第59話 戦後処理。隣国国王が土下座で謝罪し、莫大な賠償金をゲット
戦において、本当に厄介なのは『勝った後』である。
――と、前世の私はどこかの歴史解説動画で聞いたことがある。
その時は「へえ、そういうものなのね」程度に聞き流していた。
だが、今なら痛いほどよく分かる。
確かに厄介だ。
とても厄介だ。果てしなく面倒くさい。
なぜなら。
「……何ですの、この紙の量」
私は執務室の目の前の机へ、文字通り山のように高く積み上がった書類を見て、静かに、絶望的に呟いた。
敵軍二千の降伏後の武装解除名簿。
一時捕縛者のリストと身元確認。
怪我をしていないかどうかの負傷者の区分(※幸い、こちらの被害はゼロだ)。
大量の補給車両と武器の押収記録。
それら鹵獲物の仮査定と売却見込み。
国境封鎖に伴う商流の迂回ルートの整理。
そして、王都の国王陛下と、敵国である隣国グランゼル皇国へ飛ばす『事後報告の通達文案』の作成。
美しく分類して並べれば並べるほど、前世の月末決算期を思い出して現実逃避したくなる絶望的な量である。
「戦の後って、こんなに事務仕事(サビ残)が増えるんですのね……」
「増えるな。実務はここからだ」
向かいのデスクで、同じように膨大な書類へ猛スピードで目を通していたクライス様が、淡々と返した。
「存じませんでしたわ。たった一分で終わらせたのに」
「俺も、ここまで大規模な敵軍を無傷で丸抱えするのは初めてだ。普通はもっと殺し合って減るからな」
「まあ」
私は顔を上げた。
「それは少し、安心いたしました」
「何がだ」
「実務に強いクライス様でも“多い”と感じるなら、私がげんなりして文句を言うのも、オタクの怠慢ではなく仕方ないということですもの」
「そうか」
「そうですわ」
私は深くため息を吐き、気合を入れてからまたペンを取った。
灰岩平原で降伏したグランゼル皇国軍は、想像以上に数が多かった。
先遣隊だけでなく、上空のメテオと大量の白旗を見て戦意喪失した後続部隊まで、その場でご丁寧に武器を捨てて土下座したのだ。
結果として、現在フェルド辺境伯爵領の管理下(捕虜)にある敵兵は、軽く二千を超えている。
もちろん、全員を領都の地下牢へギウギウに詰め込むわけにはいかない。
そんなことをしたら今度はこっちの貴重な食糧と見張りの人手が死ぬ。
よって。
平原に一時的な拘束区画を作り。
武装解除済みの者は厳しい監視下で待機。
階級ごとに呼び出して聞き取り調査。
逃亡防止のために、私のチート魔法による広域の簡易結界を張り。
さらに、向こうの国からの正式な引き取り(身代金交渉)が来るまで、死なない程度の最低限の食事と水を回してやらねばならない。
……はい。
完全勝利した後の戦後処理は、大変厄介(ブラック労働)でございました。
「ですが」
私は書類の端をトントンと揃えながら、小さく、そして悪魔のように笑った。
「この面倒な厄介さも、勝った側が相手から『すべてを毟り取る』ための、正当な特権ですものね」
「そうだな」
クライス様の美しい口元が、ほんの少しだけ緩む。
「悲惨な敗戦処理よりは、よほどマシだ」
「ええ、大変に」
その瞬間、執務室の扉が勢いよく叩かれた。
「旦那様! 奥方様!」
入ってきたのはハインツさんだ。
だが、その顔が少々おかしい。
いつもの完璧な家令としての冷静さが三割ほど吹き飛び、残る七割が“何か信じられない、とんでもないものを見た”という顔をしている。
私はパチクリと瞬いた。
「どうなさいましたの。捕虜が暴動でも?」
「いえ! 隣国より、使者が」
ハインツさんは、ゴクリと唾を飲み込んで一拍置いた。
「グランゼル皇国の『国王陛下』が、自らお越しになりました」
「…………はい?」
一瞬、自分の耳の聞き間違いかと思った。
隣国の。
大国の、国王。
つまり、あの傲慢で頭の悪い皇太子ヴィルヘルムの父親であり、グランゼル皇国の現王その人が、この辺境の屋敷へ自ら出向いてきた?
