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婚約破棄の瞬間に「前世の記憶」が戻りまして。〜ヒロインの座は譲りますので、私は推しキャラの側仕えを目指します!〜  作者: 綾瀬蒼


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第61話 平和な日常への帰還。推しとの甘すぎるお茶会

 戦争(防衛戦)が終われば、辺境領地の空気は、翌日から驚くほどあっさりと元通りになる。


 ――と、前世のゲーム知識しかない私は、勝手に甘く思っていた。


 だが現実の領地経営は、そんなに簡単で都合の良いものではなかった。


 隣国皇太子ヴィルヘルムの理不尽な暴走。

 水源への毒殺未遂というテロ行為。

 灰岩平原での、たった二分での数千規模の降伏劇。

 隣国国王の、床に額を擦り付ける土下座謝罪。

 そして、王都への凱旋報告と国王陛下からの「国が傾く」認定。


 それだけの歴史に残る大騒ぎを経てなお、領地が一夜にして魔法のように“はい、今日から平和です”と元へ戻るわけがない。

 実際には、戦後処理の実務(サビ残)はそこかしこに山のようにあり、隣国からの莫大な賠償金の受け取り・管理手続きも、不可侵条約の細部詰めも、軍の移動で荒れた街道の再整備も、大人気となったお菓子工房の第三工場増設の手配も、まだまだ途方もない量のタスクが残っていた。


 ……残っていたのだが。


「ルシア」

「はい」

「その手元の紙(決裁書)を置け」

「無理ですわ」

「いいから置け」

「今ちょうど、賠償金の第一便で動かせる予算配分のシミュレーションを」

「そんなものは後でいい」

「後でもよろしいのでしょうけれど、今ここで決済印を押せば、明日の工房増設の着工が少し早まりますし、老朽化していた北側橋梁の補修手配も業者にすぐ出せますのよ」

「ルシア」

「……はい」


 私は、机へ広げていた分厚い収支表から、渋々といった感じで顔を上げた。


 そこには、予想通りの不満げな顔でこちらを見下ろすクライス様がいる。

 穏やかで、静かで、しかし“妻を休ませる”という決意に関しては一切引くつもりのない、氷の騎士の顔だ。


 ああ。

 駄目ですわね、これは。完全に強制終了の顔ですわ。


「本日の午後は、完全な休みだ」

「突然のストライキ宣言ですわね」

「突然ではない」

 クライス様は淡々と言う。

「王都から馬車で戻って三日。お前はまともにベッドで休んでいない」

「そんなこと」

「ある」

「……」

「昨日も、俺が寝た後に夜更けまで書類を見ていただろう」

「それは少々、隣国から毟り取った賠償金の額を見るのが楽しくて、オタクとして興が乗ってしまいまして」

「興が乗ったからといって、夜なべして国家予算レベルの賠償金の振り分けをするな。身体が保たん」

「でも、推しの領地が豊かになるのを見るのは、何よりの栄養(健康法)ですもの」

「それは知っているが」

「でしたら」

「だからこそ、お前が倒れる前に俺が休ませる」


 1ミクロンの迷いもなく、キッパリと言い切られた。


 私は思わず、膝の上の未処理の紙束をギュッと抱え込む。

 だが、目の前の人は私の限界オタクの行動パターンなど、それすら見越していたらしい。

 スッと音もなく近づき、何のためらいもなく、その大事な紙束を私の手からヒョイと抜き取った。


「あっ! クライス様!」

「没収だ」

「横暴ですわ! 領主夫人の権限の侵害です!」

「俺の夫権限だ」

「何ですのその、すべてを解決する無敵の便利な言葉は!」

「最近、お前を止めるのによく使っている。便利だな」

「完全に開き直らないでくださいまし……!」


 けれど、こちらの抗議など、無敵の夫にはどこ吹く風である。

 クライス様は紙束を机の端の『未処理ボックス』へドンと積み、代わりに私の手首を大きな手で取った。


「来い」

「どちらへ連行なさいますの」

「テラスだ」

「テラス?」

「お前と、茶にする」

「……」


 私はパチクリと瞬いた。


 茶。

 つまり、夫婦でのお茶会。

 絶対的な休憩。

 しかも、普段は仕事人間のクライス様が、自らそう言って私を連れ出すということは、多分、かなり本気で私を“甘やかして休ませる”つもりなのだろう。


(あらまあ……)


