第58話 ミレーヌ、二度目の断罪。今度こそ完全に心をへし折られる
私たち夫婦が、灰岩平原で隣国の二千の大軍をわずか一分で白旗(完全降伏)へ追い込んでいた頃。
フェルド辺境伯爵邸の厳重に監視された客間では、たいそう滑稽で痛々しい茶番が繰り広げられていた(※後でハインツさんから詳細な報告を受けた)。
「ですから、何もご心配はございませんわぁ、ヴィル様」
ふかふかの長椅子へ腰掛け、気取った仕草で高級な茶杯を持ちながら、ミレーヌが甘ったるい媚びた声を響かせる。
その向かいには、横柄に足を組んだヴィルヘルム皇太子。
そして少し離れた位置には、昨夜から工作員の定時連絡が途絶えていることで顔色の悪い視察官のレオンと、緊張しきった数名の護衛たち。
客間の扉は閉じられている。
だが、完全な自由があるわけではない。
外にはフェルド伯爵家の完全武装の兵が張り、屋敷内の動線はすべて制限済み。
要するに、表向きは『尊い客人』、実態は『軟禁状態の容疑者』に近い扱いだ。
それでも、愚かなミレーヌはまだ都合の良い夢を見ていた。
「ルシアなんて、きっと今ごろ皇国の威光と大軍に恐れおののいて、真っ青になっておりますわ」
彼女は鼻にかかった声で醜く嗤う。
「たかが田舎の辺境伯と二人で、あの大軍を前に何とかなるはずがありませんもの」
「……」
ヴィルヘルムはまだ返事をしない。
だが、その沈黙を“自分の意見への同意”だと都合よく解釈したのだろう。
ミレーヌは、さらに気分よく得意げに続けた。
「だって、相手は二千の精鋭ですものぉ。あんな可愛げのない小賢しい女の魔法や、ただの剣馬鹿の男が、たった二人で止められるわけがございませんわ」
「……」
「今ごろ、膝をついて泣きながら後悔しているはずです。私を王宮から追い出したことも、ヴィル様へ偉そうに逆らったことも!」
「……」
「そうしたら、捕らえたルシアには、私がちゃんと分からせてあげませんと」
その目が、ドス黒い嫉妬と優越感でねっとりと歪む。
「自分がどれほど愚かで、私より下だったかを。ヴィル様の足元で這いつくばらせて――」
本当に。
この女は、何一つ成長していないし、変わっていない。
自分の見たい狭い世界しか見ず。
自分の都合のいい結末だけを信じ。
現実が違えば、泣いて喚いて誰かのせいにする。
そのくせ、今この瞬間も。
窓の外の遠くの平原から時折聞こえてくる『地鳴りのような爆音(私の魔法)』や、屋敷の廊下を走る妙に慌ただしい伝令の足音へ、1ミクロンの疑問も危機感も持たないのだから、底抜けのバカで救いようがない。
「……ミレーヌ」
ようやく、ヴィルヘルムが苛立たしげに口を開いた。
「はい、ヴィル様!」
「お前の言う“きっと”は、確実に当たるのだろうな。昨夜から工作員の戻りが遅い」
「もぉ、もちろんですわ!」
ミレーヌは自信満々に胸を張る。
「ルシアのことなら、幼馴染の私が一番よく知っておりますもの! あの女、気位が高くて強がっているだけで、本当はいつも誰かに守られないと何もできない――」
その時。
ドンッ! と。
客間の重厚な扉が、外から遠慮なく大きく叩かれた。
室内の全員が、ビクリと肩を揺らす。
レオンが真っ先に立ち上がり、顔を強張らせた。
「何事だ」
だが返事はない。
代わりに、扉の向こうから複数の重い足音。
こちらへ向かってくる、一切の迷いのない堂々とした足取り。
嫌な沈黙が落ちる。
ヴィルヘルムがゆっくりと立ち上がった。
「開けろ」
命じられた護衛が、一瞬ためらい、それから武器に手をかけながら扉を開く。
開いた先に立っていたのは、フェルド伯爵家の近習兵だった。