「到着は?」
クライス様が、ペンを置いて即座に鋭く問う。
「つい先ほど、少数精鋭の護衛のみで領門へ」
「早すぎませんこと?」
私は思わず言った。
「灰岩平原での軍の降伏報告が向こうの皇都へ届いて、そこからここまで馬を飛ばすにしても、いくら何でも早すぎますわ」
「……昨夜、ウチが工作員を捕らえた時点から動いていたのだろう」
クライス様の声は低い。
「あのバカ皇太子の暴走が、最悪どこまで行くか、親としては読めていたのかもしれんな」
「つまり」
私は目を細めた。
「国としても、あのアホ皇太子が私兵を動かして国境でやらかす危険性は、事前に把握済みだった、と」
「そう考えるのが自然だ」
あらまあ。
ますます気分がよろしくありませんわね。責任重大ですわよ?
ハインツさんが続ける。
「随行の護衛は、最小限に絞っております。軍ではありません」
「武装は」
「儀礼用の剣のみ。こちらへ敵意や戦意は見せておりません」
「……」
「そして」
ハインツさんは少しだけ表情を引きつらせ、信じられないというように言った。
「“すぐにフェルド辺境伯爵ご夫妻へお目通り願い、直接謝罪したい”と、繰り返しおっしゃられております」
私はクライス様とスッと視線を交わした。
対応が早い。
とても早い。有能なトップだ。
だが、それだけ“これ以上怒らせたら国が滅ぶ、洒落にならない”と正確に判断したのだろう。
皇太子が独断で他国の辺境領へ軍を差し向け、しかもたった二人の前に一分で白旗。
さらに裏では工作員による水源毒殺未遂、当主夫人(私)の拉致未遂、全部の証拠が完璧にそろっている。
おまけに、国境のすぐそばには、いつでも皇国へ落とせる超特大の殲滅魔法の使い手が、ブチギレて控えているのだ。
……ええ。
国王としては、血の気が引いて夜も眠れなくて当然ですわね。
「通しましょう」
私は当主夫人として、威厳を持って言った。
「ただし、客間ではなく、正式な『謁見室』で」
「上から威圧するか」
クライス様が問う。
「ええ」
私はニッコリと、最高に黒い笑顔で笑う。
「こちらは“対等に応接する側”ではなく、“罪人を裁く側に近い”と、最初から骨の髄まで分からせる必要がございますもの」
「……ああ。名案だ」
クライス様は、頼もしそうに短く頷いた。
「徹底的にやるぞ」
「もちろんですわ。国庫が空になるまで毟り取ります」
◇ ◇ ◇
フェルド伯爵邸の簡易謁見室は、領主として正式な場を作るために、以前私が前世の知識で完璧に整えた部屋だった。
成金趣味の余計な装飾はない。
だが、決して安っぽくもない。
石造りの高い天井、足音が消える重厚な落ち着いた色の絨毯、領地の誇り高き紋章を掲げた壁。
中央に置かれた長机の位置も、わざと“こちらが絶対的な上座(優位)”になるよう、心理学的に設計済みである。
そこへ案内されて現れた、隣国の絶対権力者であるはずの国王は――。
「……あら」
思わず、そう漏らしてしまうほど、覇気と生気のない男だった。
年は五十代半ばほどか。
髪には苦労の白が混じり、顔立ちそのものはヴィルヘルムと似ている。
だが、息子のような傲慢さより先に、極度の疲労と、国を背負う重圧への憔悴が色濃くにじんでいた。
目の下にはひどく濃い隈。
額には冷や汗。
他国を訪問する旅装は完璧に整っているのに、それでも隠しきれないほど、顔色が青白い。
ああ。
本当に、文字通り寝ずに飛んできたのだ。
“一刻も早く間に合って謝らなければ、国が地図から消える”という、切羽詰まった顔で。
国王は、こちらへ数歩進んだところで、護衛を下げて一人で立ち止まった。
クライス様は一言も発さない。
私も扇を広げ、黙って氷のように冷たく見下ろしている。
口火は、絶対に罪を犯した向こうに切らせる。