 それはそれで、少しだけ、いやかなり胸が甘くくすぐったくなった。


 ◇ ◇ ◇


 午後のフェルド辺境伯爵邸は、やわらかな春の光に満ちていた。


 戦の生々しい名残は、まだ完全には消えていない。

 けれど、日当たりの良いテラスから見える景色には、もう確かに“活気ある平和な日常”が戻っている。


 遠くには、陽を受けて黄金色に風に揺れる豊かな麦畑。

 さらにその向こうの山腹には、盛大に湯気を立てる大人気の超高級温泉施設の屋根。

 領都の方からは活気づいた市場のざわめきが細く届き、時折、フル稼働しているお菓子工房の方角から、甘い雪花菓子の焼ける匂いも風に乗ってくる。


「……」

 私は思わず、ホゥ、と満足げな息を吐いた。


 いい景色だ。

 とても。私の頑張り(推し活)の結晶だ。


 それを見れば私が喜ぶと知っていて、あえてここへ連れてきたのだとしたら。

 この不器用な人は、本当にズルい。


「座れ」

 クライス様が言う。


 テラス中央の白い丸卓には、すでにティーセットが完璧に整っていた。

 最高級の白磁のポット、薄青の縁取りが入った上品なカップ、焼きたてらしい雪花菓子、それから私が最近開発した新作の『冷やし蜂蜜乳菓プリン』まで美しく並んでいる。


「まあ」

 私は目を丸くした。

「クライス様が、ご準備なさっていたのです?」

「ああ」

「いつの間に……」

「お前が執務室で、血走った目で収支表へ噛みついている間にな」

「噛みついてはおりませんわ」

「はたから見れば、似たようなものだ」

「ひどい方」


 私は引かれた椅子へ、大人しく腰を下ろした。

 クライス様も、向かいの席ではなく、当然のように私のすぐ隣の席へ座る。

 近い。

 近いのだが、こうして当然のようにゼロ距離の隣へ来られるのにも、もうだいぶ慣れて(調教されて)しまった自分がいる。

 慣れたとはいえ、推しの顔が良すぎて胸が激しく跳ねないわけではないのが、オタクの厄介なところなのだけれど。


「では」

 私は卓上を見回した。

「どなたか、お茶を淹れてくださるメイドを呼びますかしら」

「いや。俺だ」

「…………はい?」


 私はピタリと固まった。


 今、この無敵の氷の騎士。

 確かに“俺が淹れる”とおっしゃいましたわね?


「クライス様」

「何だ」

「お茶を」

「ああ」

「ご自分で? その剣を振るう手で?」

「そうだ」

「…………(ゴクリ)」


 だめですわ。

 少し待ってくださいまし。深呼吸をさせてください。

 今の疲労した私に、その致死量の供給ファンサ情報は、火力が強すぎます。


 だって、最推しが。

 いえ、愛する夫が。

 使用人に任せず、自ら私のためにお茶を淹れてくださる?

 しかも、この穏やかで二人きりの午後のテラスで?