その表情は、不気味なほどスッキリと整っていて、逆に不穏である。
「何だ。騒々しい」
ヴィルヘルムが、皇太子の威厳を保とうと苛立たしげに問う。
近習兵は冷ややかに一礼し、淡々と、業務連絡のように告げた。
「ご報告申し上げます」
「……」
「グランゼル皇国軍の先遣隊二千名。先ほど、国境手前の灰岩平原にて『完全降伏』いたしました」
「…………は?」
部屋の空気が、絶対零度に凍りついた。
ミレーヌが、意味がわからず目をパチパチさせる。
レオンは一瞬、呼吸を忘れて何も言えなくなる。
ヴィルヘルムは、他国の言語でも聞いたかのように眉を寄せた。
「何を、ふざけたことを言っている」
低い声。
だが、そこには先ほどまでの高慢な余裕がもう一切なかった。
近習兵は、表情ひとつ変えずに追い打ちをかけるように続ける。
「敵軍は現在、全員が武器を捨てて武装解除済み。我が領兵が順次、捕虜として拘束と収容を進めております」
「……なッ」
「なお、開戦から降伏までの所要時間は『約一分少々』とのことです」
「……ッ!?」
「敵の白旗を確認したのち、旦那様と奥方様は無傷で、まもなくこちらへご帰還されます」
「……う、嘘、ですわ」
ミレーヌが、幽鬼のようにかすれた声を漏らした。
「そんな、そんなの……でたらめな嘘ですわよね!?」
誰も答えない。
近習兵は必要な『絶望の事実』だけを伝え終えると、再び一礼して扉を閉めた。
部屋には、死のような沈黙だけが残る。
一分。
たった、一分。
二千を超える皇国が誇る精鋭の軍勢が。
たった二人の夫婦の前に。
それだけで、戦意を喪失して膝をついた。
その異常な事実の意味(戦力差)を、一番正確に理解したのはレオンだった。
彼の顔から、サッと血の気が引いていく。
「で、殿下……」
その震える声は、もはや進言ではなかった。
完全なる『死』の確認だ。
ヴィルヘルムは、何も言わない。
いや、言えないのだろう。
自分の絶対的な権力(軍事力)が、たった一分で塵になったという現実の理解が、脳の処理能力を超えている。
「お、おかしいですわ!」
最初に現実を拒絶して発狂したのは、やはりミレーヌだった。
彼女は半ば悲鳴のような声を上げ、狂ったように首を振る。
「そんなの、絶対にありえませんわ! だって、だってルシアの魔法と辺境伯の剣の、たった二人だけで――!」
「その、たった二人だけで、だ」
地鳴りのような低い声が、扉の向こうから落ちた。
再び、扉が開く。
部屋へ入ってきたのは、私の愛する『氷の騎士』、クライス様だった。
返り血ひとつ浴びていない。
白銀の鎧も乱れていない。
ただ、二千の軍勢を蹂躙してきた『戦場帰りの圧倒的な死の空気(覇気)』だけを纏っている。
その後ろから、私も扇を広げ、優雅な足取りで静かに客間へ足を踏み入れた。
私のドレスの外套へ、平原の土埃がわずかについていたけれど、それだけだ。
呼吸の乱れは何もない。
つまり、要するに。
私たちは、朝の散歩から戻ってきたかのように、何事もなかったかのように帰ってきたのだ。
「ヒッ……!」
ミレーヌの喉から、蛙が潰されたような情けない声が漏れる。
ああ。
やっと、その目で見ましたわね。
自分が簡単に潰せると信じて疑わなかった相手が、髪の毛一筋の乱れもなく、無傷で真っ直ぐに立って戻ってきた『絶望の姿』を。
ヴィルヘルムの整った顔が、初めて恐怖と屈辱でハッキリと歪んだ。
「……ば、馬鹿な。我が軍が……」
「現実ですわ」
私はニッコリと、最高に美しく微笑む。
「残念でしたわね。あなた方の浅はかな野望は、たった一分で終了です」