それが外交の礼儀であり、力関係の明確な確認でもある。
数秒の、胃の痛くなるような重い沈黙。
やがて、隣国国王は、ひどく重く、掠れた声で言った。
「……グランゼル皇国国王、エドゥアルド・グランゼルだ」
「フェルド辺境伯爵、クライス・フェルドでございます」
クライス様が、座ったまま威厳を持って返す。
「妻の、ルシア・フェルドですわ」
私も、表情を崩さずに冷たく続けた。
その次の瞬間だった。
エドゥアルド国王は、こちらの歓迎の返答を待つでもなく――床へ、ドスリと重く膝をついた。
「……え」
控えていた近習兵たちが、一斉に息を呑む。
ハインツさんまで、信じられないものを見たようにわずかに目を見開いた。
私もさすがに予想外で、少しだけ瞬いた。
一国の王が、他国の、それも辺境のいち伯爵に対して膝をつくなど、あり得ないことだ。
だが、国王はそこで止まらない。
両手を冷たい床へつき、そのまま深く、深く頭を下げた。
額が床に擦り付けられる。
――土下座。
完全な、見事な、一切の言い逃れやプライドを捨てた、国を背負った完璧な土下座である。
「此度は」
国王の声は、血を吐くように掠れていた。
「我が愚息ヴィルヘルムが、貴領に対し、とんでもない無礼と暴挙を働いた」
「……」
「弁解の余地はない。すべては我が国の非だ」
「……」
「どれほど詫びても足りぬが、それでもまずは、国の長として、そして愚か者の親として、心より謝罪申し上げる」
室内が、シンと静まり返る。
ええと。
予想以上でしたわね。
もう少しこう、大国の王としての見栄を張って、言い訳を一枚かませてくるかと思っていた。
“あれは皇太子の独断で、本国は関知していなかった”だの、“現場の将軍との間に連絡の誤解があった”だの。
そういうクソみたいな保身を一通り挟んでから、形だけ頭を下げるのではないかと。
だが、違った。
この国王、本気で、すべての責任を背負って詫びに来ている。
……いえ。
本気で“ここでプライドを捨てて全面降伏(謝罪)しなければ、あのメテオで国ごと焼かれる”と、正確に理解しているのだろう。
それはそれで、国のトップの損切り判断としては、極めて正しく有能だ。
私はクライス様をチラリと見た。
向こうは、氷の騎士の表情をほとんど動かしていない。
だが、その沈黙は“土下座したから、はい許します”というような、生ぬるい温度ではない。
当然ですわよね。許すわけがありませんわ。
クライス様が、冷酷に低く言った。
「顔を上げろ」
国王が、ゆっくりと重い頭を上げる。
だが、膝は床についたままだ。
「愚息と、その側近のレオン、ならびに裏で糸を引いていた女の独断だと、見苦しい申し開きはしたくない」
エドゥアルド国王は、言葉を絞り出すように続ける。
「だが、彼らを止められなかった管理責任は、すべて私にある」
「……」
「グランゼル皇国として、正式に、全面的に謝罪する」
「……」
「そして、どんな対価を払ってでも『償う』」
その一言に、私は静かに、限界オタクの、いや『前世の経理担当』としての息を深く吸った。
来ましたわね。
ここからが、慰謝料請求の本番ですわ。
◇ ◇ ◇
ビジネスの交渉というものは、最初の主導権(空気)で七割が決まる。
そして今。
空気は完全に、100パーセントこちらにある。
隣国国王が自ら土下座し、すべての非を認め、白紙の小切手で償うと口にした。
ならば、あとはこちらがどこまで、何を、どう合法的にむしり取るかだ。
私はゆっくりと、慈悲深い女神のような笑みを浮かべて口を開いた。
「国王陛下」
「……何だ、ルシア殿」
「念のための確認ですが」
私は穏やかに微笑んだ。
「今回の件、皇太子殿下による身勝手な独断であったとしても」
「……」