 そんなもの、限界オタクの心臓が平穏でいられるはずがないではありませんか。


「どうした。顔が赤いぞ」

「いえ、その」

 私はそっと、激しく高鳴る胸元を押さえた。

「少々、オタクとして昇天する覚悟を決めておりますの」

「ただの茶を飲むだけだ。大袈裟な」

「ただの“茶”ではございませんでしょう?」

「そうか」

「そうですわ。国宝級の茶です」


 クライス様は私の限界化の動揺をよそに、ごく自然な、一切の無駄のない手つきでポットへ手を伸ばした。


 完璧な湯の温度。

 茶葉の的確な蒸らし時間。

 カップへ注ぐ、流麗な高さ。

 どれも、戦場で剣を振るう男のものとは思えないほど、決して粗くない。

 むしろ――。


「……お上手ですわね」

 思わず、素の本音が漏れた。


 クライス様の大きな手が一瞬だけピタリと止まる。

「そうか」

「ええ」

 私は本気で感心して頷いた。

「ええ、とても。プロの侍女顔負けですわ」

「……お前がいつも淹れているのを、ずっと見ていたからな」

「……私を?」

「他に、俺の視界に入れる誰がいる」


「ッ(ドカンッ)」


 そうでしたわね。

 この人、時々こういう心臓に悪い爆弾を、何でもない真面目な顔で投下するのだ。

 私が何気なくお茶を淹れてきたその毎日の姿を、ずっと黙ってちゃんと見ていて。

 記憶して、覚えていて。

 それを今、当然みたいに私を喜ばせるために再現している。


 ああもう、本当に。


「ズルいですわ」

「何がだ」

「そういう、不器用なのにド直球なところです」

「そうか」

「そうです」

「なら、俺が淹れるのはやめるか?」

「絶対にやめないでくださいまし!!」

 私は反射的に、机から身を乗り出して懇願した。

「ぜひ最後まで、最後の一滴までお願いいたします!」

「……分かった」

 その整った口元が、ほんの少しだけ嬉しそうに緩む。


 やはり。

 私のこういう限界オタクの反応を、少し楽しんでいらっしゃいますわね、この方。


 ◇ ◇ ◇


 クライス様が淹れてくれたお茶は、驚くほど美味しかった。


 もちろん、私が飲むからという極大の贔屓目もある。

 あるのだけれど、それを差し引いても、本当に完璧に上手だった。


「どうだ」

 クライス様が、少しだけ緊張した声で問う。


 私はカップを両手で大切に包んだまま、ゆっくり、至福の顔で頷く。


「とても」

「……そうか」

「ええ」

 私は幸せに目を細めた。

「渋みが立ちすぎず、でも茶葉の香りはきちんと深みとして残っていて、飲む温度も絶妙ですわ。完璧です」

「ならよかった」

「しかも」

 私は卓上の雪花菓子と蜂蜜乳菓へ視線を落とす。

「このお茶請けの組み合わせ、計算して狙いましたわね?」

「何のことだ」

「香りの軽い茶葉に、まずは雪花菓子のサクサクとした蜂蜜の風味を合わせて、あとから冷たい乳菓で濃厚な甘みを重ねてスッキリさせる、完璧なコースの流れですわ」

「……」

「図星ですわね?」

「……少しな」

「まあ」


 私は思わず、声を立てて笑ってしまった。


 だって。

 あんなに強くて不器用な人が、そこまで緻密に考えてくださったのだ。

 ただ茶を淹れるだけでなく。

 私がどう飲み、どうお菓子を食べるのが一番美味しくて喜ぶかまで。


 それはもう、甘いなどという陳腐な言葉では全く足りない。


「クライス様」

「何だ」

「最近、私を甘やかす火力が、日に日に限界突破して高くなっておりません?」

「そうか」

「そうですわ。致死量です」

「お前が、そういう顔をするからだ」

「どういう顔ですの」

「今みたいな、俺を狂わせる顔だ」


「…………」


 私は、パクパクと口をつぐんだ。


 今みたいな顔。

 多分、すごく幸せそうで、嬉しそうな、とろけた顔なのだろう。

 自覚はある。

 あるけれど、それを当の本人(推し)から真っ直ぐ指摘されると、また別の意味で心臓が破裂しそうになる。


 私は咳払いを一つして、必死に話題を逸らすことにした。


「そ、それにしても」

「何だ」

「領地が、とても静かで穏やかですわね」

「ああ」

「ついこの前まで、隣国の軍隊だの、戦後交渉だの、王都での凱旋報告だのと、ずっと嵐のように慌ただしかったのに」

「……」

「こうして、陽だまりのテラスで二人でお茶を飲んでいるだけの時間があるなんて」

 私は少しだけ、夢を見るように笑う。

「不思議なくらいですわ」


 クライス様はカップを置き、テラスの先の平和な領地へ視線を向けた。


「お前が、この平和を取り戻したからだ」

「ええ」

「お前が、俺と一緒に守り抜いた」

「……はい」

「だから、今がある」


 その言葉は短い。

