第5話 騎士団の予算見直しで完全無双
私が第一騎士団副団長付きの専属側仕え(仮)となってから、三日。
その短い期間で、騎士団本部には一つの奇妙な噂が定着しつつあった。
曰く――副団長室に住み着いた銀髪の妖精がいる。
曰く――その妖精は未処理書類の山を喰らい、極上のお茶を淹れ、ついでに人の残業まで魔法で消し飛ばす。
曰く――あの氷の副団長が、その妖精を追い出さない。
最後の一点が、騎士たちにとっては最も天変地異レベルの衝撃だったらしい。
「おはようございます、副団長。本日の予定表と、東部警備の追補報告、それから昨夜届いた王宮からの通達ですわ」
「……そこへ」
「かしこまりました」
朝一番。
塵ひとつなく整えられた副団長室で、私は机の上に書類を優先順位通りに並べていく。
クライスはいつものように短い言葉だけを寄越し、必要な書類へ無駄のない動きで手を伸ばす。私はそのタイミングに合わせて次の資料を差し込み、温かいお茶を置き、インク瓶をすり替える。
実に平和だ。実に充実している。
そして何より、尊い。
(ああ……推しの朝のルーティン……! なんて神聖な儀式なの……!)
朝の柔らかな光を受ける銀灰色の髪。書類をめくるしなやかで長い指。無表情のまま、必要な箇所だけを瞬時に読み取る鋭い蒼い瞳。
素晴らしい。まさに眼福。国家の至宝。合法的にこんな至近距離から推しを拝見できるだなんて、婚約破棄って人生最高のイベントでは?
……と、内心では今日もサンバを踊っているのだが、もちろん表には一切出していない。
今の私は、完璧な副団長付き側仕え。仕事の鬼にして、推しの安寧と健康を守る『絶対環境整備要員』である。
そんな穏やかな朝の聖域をぶち壊すように。
バァン! と、副団長室の扉が勢いよく開かれた。
「副団長! ちょっと厄介なことになってます!」
飛び込んできたのはローデン隊長だった。いつもは飄々としている彼が、珍しく本気で眉を吊り上げている。
クライスが静かに顔を上げた。
「何だ」
「例の納入業者です。今月分の武具と医薬品の請求書を持ってきたんですが……どう見ても、金額がおかしい」
その言葉に、私はピクリと指先を止めた。
(来たわね)
これは多分、来るべくして来た案件だ。
なぜなら私はこの三日間、副団長室の仕事だけでなく、騎士団全体の書類の流れも「ついでに」すべて把握していた。その中で、いくつか妙な点に気づいていたのである。
訓練用木剣の異常な消費ペース。
包帯や消毒薬の申請と、実際の納入量の微妙な齟齬。
そして何より、特定業者にだけ集中している不自然な発注。
(やっぱり、そこでしたのね)
私は静かに微笑んだ。外面だけ。
内心では、前世の社畜OL時代に幾度となく不正経費や謎の請求書を炙り出してきた『経理のバケモノ』としての私が、バキバキと指の関節を鳴らしてアップを始めていた。
クライスはすぐに立ち上がった。
「行く」
「はい」
「ルシア、お前も来い」
「かしこまりましたわ」
――推しからの、同伴命令。
たったそれだけで歓喜の悲鳴が漏れそうになるのを、鉄壁の理性で抑え込む。浮かれるのは後だ。今は推しの職場に巣食う害虫を駆除する時間である。
◇ ◇ ◇
第一騎士団本部、一階会議室。
そこには、いかにも「羽振りの良い商人です」と全身で主張している男がふんぞり返っていた。
年齢は四十代半ば。腹回りだけ立派な体格に、指にはこれ見よがしな宝石の指輪。上等すぎる香油の匂いが鼻につく。
男の名は、ゲスパー・バルド。
騎士団に武具、保存食、医薬品まで幅広く納めている中堅商人――表向きは、だが。
「これはこれは、副団長閣下! わざわざお出ましいただき光栄ですなぁ」
ゲスパーは立ち上がりこそしたものの、その声音には妙な馴れ馴れしさが滲んでいた。明らかに「脳筋の騎士団相手ならこれくらいでいい」と舐め腐っている態度である。
会議室へ入った瞬間、私は机の上の書類へ一瞬だけ目を走らせた。
請求書、納品書、在庫確認票、前月比較表。
(あ、これ完全に真っ黒ですわね)
クライスが無駄のない足取りで席につく。私はその斜め後ろへ控えた。
ゲスパーの脂ぎった視線が、チラリと私へ向く。
「おやおや、今日は随分と華やかな付き添いですな。まさかむさ苦しい騎士団も、ようやく職場に『花』を置く気になりましたか?」
……ほう?