「グランゼル皇国としての『国家の責任』は、全面的にお認めになるのですね」
「ああ」
「勝手に国境を越え、軍勢を動かしたことも」
「ああ。弁解しない」
「工作員を潜入させ、数万の領民の命に関わる水源へ致死毒を撒こうとしたことも」
国王の顔が、ギリッと苦く歪む。
「……ああ」
「さらに、他国の伯爵夫人である私に対し、不法な拉致と囲い込みを企図したことも」
「……」
「すべて、お認めになる」
数秒の重い沈黙の後、国王は観念したように低く答えた。
「認める」
よろしい。
私は心の中で、ガッツポーズをして小さく頷いた。
ここで一切の言葉を曖昧にさせない。
一つずつ、逃げ道を塞ぐように。
ハッキリと『言質』を取る。
前世で、こういう“相手のミスを口で認めさせてから、示談書へ落とし込む”作業は、クレーム対応で散々やりましたもの。
もう慣れたものですわ。
「でしたら」
私は机上へ、あらかじめ用意しておいた分厚い紙の束をバサリと差し出した。
「まず、我が領への『被害算定表』と『賠償請求書』をご確認くださいませ」
「……仕事が、早すぎるな」
国王が、その分厚さに絶望してかすかに目を見開く。
「ええ」
私はニッコリと、容赦なく笑った。
「だって、戦後処理で一番大事なのは、謝罪の言葉ではなく『誠意(数字)』ですもの」
そこから先は、ほとんど私の、前世の社畜スキルの独壇場だった。
捕縛した工作員の拘束・尋問費用。
水源防護のために私が張った追加結界の莫大な魔力石の代金。
領兵総動員に伴う、危険手当と深夜残業の臨時手当。
避難準備に伴う、領内の物流停止の営業損失。
絶好調だったお菓子工房の、操業一時停止による機会損失分。
大人気の温泉施設一時閉鎖による、予約キャンセルの逸失利益。
街道封鎖による商流阻害の他領への違約金。
さらには、今後数年にわたる『隣国への不信感』から来る、国境警備強化の人員再配置コストまで。
すべてを、キッチリと複利計算で上乗せしてある。
「ま、待て」
国王が、さすがに途中で顔を引きつらせて口を挟んだ。
「それは……いくらなんでも」
「何かしら」
「温泉の逸失利益まで、国に請求するのか」
「当然ですわ」
私は真顔で、1ミクロンも引かずに答える。
「私たちの尊く平和な日常と経済活動を脅かした、直接的な結果ですもの。1ギルたりとも負けません」
「……」
「しかも、湯上がり用の『冷やし果実蜜』の新規販路とプロモーションにまで、甚大な影響が出ておりますのよ」
「果実蜜」
「ええ。大人気商品ですの」
「……」
「フェルド領の経済にとって、とても大事ですわよ?」
国王が、ぐうの音も出ずに黙り込む。
その横で、クライス様は腕を組み、完全に沈黙を守っていた。
だが、その沈黙が良い。
私の強欲な請求を一切否定しないどころか、“妻の言う通りだ。それくらい払って当然だ”という絶対的な圧力で、私の背を支えてくれている。
ええ、分かりますわよ。
今のクライス様、黙って妻に全権を任せてくれるところが、最高に格好いいですわね。
「さらに」
私は紙をもう一枚、トドメのように重ねる。
「我が国との『不可侵条約』の再締結です」
国王の顔が弾かれたように上がる。
「今度は“辺境の小競り合いだった”だの“皇太子の独断で国は無関係”だのと、後から都合のいい解釈の余地が出ないよう、かなり明確で厳しい文言で縛らせていただきます」
「……」
「今後、国境を1メートルでも無断で越えた場合の違反時の賠償額も、最初から天文学的な数字で固定いたしましょう」
「固定、だと?」
「ええ」
私は黒く微笑む。
「そうすれば、次にまたお宅の国のアホな貴族が同じようなことを起こした時、取り立ての話が早いですもの」
「……」
