第51話 氷の騎士の絶対零度の怒り。推しの殺気が国境を越えそうです
領門前の空気が、ピシッ……と音を立てて凍りついていく。
本当に。比喩ではなく、物理的にである。
クライス様が一歩前へ出た、その瞬間から。
春ののどかな陽気は嘘みたいに完全に消し飛び、全員の吐く息の輪郭が白くうっすら見えるほど、周囲の温度が劇的に下がっていた。
「……ッ」
視察官のレオンが思わず息を呑み、肩を震わせる。
隣国側の重装備の護衛たちも、一斉に顔色を変えて後ずさった。
それもそうだろう。
今のクライス様には、普段私へ向ける不器用で甘い優しさの残滓など、1ミクロンもない。
そこに立っているのは、第一騎士団副団長として数々の地獄の戦場を単騎で制圧し、敵国から“死神のような氷の凄腕騎士”と恐れられてきた男そのものだった。
――しかも、世界で一番愛する妻を、目の前で下品に侮辱された直後である。
(ああ、完全にアウト(地雷)ですわね……)
私は半歩後ろで、心の中だけで小さく額を押さえた。
格好いい。
とても格好いい。ひどく格好いい。
最愛の推しの『ガチの殺気』が、物理法則をねじ曲げて大気の気温を下げるなど、前世の私が画面越しに聞いたら確実に尊さで卒倒する最高のファンサ案件である。
だが、同時に。
(このままですと、本気で隣国の皇太子の首を物理的に斬り飛ばしてしまいかねませんわ……!)
尊さと、国家間戦争の危機感が両立するこの修羅場。オタクの心臓へ悪すぎる。
ヴィルヘルム皇太子は、その異常な殺気に最初の一瞬だけ気圧されて言葉を失った。
だが、さすがに大国の皇太子を名乗ってふんぞり返ってきただけの面の皮の厚さはある。
すぐに、引きつった顔へ薄い笑みを強引に貼り直した。
「聞き捨てならん、か」
その声音は、必死に強者の余裕を装っていた。
「たかが辺境の田舎伯爵にしては、随分と大きく出る」
「……」
クライス様は一切答えない。
ただ、絶対零度の蒼い瞳で、ゴミを見るように真っ直ぐに皇太子の首筋を見据えている。
それだけで、十分すぎた。
皇太子の護衛の一人が、恐怖に耐えきれず、ほんの少しだけ足をずらして剣の柄に触れた。
その瞬間。
バキィッ!! と。
クライス様の足元から、鋭く分厚い氷の棘が石畳を這うように走り、護衛たちの足元スレスレを丸く囲い込んだ。
「「ヒッ!?」」
隣国側が一斉に悲鳴を上げて強張る。
レオンなど、完全に腰を抜かして一歩下がっていた。
ああ。
もう駄目ですわ。
威圧の段階で、すでに地面が広範囲に凍りついておりますもの。
これはだいぶ、本気で殺る気(臨戦態勢)です。
「クライス様」
私は、澄んだ声で低く呼んだ。
今はまだ、彼の名前を一つ置くだけでいい。
止めるのではなく、私がここに安全にいると知らせるために。
クライス様の広い肩が、ほんのわずかに揺れた。
それだけで十分だった。彼の理性は、まだこちら側に繋ぎ止められている。
「殿下」
ようやく、クライス様が口を開く。
声は低く、静かで、そして恐ろしいほど冷たく研ぎ澄まされていた。
「先ほどの言葉を、今すぐ撤回しろ」
「断る」
ヴィルヘルムが、虚勢を張って顎を上げる。
「私は、価値ある美しいものへ、それに相応しい華やかな王宮の場を与えると言っただけだ」
「その腐った価値を測る口で、俺の妻を品定めするな」
「品定めだと?」
皇太子が鼻で笑う。
「実際、お前の女は抱き心地も良さそうだし、価値があるだろう? 田舎騎士には勿体無い」
「……」
その瞬間。
クライス様の腰の剣の柄へ置かれた長い指が、ピクリと動いた。
抜く。
誰もが、そう確信した。
私も思った。
隣国側の護衛など、恐怖で顔を歪ませながら反射的に武器を抜こうとしている。
「――殿下」
今度は私が、クライス様を庇うように一歩前へ出た。
クライス様の正当な怒りを止めるためではない。
この愚かな男へ、“これ以上喋ると、本当に首が飛ぶ”という最後の警告を示すためだ。
私はニッコリと、一切の感情を消して笑った。
「どうやら殿下は、著しくご理解が足りない(頭が悪い)ようですので、ハッキリと申し上げますわね」
ヴィルヘルムの不快な目が、私へ向く。
その視線に、もう先ほどのねっとりとした余裕は少ない。
あるのは、思い通りにならないことへの苛立ちと、それをごまかすための特権階級の傲慢さだけだ。
