱きしめる腕の力が、ほんの少しだけ震えながら強くなった。
そして。
ポタリ、と。
私の首筋へ、あたたかい水滴が落ちた。
「……え」
私は目を見開く。
もう一滴。
そしてまた一滴、止めどなく。
(まさか)
そっと身体を引いて顔を見ようとすると、クライス様はそれを許さなかった。
ただ、私を壊れ物のように抱きしめたまま、私の肩口へ深く顔を埋めている。
でも、分かる。
はっきりと分かってしまう。
この人、泣いている。
「クライス様……!」
私は思わず、信じられなくて声を震わせた。
「ッ、あ……」
堪えきれずに顔を上げたクライス様の目元は、今まで見たこともないくらい真っ赤だった。
いつも絶対零度だった蒼い瞳は涙で濡れ、美しい頬を伝う大粒の涙を、自分でも隠しきれていない。
「……すまない」
低い声が、ひどく掠れて、嗚咽で震えている。
「いや、その、俺は……」
「どうして謝るのです」
「……」
「そんな、謝るようなことではございませんわ」
「分かっている」
クライス様は、泣き笑いみたいな、どうにも形容しがたい、世界で一番幸せそうな顔で言った。
「分かっているんだが、涙が、止まらん」
「……」
「安心した。本当によかった……っ」
その絞り出すような一言で、私の方までまたブワッと涙が滲んで視界がぼやける。
安心した。
ああ。
そうだ。
この無敵の騎士は、ずっと怖かったのだ。
私が朝食の席で青ざめて倒れた時から、ずっと。
何か悪い病かもしれない。呪いかもしれない。
もしかしたら手遅れで、私を失うかもしれない。
そういう最悪のバッドエンドを、本気で想像して絶望の淵にいたのだろう。
だからこそ。
“病気ではない”という光の先に、“愛する妻との間に新しい命ができた”という奇跡の言葉が来た時。
極限の安堵と、爆発するような喜びと、愛おしさと。
今まで抑え込んでいたいろんなどデカい感情が、一気に決壊して溢れてしまったのだ。
「……ッ」
クライス様は、震える大きな手で私の頬へそっと触れ、涙を拭ってくれた。
「ルシア」
「はい」
「ありがとう」
「……」
「生きて、俺の妻でいてくれて……俺の子を宿してくれて、本当に、ありがとう」
その声は、何度目か分からないほど、深い愛情で震えていた。
私はとうとう耐えきれず、目頭を押さえて泣きじゃくった。
「そんな、私の方こそ」
「本当だ」
「私だって」
私はポロポロと涙をこぼして笑いながら、彼の首に腕を回して言う。
「同じくらい、嬉しいのですわ」
「……」
「だって」
そっと、自分のお腹へ彼の手を導いて重ねる。
「世界で一番愛する、クライス様との子ですもの」
そのド直球の愛の一言が、また限界オタクの夫の涙腺にクリティカルに効いたらしい。
クライス様は再び私をギュッと抱きしめると、今度は本当に、声にならない嗚咽を漏らしてポロポロと大粒の涙を落とし始めた。
氷の騎士。
戦場で数千の軍勢を前にしても1ミクロンも怯まぬ男。
誰より静かで、誰より強い、この国の最強の剣であるこの人が。
今はただ、妻の無事への安堵と、父親になる喜びのままに、子どものようにボロボロと涙を流して泣き崩れている。
その無防備な姿が、あまりにも愛おしくて。
尊くて。
胸がちぎれるほどいっぱになって。
私は彼の銀糸の髪を、背中を、何度も何度も「大丈夫ですわよ」と優しく撫でた。
◇ ◇ ◇
寝室にいた侍女も、気を利かせた女医たちも、いつの間にかそっと音もなく部屋を下がっていた。
今、このあたたかい日差しの入る部屋には、私たち夫婦二人だけだ。
クライス様はようやく、嵐のような涙のパニックから少し落ち着いたらしい。
けれど、片手はずっと私の手を命綱のように強く握ったままだし、もう片方の腕は私の腰へピッタリと添えられたままだった。
まるで、少しでも離れたら私が消えてしまうと不安に思っているみたいに。
「……クライス様」
「何だ」
「そろそろ、お顔を見たいのですけれど」