「こちらも、二度目の“ざまぁ(殲滅)”をするのは、魔力の無駄ですし少々手間ですので」
国王が、完全に反論を諦めて押し黙った。
ハインツさんが後ろで、小さく「ブフッ」と咳払いをして誤魔化している。
多分、私の容赦のなさに笑いを堪えておられるのだろう。
分かりますわ。
私も、前世でできなかった『クソ取引先への完全なる倍返し』ができて、ちょっとだけ楽しくなってまいりましたもの。
「ルシア」
不意に、クライス様が低く甘く呼んだ。
「はい」
「少し落ち着け」
「落ち着いておりますわよ?」
「顔が、生き生きと輝きすぎている」
「それは気のせいでは?」
「違う。オーラがすごい」
「そうですの?」
「賠償交渉の時だけ、戦場より妙に楽しそうだ」
「……前世の経理部(社畜)の、取り立ての血の騒ぐ名残ですわね」
「名残で済む熱量か?」
「多分」
国王が、完全に疲れ切った顔で、私とクライス様のイチャつきを見比べる。
あら。
何ですのその、“本当にこの恐ろしい夫婦へ喧嘩を売ったのか、うちのバカ息子は。国が滅ぶ”みたいなお顔は。
はい。
その通り、自業自得でございますわ。
◇ ◇ ◇
最終的に、交渉の話は以下の通り完璧に決まった。
一、グランゼル皇国は、今回の軍事侵攻未遂、工作員潜入、水源毒殺未遂について、公式に全面的な非を認め、王都へも謝罪の使者を送る。
二、首謀者であるヴィルヘルム皇太子は、皇位継承権を即日剥奪・一時停止の上、本国へ強制送還し、厳重な幽閉監督下へ置く。
元ヒロインのミレーヌも同様に罪人として身柄を引き渡し、二度と国境付近へ近づけないよう修道院へ幽閉する。
三、皇国はフェルド辺境伯爵領へ対し、提示された『莫大な賠償金』を全額支払う。
しかも一括ではなく、今後数年にわたる継続納付とし、遅延時には恐ろしい額の複利を上乗せする。
四、国境地帯に関する不可侵条約を、従来よりはるかにフェルド領に有利で厳しい形で再締結する。
違反時は自動的に、皇国の領土割譲と巨額賠償が発生。
五、毒殺未遂に対する象徴的謝罪として、皇国側から高品質の『魔力浄水石』と『希少な薬草』を、市場価格の半額で永続的に大量供出(輸出)させる。
……ええ。
控えめに言っても、かなりガッツリと取れましたわね。
「莫大」
としか言いようのない、国庫が傾くレベルの賠償算定表へ、私は満足げにサインをして目を通す。
「どうですの?」
私はクライス様を見上げた。
「悪くない」
「“悪くない”で済ませる額ではございませんわよ。ウチの領地が五つは買えますわ」
「そうだな」
クライス様の口元が、わずかに誇らしげに上がる。
「俺の妻は最高だ。かなりいい」
「でしょう?」
国王エドゥアルドは、もはや心労で十年くらい一気に老けた顔をしていた。
だが、それでも契約書にサインをして、一切の文句は言わない。
言える立場ではないのだろう。
ここで少しでも出し惜しみすれば、今度こそ国境全体が『私のメテオ』で燃えかねないと理解している。
賢明な判断ですこと。
「……感謝する」
最後に、立ち上がった国王はそう重く言った。
「この程度の賠償と条件で、国を滅ぼさずに済ませてくれたことを」
「まあ」
私は少しだけ、目を丸くした。
「国王陛下は、もっとひどい未来(焦土)も想定していらしたのですね」
「していた」
国王は即答した。
「お前たち夫婦が、その気になれば、我が国は一日で滅んでいただろう」
そこで言葉を切り、深く頭を下げる。
ああ。
正確に理解しておられるのだ。
灰岩平原の敗戦報告が、どれほど軍事的に異常(理不尽)だったかを。
隣国の誇る大軍が、たった一分で白旗。
たった二人に。
しかもその片方は、軍人ですらない辺境伯爵夫人。
普通、そんなチートの報告は、国家存亡の悪夢だ。
「ご安心くださいませ」