「私は、誰かに都合よく“与えられる場”を求めて生きてはおりませんの」
「……何だと」
「欲しいものは、自分の力で選びますわ」
私はクライス様の隣へ、誇り高く立った。
「そして、すでに最高のものを自ら選んでおります」
「この田舎の辺境伯爵をか?」
ヴィルヘルムが嘲るように言う。
「ええ」
私は1ミクロンの迷いもなく、即答した。
「私を世界一愛してくれる、世界で一番価値のある、最高に格好いいお方ですもの」
「……ッ」
今度は、ヴィルヘルムだけでなく、その後ろのレオンまで完全に固まった。
あっ、と思った。
少々、限界オタクとしての愛の火力を上げすぎましたわね。
ですが仕方ない。紛れもない事実である。
隣のクライス様の気配が、一瞬だけ、殺気とは違う種類の『ドロドロに甘い熱』を帯びたのが分かった。
やめてくださいましクライス様、そういう限界化の反応は、夜の寝室で後でお願いします。
今は外交的修羅場の最中ですので、集中してくださいまし。
「くだらん」
だが、皇太子は顔を真っ赤にして吐き捨てるように言った。
「男女の安い戯れ言など、聞く価値もない」
「でしたら」
私は微笑んだまま、扇で口元を隠して優雅に返す。
「他国の夫婦の会話へ、嫉妬して首を突っ込まないでくださいましね。みっともないですわよ」
「貴様……ッ!」
ヴィルヘルムの頬が、屈辱で激しく引きつる。
ああ、よろしいですわね。
この男、自分が見下して支配できると思っている相手から、真正面から完膚なきまでに切り返される(論破される)経験が、人生であまりないのだ。
だから、こういう時に露骨に余裕が崩れてボロを出す。
だが、その時。
「で、殿下!」
レオンが、震える声でひどく控えめに声をかけた。
「ここは一旦、お言葉をお収めください」
「黙れ」
「しかし、これ以上は我が国の不興を――」
「黙れと言っただろうが!!」
レオンがビクッとして口をつぐむ。
……つまり、側近の中にはまだ、状況のヤバさを理解できる『理性のある者』がいる。
厄介なのは、その数少ない理性を、皇太子本人が愚かにも全力で踏みつぶすタイプだということだ。
クライス様が、ようやく静かに一歩進んだ。
ただの一歩。
それだけなのに、隣国側の護衛が本気で悲鳴を上げそうになりながら身構える。
当然だ。
今の一歩には、明らかに“次はない(次は斬る)”という絶対的な死の圧があった。
「最後に言う」
クライス様の声は、どこまでも冷たい。
「俺の愛する妻を侮辱したこと」
「……」
「俺が守る我が領地を、不当に見下したこと」
「……ッ」
「その両方について。今この場で、這いつくばって俺の妻に詫びろ」
「断ると?」
ヴィルヘルムが、青ざめた顔で言い返した。
強がりだ。だが、まだ引けないのだろう。次期皇帝として。
あるいは、辺境の騎士へ頭を下げるという現実を受け入れられなくて。
クライス様は、微塵も表情を変えずに淡々と答えた。
「そうだな」
その蒼い目が、死神のように細まる。
「お前たち全員、国境まで『五体満足』で帰れると思うな」
「――ッ!!」
それは、交渉の脅しではなかった。
確固たる事実の宣告だった。
だからこそ、場にいた全員へ、ゾッとするほど深く、本能的な死の恐怖として刺さった。
皇太子の顔から、初めてハッキリと血の気が引く。
今の一言と放たれた殺気で、ようやく脳髄の芯まで理解したのだろう。
目の前の男は、ただ怒っているのではない。
本気で、自分たち全員を一瞬で肉塊にして排除する気になれば、国同士の事情など微塵も迷わないのだと。
しかも、それをたった一人で余裕で実行できるだけの『規格外の実力』と『妻への狂気じみた愛(覚悟)』があるのだと。
レオンが、今度は隠しきれずに泣きそうな顔で一歩前へ出た。
「で、殿下!!」
その声は、もはや進言というより命乞いの懇願に近かった。
「ここは一度、お言葉を収められるべきかと存じます!」
「……ッ」
「我々の本来の『視察』の目的を、どうかお忘れなきよう……!」
「……チッ」
ヴィルヘルムの屈辱に満ちた舌打ちが、小さく鳴る。
ああ。
よかった。
少なくとも、この領門の前で今すぐ血の雨が降る全面衝突は避けられそうだ。
だが、皇太子は最後まで素直には退かなかった。
唇を憎悪に歪め、私とクライス様を睨みつける。