「俺はお前を見てるだろう」
「ちゃんと、真っ直ぐにですわ」
「……目は赤いし、ひどい顔だぞ」
私は少しだけ強引に身体を離し、彼の下を向いた顔を両手で包んで上を向かせる。
目元はまだ真っ赤に腫れている。
でも、その蒼い目の中には、今まで見たこともないくらい、海のように深く穏やかな喜びがあった。
「そんなにお嬉しいの?」
と、聞いてから。
自分でも、何て野暮なオタクの問いだろうと思った。
けれどクライス様は、照れることもなく大真面目な顔で深く頷いた。
「ああ」
「……」
「俺のこれまでの人生で、一番嬉しい」
「……ッ」
もう。
そんな重い愛を。
そんな真っ直ぐな瞳で。
私は尊さで爆発しそうになるのを必死に堪えながら、小さく幸せなため息をつく。
「私もですわ」
「……」
「お母様になるなんて、正直、少し怖くないわけではございませんけれど」
「……俺がいる」
「分かっておりますわ。だから、不安以上に最高に嬉しい」
私はもう一度、自分のお腹へ愛おしく手を置いた。
「この子が、私たちのところへ選んで来てくれたことが」
クライス様も、その私の手の上へ、自分の大きな手を重ねる。
剣ダコのある、ゴツゴツとした手。
あたたかい。
でも命の重みに、まだ少しだけ感動で震えている。
「守る」
彼が、誓いのように低く言った。
「お前も」
「……はい」
「このお腹の子も」
「……ええ」
「俺の命に代えても、絶対に」
その声音は、神に忠誠を誓う騎士の宣誓よりも静かだった。
でも、その分だけ果てしなく深くて、重かった。
ああ。
この人、本当にもう、父親としてすべてを守る気で覚悟を決めたのだ。
私の命も、この小さな命も、これから先の三人での未来まで。
「頼もしいですわね。最強のパパですわ」
私は少しだけ、涙の残る顔で笑う。
「当たり前だ」
「ええ」
「俺の、世界で一番大切な『家族』だからな」
家族。
そのあたたかい言葉が、私の胸の奥の、一番柔らかいところへストンと落ちた。
夫婦。
それだけでも、前世の孤独な私からすれば、奇跡のように十分に特別で幸せだった。
でも今、そこへ新しい命が加わって。私たちは本当の意味で“家族”になろうとしている。
何て。
何て、とてつもなく幸福なのだろう。
「クライス様」
「何だ」
「もう一度、ギューッと抱きしめてくださる?」
「……ああ」
クライス様は、何も言わずに私を優しく引き寄せた。
今度はさっきのパニックの時よりずっと穏やかで、でもやっぱり、とてもあたたかくて安心する大きな抱擁。
私はその広い胸へ顔を埋め、彼の心音を聞きながらそっと目を閉じた。
波乱の結婚式もあった。
王太子への断罪もあった。
辺境への新婚旅行(赴任)もあった。
悪徳代官へのざまぁもした。
チート魔法で領地も立て直した。
温泉も作った。
お菓子もバカ売れした。
隣国の軍勢もたった二人で吹っ飛ばした。
本当に、いろんなことがあった。
でも、その全部の怒涛の推し活の先に。
こんな優しくて、尊い未来が待っていたなんて。
「……私」
私は彼の胸元へ顔を寄せたまま、小さく言う。
「限界オタクとして、全力で頑張って生きてきて、本当によかったですわ」
「限界オタク?」
「前世からの、私の生き様(誇り)ですわ」
「よく分からんが」
クライス様の優しい唇が、私の銀髪へそっと触れてキスを落とす。
「俺も、お前と出会えて、生きてきてよかった」
それだけで、私の人生は完全に満たされて十分だった。
そうして。
あたたかい光の差す、フェルド辺境伯爵邸の寝室で。
無敵の氷の騎士は、人生で一番幸福な涙を流してパパになり。
限界オタクの妻は、その愛する推しの腕の中で、静かに新しい命の尊い重みを受け止める。
平和な二人の日常は、ここからまた、少しずつ賑やかな形へと変えていくのだろう。
けれど、それでいい。
むしろ、それが何より嬉しかった。
だって。
これから先の推し活(人生)は、もう私たち二人きりではないのだから。