ニコリ、と私は極上の微笑みを浮かべた。
微笑んだだけである。そのはずなのに、なぜか隣でローデン隊長が「うわ」と小さく呟いて一歩下がった。
クライスは男の軽口を完全に無視し、書類へ視線を落とした。
「請求額が先月比で三割増えている。理由は」
「いやぁ、副団長閣下もご存知でしょう? 昨今は物価も上がっておりますし、魔物被害で流通も不安定でしてなぁ。うちも苦しいんですよ」
「納品量は増えていない」
「いわば『品質向上分』、とでも申しましょうか」
ヘラヘラと笑うゲスパー。
その態度を見た瞬間、私は確信した。この男、騎士団を完全にカモにしている。
現場の騎士たちは命懸けで戦うのが仕事であり、数字や帳簿に強い者ばかりではない。必要な物資さえ届けば、多少の金額差など「そんなものか」「戦時下だから仕方ない」で流してしまう。
そこにつけ込んで、じわじわと水増し請求を重ねていたのだろう。
(典型的な小悪党ですこと)
私は一歩、前へ出た。
「その『品質向上分』について、具体的な内訳をご説明いただけます?」
ゲスパーが目を瞬いた。まさかただの『花(側仕え)』が口を挟むとは思っていなかったらしい。
「……はて、そちらのご令嬢は?」
「副団長付きの側仕えですわ」
「ほう。しかしこれは騎士団と商会の、金が絡む重要な取引の話でしてねぇ。お嬢様の遊び相手には少々難し――」
「質問にお答えくださいませ」
ピシャリ、と遮る。
声音はあくまで淑やかに。だが、逃がす気は1ミリもない。
会議室の空気が、スッと氷点下まで張り詰めた。
ゲスパーは一瞬だけ言葉に詰まったものの、すぐに薄笑いを浮かべ直した。
「いやいや、これは失礼。ですが、専門的な話になりますのでねぇ」
「ええ。ですから、具体的にどうぞ」
「具体的、とは」
「鋼材の仕入れ値上昇率、保存食の原価変動幅、薬草類の入手難易度上昇。それぞれの正確な数値を。三割増しの請求額を正当化できるだけの根拠を、どうぞ?」
ゲスパーの笑みが、ピタリと止まった。
周囲の騎士たちが「おっ?」という顔になる。ローデン隊長など、腕を組んだまま顔を引きつらせていた。
私は机の上の請求書を一枚、優雅に取り上げた。
「例えばこちら。訓練用木剣五十本。先月の単価が銀貨四枚、今月が銀貨六枚。一気に五割増しですわね」
「そ、それは木材の不足で……」
「王都近郊の木材相場は、先月比一割二分増し程度です。私は今朝、市場流通表を確認しておりますの」
「なッ」
「しかも納品された木剣の材質、明らかに等級が下がっておりますわね? 節の位置と乾燥具合からして、むしろ原価は落ちているはずです」
ゲスパーの額に、ジワリと脂汗が浮いた。
騎士たちの間にどよめきが広がる。
「材質まで見てたのか……」
「今朝ってなんだ、いつ市場相場なんて見たんだ……」
「副団長の側仕え、怖すぎないか?」
失礼な。最高の褒め言葉として受け取っておく。
私は次の書類をめくる。
「包帯二百巻、消毒薬二十瓶。こちらも価格上昇が不自然ですわ。特に消毒薬、ラベル表記と中身の粘度が一致しておりません」
「……ッ」
「高純度品として請求しておきながら、納めたのは一段階下の粗悪品では?」
「そ、そんな証拠がどこに――」
「医務室の在庫を確認いたしましたの。ついでに香りも。あれは乾燥期間をごまかした粗製品ですわ」
実際、昨日の時点で気づいていた。