「……辺境の、田舎騎士風情が」
「殿下!」
レオンが今度こそ本気で絶望して青ざめる。
「それ以上は、本当に命が……!」
ヴィルヘルムは、そこでようやく不快な言葉を切った。
そして、ゆっくりと私を見る。
その目には、先ほどまでの余裕ぶった色欲はない。
代わりにあるのは、傷つけられたちっぽけな自尊心と、私という存在を執念深く覚えておこうとする粘着質な執着だった。
底知れず、不気味で嫌な目ですわね。
とても。
「……視察は、予定通り行う」
皇太子は吐き捨てた。
「さっさと案内しろ、クライス・フェルド」
「許可した必要な範囲だけだ」
クライス様が氷の視線で切り返す。
「屋敷での勝手な行動は一切許さない」
「ふん」
「こちらも、殿下方を一応の客として遇する、最低限の礼は尽くす」
クライス様の声は低いままだ。
「お前たちに、その礼を受け取るだけの知能があるなら、だが」
ヴィルヘルムは何も言い返さなかった。
いや、恐怖で言えなかったのかもしれない。
少なくとも、これ以上ここで言い合えば、自分の首が物理的に飛ぶとだけは理解したらしい。
私はそこで、そっとドレスの下で張り詰めていた息を吐いた。
どうにか。
どうにか、一線(開戦)は越えなかった。
だが。
今回は越えなかっただけで、彼らの目的が消えたわけではない。
この皇太子は、絶対に引き下がっていない。
むしろ、“欲しいと思った女に真正面から拒絶された”ことで、余計に執着と復讐心を強めた可能性が高い。
面倒ですわね。
本当に。
◇ ◇ ◇
不愉快な視察団を屋敷内の厳重な客間へ通した後。
ようやく二人きりになれた廊下で、私は壁へそっと手をついてへたり込んだ。
「……生きた心地がいたしませんでしたわ」
「そうか」
クライス様の声は、まだ低い。
私はそっと見上げる。
ああ、まだ完全には戻っていない。
この人、今もかなり、腹の底でドス黒く怒っている。
というか、さっきよりむしろ静かで危ない。
「クライス様」
「何だ」
「理性は、まだちゃんと残っております?」
「ある」
「本当ですの?」
「俺の目の前に、無傷のお前がいるからな」
「……ッ」
そのド直球の返しは、ズルいですわ。
こんなギリギリの時でも。
こんな時でも、そういう重い愛の言葉を平然とおっしゃる。
けれど今の言葉で、私の緊張の糸が解けて、少しだけ力が抜けたのも事実だった。
私はそろりと近づき、彼の剣を握っていた硬い手の袖へ、指先でそっと触れる。
「ありがとうございます」
「何がだ」
「剣を、抜かなかったこと」
「……」
「私のために、我慢してくださって」
クライス様はしばらく黙っていた。
それから、低く、ひどく静かな声で言う。
「本音を言えば」
「はい」
「あのふざけた男の喉元へ、今すぐ剣を突き立ててやりたかった」
「でしょうとも」
「今も、その衝動はあまり変わらん」
「それは少々、外交的に困りますわね」
「分かっている」
分かっている。
その一言で、十分だった。
私は少しだけ笑って、それから彼を元気づけるように付け加える。
「でも」
「何だ」
「推しの本気の殺気が、国境を越えそうなくらい圧倒的で格好よかったのは、オタクとして紛れもない事実ですわ」
「……」
「ただし、ハラハラして私の寿命は縮みましたけれど」
「そうか」
「そうです」
「なら、後でお前の好きな甘い茶を淹れる」
「……ズルいですわ」
「何がだ」
「そうやって、ちゃんと私を安心させて、日常の夫に戻ってくださるところが」
クライス様は何も答えなかった。
ただ、ほんの一瞬だけ、私の肩へ優しく触れる。
それだけで十分だった。
その確かな温度に、私はようやく確信する。
この場は凌いだ。
だが、事態は終わってはいない。
隣国皇太子ヴィルヘルム・グランゼル。
あの男は、私をモノとして値踏みし、クライス様を侮り、そして完璧に拒絶された。
なら、次はもっと陰湿で卑劣な手を使って、絡め手で来る。
ええ。
分かっておりますとも。
視察という名目の厄介な来客は、どうやら本気で“厄介ごと”そのものらしい。
そして私は、この時まだ知らなかった。
この傲慢な視察団の背後に。
あまりにも見覚えがありすぎる、あの王都で追放されたはずの『胸の悪い笑みを浮かべた女(元ヒロイン)』が、復讐のために紛れ込んでいることを。