ミレーヌがガタガタと震えながら後ずさる。
けれど、そこは壁際だ。
逃げ場など、最初からどこにもない。
「ル、ルシア……」
震える声。
「な、何をしたの……? 悪魔とでも契約したの!?」
「何を、とは?」
私は不思議そうに小首を傾げた。
「愛する夫と共に、理不尽に踏みにじられそうになった平和な日常(推し活)を、ただ物理的に守っただけですわ」
「そ、そんな……」
「相手は二千の精鋭の大軍でしたのに?」
私は扇の奥で、クスクスと笑った。
「ええ。でも、だから何だという話ですの? ただの『的が大きいだけの烏合の衆』でしたわよ」
その冷酷な言葉に、ミレーヌの顔が見る間に青ざめていく。
理解できないのだろう。
自分が“数で簡単に潰れる側の弱い女”だと思っていた私が、実は“数千の軍隊ごと一瞬で踏み潰せる側のバケモノ(最強)”だったという現実が。
ああ。
本当に、最高にいい気味ですこと。
◇ ◇ ◇
「さて、ヴィルヘルム殿下」
私は今度は、青ざめている皇太子へ向き直った。
「惨めな敗北の味(ご感想)はいかが?」
「……ッ」
「視察の翌晩に、恩を仇で返して水源へ致死毒を撒き」
「……」
「それが看破された次の日には、逆ギレで大軍を差し向け」
「……」
「その全部が、たった二人の人間に完璧に粉砕されたお気持ちを、ぜひインタビューで伺いたいのですけれど?」
「黙れェェッ!!」
ヴィルヘルムが、血走った目で怒鳴った。
だが、その怒声は虚しく空気を震わせるだけだった。
皇太子の威圧感が1ミクロンもない。
ただの負け犬が、怒鳴ることで必死に自分のちっぽけなプライドを保とうとしているだけだ。
「黙りませんわ」
私は平然と、氷の目で見下ろして返す。
「今さら、その程度の負け犬の遠吠えで、私が怯むとでも思って?」
「貴様……辺境の女風情が!」
「こちらの領地へ毒を撒いて民を殺そうとしておいて、失敗したら軍勢まで寄越して返り討ちに遭った無能な皇太子が、そのような偉そうな顔をなさらないでくださいまし」
私は少しだけ、笑みを残酷に深くする。
「これ以上は、ただ滑稽なだけですわよ」
レオンが、もう完全に心が折れて「皇国は終わった……」という顔でうつむいている。
この男は多分、最初から武力行使はすべてが悪手だと分かっていたのだろう。
だが、主を止められなかった。
あるいは、止める覚悟が足りなかった。
その報いとしては、十分すぎるほど無様な結末だ。
一方、現実を受け入れられないミレーヌは。
「ち、違いますわ!」
彼女は突然、ヴィルヘルムの袖へ必死に縋りついた。
「ヴィル様! わ、私は悪くありません! だって、ルシアがこんな……こんな化け物みたいに強いなんて、本当に知らなくて……!」
「…………」
「聞いておりませんでしたもの! ただ、男に媚びて有能ぶってるだけの小娘だって、そう思って――」
その瞬間。
ヴィルヘルムの顔が、ゆっくりと、ひどく憎悪に満ちて醜く歪んだ。
「……お前」
「ヴィル様?」
「“ただの飾りのお飾りの女だ”と言ったな」
「え」
「“あの女を奪えば、辺境伯は狂って崩れる”とも」
「そ、それは……」
「“我が皇国の軍を見れば、震えて泣いて縋るはずだ”とも言ったな!!」
ミレーヌの顔が、サァッと真っ白になる。
ああ。
始まりましたわね。
責任転嫁と、仲間割れの時間ですこと。
ヴィルヘルムは、今、自分の軍がたった二人に一分で負けたという現実を受け入れきれていない。
自分の無能さを認めたくない。
だから、その敗北の責任をすべて“誰かのせい”へ押しつけようとしている。