 けれど、重い実感を持って胸へゆっくりと落ちてくる。


 ああ。

 そうだ。

 本当に、そうなのだ。


 私たちは戦った。

 隣国の毒も、数千の軍勢も、皇太子の傲慢も、ミレーヌの嫉妬も、全部二人で理不尽に跳ね返した。

 愛する領民も、豊かな領地も、この尊い日常も、完璧に無傷で守り切った。

 だからこそ今、こうして、誰の脅威にも怯えることなく、穏やかな午後に心から向かい合っていられる。


「……最高に、尊いですわね」

「何がだ」

「この時間の、全部です」

 私は誤魔化さずに、正直に答えた。

「この平和な景色も」

「……」

「この美味しいお茶も」

「……」

「クライス様が、こうして私の隣にいらっしゃることも」

「……」

「全部ですわ。私の宝物です」


 クライス様は、しばらく何も言わなかった。

 だが、その沈黙は決して冷たくない。

 むしろ、ひどくやわらかく、あたたかい。


 やがて彼は、蜂蜜のように低く甘い声で言う。


「俺も」

「……」

「剣を振るう戦場より、こういうお前との時間の方が好きだ」

「まあ」

 私は嬉しさに目をパチパチさせた。

「戦や、あの血生臭い武勲より?」

「当たり前だ。俺は戦闘狂ではない」

「政務で領地を豊かにするより?」

「お前がただ隣で笑っている茶の方が、何億倍もいい」

「…………(ドカンッ)」


 ああ、またですわ。


 この方、本当に。

 どうしてこう、平然ととんでもない爆弾を。


「ク、クライス様」

「何だ」

「それは」

「何だ」

「かなり、甘いですわ」

「そうか」

「そうです」

「ただの、俺の魂からの本音だ」

「そこが、一番私の心臓にとって危険なのです!」


 私はカップの縁へギュッと唇を寄せ、どうにか淑女の体裁を保とうとした。

 熱い。

 お茶の温度のせいだけではない。

 顔が、火を吹くようにだいぶ熱い。

 多分、誰が見ても分かるくらいには、真っ赤に茹で上がっている。


 けれどクライス様は、そんな私をからかったり急かしたりはしない。

 ただ隣で、同じ平和な景色を見ている。

 その雄大な静けさが、たまらなく心地よかった。


 ◇ ◇ ◇


 しばらくすると、庭の向こうの広場から、子どもたちの元気な笑い声が風に乗って聞こえてきた。


 多分、領兵や使用人たちの家族だろう。

 最近は屋敷の周りでも、こういう屈託のない子どもの声が劇的に増えた。

 以前のように、皆がその日暮らしで余裕を失っていた貧しい頃には、あまり聞こえなかった希望の音だ。


 私はその明るい声に耳を傾けながら、そっと呟く。


「やっぱり」

「何だ」

「こういうのが、一番ですわね」

「……」

「推し――いえ」

 私は言い直して、小さく笑った。

「愛する夫との、この平和な日常が」

「今さら推しという言葉を訂正しても、遅い」

「ええ、存じております。私の重い愛ですわ」

「そうか」

「でも、本当に」

 私はクライス様を、真っ直ぐに見上げた。

「この時間が、私にとって一番尊いですわ」


 クライス様の目が、わずかに愛おしそうに細まる。


「そう思うなら」

「はい」

「ちゃんと、仕事の手を止めて休め」

「……そこでまた、そのお小言へ戻るのです?」

「重要だからな。お前はすぐ無理をする」

「うう……」

「今日くらい、賠償金も領地経営の書類も忘れろ」

「……」

「俺の前で、できるか」

 私は少しだけ、視線を泳がせて考えた。


 忘れる。

 仕事人間のオタクとして、完全には難しい。

 莫大な賠償金の振り分けも、第三工房の増設手配も、あの温泉の第二棟の拡張計画も、頭の片隅にはどうしてもチラついてしまう。

 だが。

 今、この幸せな時間だけは。夫の言う通り、棚上げにしてもいいかもしれない。


「……努力いたしますわ」

「努力ではなく、必ず守れ」

「その強引な言い回し、本当にお好きですわね」

「お前に対してはな。俺の特権だ」

「それも火力が高いのですけれど」

「そうか」

「そうですわ」


 クライス様は少しだけ考えるような顔をして、それから私の持つカップを、優しく強引に卓へ置かせた。


「では」

「何ですの」

「強制的に、もっと仕事の事など忘れて休めるようにしてやる」

「……へ?」

 次の瞬間。

 私はごく自然な、逃げ場のない動作で、その太い腕によって肩へグッと引き寄せられていた。


「ク、クライス様!?」

「何だ」

「ち、近いですわ」

「そうだな。夫婦だからな」

「そうだな、ではなく」

「俺に抱かれるのが嫌か」

「嫌では、1ミクロンもございませんけれど」

「なら問題ない。大人しくしていろ」

「だから、そういう問題では……」


 言いかけて、私はふと口をつぐんだ。


 密着したクライス様の肩は、驚くほど温かい。