私はニッコリと、心から微笑んだ。
「私ども、血の流れない平和的解決(お金)は大好きですの」
「……」
「ですから、今後はどうか、二度とこんなことが起きないよう、バカ皇太子殿下の手綱と教育を、死ぬ気でしっかり握ってくださいましね」
「……耳が痛い。肝に銘じる」
「でしょうとも」
国王はもう一度だけ深く頭を下げ、それからすべてを背負った重い足取りで、護衛と共に退出していった。
その背は、最初に部屋に入ってきた時より、さらに小さく見えた。
◇ ◇ ◇
重厚な扉が閉まった後。
謁見室には、嵐が去ったような静かな余韻だけが残った。
私はようやく、ピンと張っていた肩の力を完全に抜き、フゥーッと深く息を吐く。
「終わりましたわね」
「ああ。よくやった」
クライス様が、優しい声で答える。
「……」
「……」
「……」
私はゆっくりと、歓喜でニヤける口元を両手で押さえた。
「何だ」
「少々」
「何だ」
「やりましたわね!!」
「そうだな」
「賠償金、莫大ですわよ!?」
「莫大だな。城が建つ」
「これ、橋の補修も城壁の強化も水路の拡張も、全部、数年分前倒しで最高級の石材で整えられますわ!」
「……」
「お菓子工房の第三工場の拡張も!」
「……」
「領民への冬備蓄も、最高の肉と麦が買えます!」
「……」
「あの温泉の、豪華な第二棟の増築まで完全に視野に入りましたわ!」
「そこまで行くのか」
「行けますわよ!? 資金は潤沢ですもの!」
「そうか」
「そうですわ!」
だめだ。
嬉しい。とても嬉しい。
もちろん、あの皇太子の侵略という原因は最悪だった。
腹も立つし、ミレーヌの存在も不愉快だった。
二度と繰り返させる気はない。
だが、それはそれとして。
「この賠償金で、愛する推しの領地が、さらに最強に潤いますわ……!」
私はとうとう、歓喜で両手をギュッと握りしめた。
「ざまぁの結末としても、国から合法的にむしり取れて、かなり上質ではなくて?」
「最高に楽しそうだな」
「少しだけ」
「少しどころか、かなりだろう」
「それは、オタクとして否定いたしません!」
クライス様が小さく息を吐く。
だが、私を見つめるその目は、どこまでも甘くやわらかかった。
「ルシア」
「はい」
「お前、こういう修羅場の交渉の時は、本当に強くて頼もしいな」
「今さらですわ」
「そうだな」
「ですが」
私は少しだけ、照れたように笑った。
「私が強気に出られるのは、隣に『絶対的な武力を持つクライス様』がいてくださるからですわよ」
「……」
「私一人では、相手にナメられて、ここまで気持ちよく詰められませんもの」
「それは、夫として褒めているのか」
「もちろんです。最高のパートナーですわ」
「そうか」
「そうですわ」
クライス様は一歩近づくと、ごく自然に私の腰へ腕を回した。
人払いは完全に済んでいる。
だからこちらも、一切の抵抗なく素直にその厚い胸に身を預ける。
「とにかく」
私はそのあたたかい胸元へ少し寄りながら、嬉しそうに言った。
「これで、この領地はさらに爆発的に潤いますわ。黄金時代です」
「ああ」
「しかも、向こうは国王の土下座謝罪つき」
「ああ。完全勝利だな」
「最高ですわね」
「……否定はしない」
私はクスリと、心から幸せに笑った。
ええ。
本当に。
軍事的な戦後処理は厄介だった。
国家間の賠償交渉も、神経を使って重かった。
日常を脅かされた怒りも、完全には消えてはいない。
けれど、その全部の苦労をひっくるめても。
――愛する推しの領地を無傷で守り切った上に、向こう数十年は遊んで暮らせるほどの『莫大な賠償金と不可侵の安全』まで勝ち取れたのなら。
まあ、これ以上ない、最高で上々のハッピーエンドと言ってよろしいのではなくて?