そしてそこへ、ちょうどよく、自分に都合のいい嘘ばかりを吹き込んだ『愚かな女』がいる。
最悪のクズ同士、実にお似合いの末路ですこと。
「わ、私は、ヴィル様のためを思って……!」
「黙れ、疫病神が!!」
「ッ!」
「何の役にも立たんどころか、俺に一生消えない恥と敗北をかかせただけではないか!」
「そ、そんな……」
「俺に気安く触るな! 近づくな!!」
ヴィルヘルムが、心底汚いモノを見るように袖を激しく振り払う。
ミレーヌはその勢いで、無様に床へ転がり、崩れ落ちた。
私はその様子を冷たい目で見下ろしながら、静かに思う。
これですわ。
あの女が、人生で一番耐えられないもの。
それは、自分が利用して頼った男から『見捨てられる』こと。
自分を“可愛い”“守るべき女”と言ってチヤホヤしてくれるはずの相手から、無価値な役立たずとして物理的に切り捨てられること。
王太子アーサーの時もそうだった。
だがあれは、まだ甘かった。
アーサーは愚かでも、一度は彼女へ本気の情を向けていた。
だからこそ、ミレーヌも心のどこかで“また泣けば、別の誰かが庇ってくれる”と信じられた。
でも、このヴィルヘルムは違う。
この男は、最初から人を“自分の欲を満たす便利な道具として使えるかどうか”でしか見ていない。
役に立たない(むしろ害悪だ)と知った瞬間、一切の情けもなく、ただの生ゴミみたいに捨てる。
ミレーヌは、ようやくその残酷な『現実』にぶつかったのだ。
「ヴィ、ヴィル様……」
床へ膝をついたまま、彼女は震える声で縋る。
「わ、私は、まだあなたのお役に立てますわ……! ルシアの弱点のことなら、もっと、もっと探れば――」
「お前のような無能なゴミは、もう二度と俺の視界に入るな」
その吐き捨てるような冷酷な一言で、ミレーヌの顔から一切の希望の光が消えた。
ああ。
ええ。
そうですわね。
その絶対的な拒絶の言葉は、承認欲求の塊である彼女にとって、物理的な剣よりも鋭い致命傷だ。
まだ役に立てる。
まだ男に必要とされる。
まだ私は、愛される特別な存在だ。
その歪んだ最後の望みを、今、自分がすがった男から真正面から切り捨てられたのだから。
◇ ◇ ◇
けれど、私たちの断罪はまだ終わらない。
この害悪な女の心を本当に永遠に折るなら、もう二度と立ち上がれない『最後の一押し』が要る。
私はゆっくりと、床で震えるミレーヌの前へ歩み寄った。
彼女は床に崩れたまま、恐怖と涙で化粧がドロドロに崩れた顔を上げる。
「ル、ルシア……」
その声には、怒りも嫉妬も、まだ少しだけ残っていた。
でも、それ以上に濃いのは、絶対強者である私に対する『本能的な恐怖』だった。
「何ですの」
私は静かに、見下ろして問う。
「ど、どうして……」
「……」
「どうして、あんたばっかり……!」
やっとのことで絞り出した、それが彼女の根底にある本音だったらしい。
「どうして、何でも持ってるのよ! 王太子妃の座をあっさり捨てたくせに! こんな辺境の田舎に追放されたくせに! それなのに、どうして私よりそんなに幸せそうなのよォォッ!!」
狂乱した叫びが、客間に虚しく響き、そしてシンと静まる。
ああ。
やっと出ましたわね。その浅ましい本音が。
自分が人生をかけて欲しかったものを、私が“あんなバカ王太子、要りませんわ”とあっさり手放した。
その上で、彼女が価値がないと見下していた辺境で、王都にいた時よりもっと大切なもの(愛と力と豊かさ)を手に入れて、心底幸せそうに笑っている。
それが、空っぽな彼女には何より許せなかったのだ。
私はしばらく、黙って哀れな彼女を見下ろした。