 私を包み込む腕の力は穏やかで、でも絶対に逃がす気がないほどの強い独占欲が分かる。

 目の前には、私たちが守り抜いたテラスからの美しい景色。

 風はやわらかい。

 極上の茶の香りも残っている。


 ああ。

 これは、駄目だ。


 とても。

 とても、安心して落ち着いてしまう。


 私は小さく息を吐き、それから完全に観念して、彼の大きな身体へ自分の身体の力をスッと抜いて預けた。


「……」

「何だ」

「やっぱり、クライス様はずるいですわ」

「何がだ」

「こうして優しく包み込まれると」

 私は少しだけ、幸せに目を閉じる。

「本当に、仕事や書類のことを全部忘れてしまいそうですもの」

「それでいい。俺のことだけ考えていろ」

「よくありません。私は領主夫人ですのよ」

「いい。今はただの俺の妻だ」

「だって」

「何だ」

「仕事も大事ですわ」

「知っている」

「領地の未来も」

「知っている」

「隣国からの賠償金の取り立ても」

「分かっている」

「温泉第二棟の拡張計画も」

「だから、今は忘れろと言っているだろう」

「……フフッ」


 私はとうとう、我慢できずにフッと笑ってしまった。


 完全に、私の負けである。

 ええ、分かっておりますとも。


 でも。

 こうして、不器用な最推しに全力で甘やかされるのも、決して悪くない。

 いえ、むしろかなり良い。

 オタクとして、これ以上ないほど最高に良い。


「ルシア」

「はい」

「今、幸せか」

 問いは、あまりにも自然で、愛に溢れていた。


 私は一瞬だけ瞬いた。

 それから、1ミクロンの迷いもなく、心から微笑んで答える。


「ええ」

「……」

「とても。世界で一番、幸せですわ」


 クライス様の、私を抱きしめる腕の力が、ほんの少しだけギュッと強くなる。


「そうか」

「はい」

「なら、本当によかった」

「クライス様は?」

「……」

「どうですの」

 私はその腕の中で、少しだけ顔を上げて見上げた。

 その彫刻のような表情は、穏やかで、静かで、どこか少年みたいに照れくさそうですらあった。


「俺も、同じだ」

 低い、確信に満ちた声が落ちる。


「お前がいるから、俺の人生は最高に幸せだ」


 それだけで、私のすべては十分に報われた。


 ◇ ◇ ◇


 その後。

 私は本当に、しばらくの間だけ仕事のことを綺麗に忘れた。


 テラスのやわらかな風に吹かれながら。

 クライス様の広い肩へ安心しきって寄りかかり。

 時々、甘い雪花菓子を一枚つまんで彼と分け合い。

 クライス様が淹れてくれた最高のお茶を、ゆっくりと味わって飲む。


 ただそれだけの、贅沢な時間。


 隣国の脅威もなく。

 卑劣な毒もなく。

 数千の軍勢もなく。

 ざまあの準備も、血生臭い交渉事もなく。


 ここにあるのは、穏やかな平和な午後と、隣にいる愛する最推し――いえ、最愛の夫だけ。


(ああ……)


 やっぱり。

 私は、こういう平穏なイチャイチャが、一番大好きらしい。


 激戦の無双も、痛快な敵への断罪も、甘い溺愛も、全部大好きだ。

 でもオタクが最後に本当に欲しいのは、こういう『推しが幸せそうに笑っている時間』なのだろう。


 何でもない真面目な顔で、私のためにお茶を淹れてくれて。

 当然みたいに隣へ座って、私を抱き寄せて。

 “幸せか”なんて不器用に聞いてくれる、その満ち足りた日常。


「……クライス様」

「何だ」

「やっぱり」

「……」

「私、一生、このあなたの隣の特等席で、こうしてお茶を飲んでいたいですわ」

「一生、か」

「ええ。一生ですわ」

「いいだろう。俺の横は、お前だけの指定席だ」

「……ッ」

「その代わり」

「何でしょう」

「仕事ばかりせず、俺の前でちゃんと休め」

「またそこへ戻るのです?」

「当然だ。お前はすぐ無理をする」

「……本当に、過保護で抜け目がございませんわね」

「お前を世界一愛する夫だからな」

「その、ズルくて便利な言葉」

「好きだろう」

「……否定できませんわね」


 クライス様が、ごく小さく、声を出して笑った。


 夕方のやわらかな光が、テラスと彼の銀髪を金色に優しく染めていく。

 領地の活気あるざわめきも、少しずつ穏やかな夜の静けさへ溶けていく。


 そうして私は、彼の腕の中で改めて思う。


 やっぱり。

 戦に勝つのも、チート魔法で領地を潤すのも、敵にざまぁを決めるのも。

 全部、この愛する人との『こういう幸せな時間』を守るためなのだと。


 ――推しとの平和な日常。控えめに言って、最高ですわね。



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