「ミレーヌ」
「……ッ」
「あなた、本当に何も分かっていなかったのですね」
「……」
「豪華な王太子妃の座も」
「……」
「権力のある男からの薄っぺらい寵愛も」
「……」
「他人を嘘で蹴落として奪う優越感(立場)も」
私は静かに、真理を突きつけるように言った。
「その全部が、“本当の幸せ”とは全く別の、ただの虚飾でしたのよ」
彼女の震える唇が、ヒクリと歪む。
私はトドメを刺すように続ける。
「私は、あなたが欲しがったゴミのようなものを、羨ましいと思ったことなど、これまでの人生でただの一度もございませんわ」
「うそ……強がりよ……!」
「いいえ」
私は、心からの幸福に満ちた笑顔でニッコリと微笑む。
「だって、私には『世界で一番私を愛してくれるクライス様』がおりますもの。彼さえいれば、他の男や地位など塵と同じですわ」
ミレーヌの目が、限界まで見開かれる。
その瞬間。
私の背後で、ずっと黙っていたクライス様が、静かに一歩近づいた気配がした。
私は振り返らない。
振り返らなくても分かる。
今、私を愛するこの人が、あの女に対してどんな顔(殺意)をしているか。
そして、ミレーヌにもそれはハッキリと見えている。
彼女の焦点の定まらない視線が、私の肩越しの彼方へ向く。
その先にいる『氷の騎士』の顔を見て。
ミレーヌの顔から、完全にすべての血の気が失せ、真っ白になった。
「……ッ、ヒィッ……」
喉の奥が引きつるような、恐怖の痙攣音。
それもそのはずだ。
クライス様は今、ミレーヌを見ていた。
一片の情もなく。
憎しみすら通り越して。
嫌悪すら、少しも隠さず。
まるで、道端に転がる『汚物』でも見るみたいな、絶対零度の冷たい目で。
ああ。
はい。
これですわね。
私の前世からの推し活ロードマップ通りですわ。
クーデレキャラが、心底嫌いな相手に向ける“ゴミを見るような目(最高のスチル)”。
しかも今回は演技ではない、本物の、心底どうでもよさそうな冷たい視線。
好きとか嫌いとか、そんな感情を向ける価値すら1ミクロンもない『無価値な害悪』へ向ける、絶対的な拒絶の目だ。
ミレーヌの肩が、ガタガタと小刻みに震え始める。
「な、なんで……」
彼女は、かすれた壊れた声で言う。
「なんで、私に、そんな目を……私はただ、愛されたかっただけなのに……」
クライス様は一切答えない。
言葉を交わす価値もないとばかりに、ただ冷たく、氷の彫刻のように無表情で見下ろしているだけだ。
私はゆっくりと、最後通告を言った。
「当たり前でしょう?」
「……」
「あなた、私の大事な推し(夫)を散々愚弄して」
「……」
「私たちの領地へ毒を入れようと企んで」
「……」
「その上、まだ自分が男から“選ばれて愛される側のヒロイン”だとでも思っていたの?」
「……ッ」
ミレーヌの空虚な目から、ポロリと絶望の涙が落ちる。
けれど、もう誰もその涙に騙されて、彼女を慰める者はこの世界のどこにもいない。
ヴィルヘルムは忌々しそうに見向きもしない。
レオンは自分の命の心配で顔を伏せたまま。
そしてクライス様は、彼女の存在自体が視界に入っていないかのように、ただ私のことだけを愛おしそうに見つめている。
「……あなたの浅ましい人生は、ここで完全に終わりですわね」
私は、死刑宣告のように静かに告げた。
ミレーヌは、その言葉へも何も言い返せなかった。
ただ金魚のように口をパクパクさせ、何か言い訳をしようとして、結局何の言葉も出てこない。
女の強欲な心が完全に折れる時というのは、案外、派手な悲鳴ではなく、こうして絶望のあまり音もなく崩れ落ちるものなのだ。
◇ ◇ ◇
その後、皇太子ヴィルヘルムと廃人同様になったミレーヌ、そして側近たちは、すべて武器を取り上げられ、領兵の厳重な監視下(牢獄)へ投獄された。
隣国の皇太子だからといって、ウチの領地に手を出した以上、好き勝手させる理由にはならない。
むしろ、ここから先は国家間の泥沼の賠償交渉と、責任追及の段階である。
王都へも、捕縛した工作員と猛毒、降伏した二千の先遣隊の証言、そして皇太子側の暴言の記録魔法すべてを乗せた『完全な証拠セット』の急報を飛ばした。
客間を出た後。
私は誰もいない静かな廊下で、ようやく大きく、ホッと息を吐いた。
「大丈夫か? 疲れたろう」
クライス様が、優しい声で労うように言う。
「少しだけ」
私は正直に頷き、彼の腕に軽く寄りかかる。
「でも、精神的にはだいぶスッキリいたしましたわ」
「そうか」
「ええ」
私は少しだけ、意地悪く笑った。
「ミレーヌのあの腐ったプライドは、今度こそ綺麗に粉々に折れたでしょうし」
「……」
「それに、クライス様の最後のあの目、オタクとして最高でしたわ」
「何がだ」
「“ゴミを見るような目”です。ご馳走様でした」
「……」
「いえ、もう少し正確には、“視界に入っていても意味がない汚物を見る目”でしたわね。解像度が高くて素晴らしかったですわ」
「お前は、本当に細かいな」
「オタクにとって、ディテールの観察は命より大事ですもの」
「そうか」
「そうですわ」
クライス様は小さく呆れたように息を吐く。
だが、その整った耳が、ほんの少しだけ赤い。
あら。
もしかして、私がド直球で褒めたのが効きましたの?
「クライス様」
「何だ」
「戦場でも、さっきの部屋でも。本当に、格好よかったですわ」
「……」
「とても。世界で一番」
「……今、そういうことを言うな」
「どうしてですの?」
「お前がその満面の笑顔で言うと、俺の調子が狂う」
「まあ」
私はクスリと、心から幸せに笑った。
だが、その笑みの奥で、当主夫人としての怒りはまだ残っている。
当然だ。
これはまだ途中(チェックメイトの手前)だ。
実行犯の心を折って捕らえただけで、終わりではない。
本当に巨額の賠償金を毟り取って潰すべきは、この愚かな侵攻を容認したグランゼル皇国そのものなのだから。
けれど。
少なくともあの元ヒロイン・ミレーヌに関しては、もう十分だろう。
自分が欲しかった富や地位も。
男からの都合のいい寵愛も。
他人を嘘で蹴落として得た優越感も。
何一つ手に入らず。
最後には、自分がすがりついた男に無価値なゴミとして切り捨てられ。
私が最強の夫に愛されている姿を真正面から見せつけられ。
クライス様には、文字通り“存在価値のないもの”として見下ろされた。
――ええ。
二度と這い上がれないくらいには、十分にざまぁの刑は執行されたでしょう。
私はそう思いながら、そっとクライス様の太い腕へ、自分の細い指を絡めた。
「さて、次は」
「何だ」
「隣国の国王陛下に、膨大な賠償金の請求書と、土下座の準備でもしていただきましょうか」
「……」
「だって、ウチの領地に手を出したのです。もう王都の陛下も巻き込んで、そこまで来ておりますもの」
「そうだな。逃がさん」
「でしたら」
私はニッコリと、最高に美しい笑顔で笑った。
「最後まで、相手の国庫が空になるまで、キッチリと詰めて(搾り取って)差し上げませんと」
クライス様もまた、ひどく静かな、底知れぬ圧を秘めた目で頷いた。
そう。
私たちの反撃は、まだ終わっていない。
国を巻き込んだ賠償の本番は、これからだ。