王太子妃教育というものは、本当にどうでもいいところまで叩き込まれる。医薬品の基本的な品質判定など、普通の公爵令嬢はしないが、私は「王宮の裏方を回すために必須です」と家庭教師に死ぬほど仕込まれたのだ。
今、その社畜×公爵令嬢のハイブリッド知識が火を噴いている。
ありがとう、過去の地獄。全部推しの役に立っているわ。
ゲスパーはもはや露骨に狼狽していた。だが、ここで終わりではない。
不正というものは、一つ見つかれば大抵芋づる式だ。
私はサラリと一覧表を机へ広げた。
「さらに申し上げますと。過去三か月分の請求額を比較したところ、貴商会からの納入だけ、常に『端数の処理』が不自然ですの」
「端数……?」
ローデン隊長が思わず聞き返す。
「ええ。本来、まとめ発注では端数調整で単価はやや下がるか、維持されるのが普通です。ですがバルド商会の請求書は、毎回『小さく上乗せした結果、切りの良い総額になる』よう見事に調整されておりますのよ」
私は紙の上をスッと指でなぞった。
「銀貨三百九十八枚が、四百枚。銀貨五百九十一枚が、六百枚。一回なら誤差に見える程度ですが、これを毎回繰り返せばどうなるか」
「……チリ積もで、とんでもない額を抜かれてるな」
ローデン隊長が低くドスを効かせて呟く。
「その通りですわ。しかも、それが武具、医薬品、雑貨、保存食のすべてに及んでいる。一年でどれほどの額を騎士団から掠め取ったのかしら?」
騎士たちの顔つきが変わった。
最初は「また面倒な交渉か」程度だった空気が、今や完全に「俺たちの命の値段を誤魔化して中抜きしてやがったのか」という明確な殺意へ変わっている。
ゲスパーは脂汗を拭いながら、声を荒げた。
「ま、待っていただきたい! これは商売ですぞ! 利益を乗せるのは当然でしょう!」
「適正な利益と、不正な水増し詐欺は別物ですわ」
「証拠もないくせに好き勝手なことを――」
「ございますわよ?」
私はニッコリと、この世で一番可憐な微笑みを向けた。
「貴商会が王宮会計院へ提出している『流通税申告書』と、騎士団への『請求額』を照合すれば一発ですもの。あちらには等級別の仕入れ量と搬入数が正確に記録されておりますでしょう?」
ゲスパーの顔色が、土気色に変わった。
ああ、やはり。
税申告をごまかせば国家反逆レベルの重罪になるから、そこは正確に申告している。だが、現場の騎士団相手ならバレずに少しずつ抜けると思っていた。
典型的な“小悪党の浅知恵”である。
私は静かに、だが確かな圧力を持って続ける。
「ご存知かしら、バルド会頭。王国商法第十二条『軍属組織への納入における虚偽申告』。加えて、同法第二十七条『非常時物資の価格不正操作』。これは通常の詐欺より一段重い罪になりますのよ」
「……ッ」
「さらに第一騎士団は、王都防衛を担う国家の根幹。その運営予算を継続的に掠め取り、粗悪な武具や薬を納入していたとなれば、単なる民事の賠償では済みませんわね」
会議室が、シンと静まり返る。
ゲスパーは魚のように口をパクパクさせた。やがて、絞り出すように言う。
「そ、それは……少々、言い過ぎでは……」
「言い過ぎではありませんわ。むしろ慈悲深き温情を込めております」
「温情……?」
「ええ。本気で告発するなら、私は今ここで『王国防衛機能への背任的破壊工作』としてあなたを異端審問にかけられますもの」
その瞬間、ゲスパーの膝がガクリと崩れた。
法律の文言までは詳しくなくとも、「自分の人生が終わる」ということだけは本能で理解したらしい。
前世でもいた。数字を舐める者は、法をもっと舐める。そして、本気で条文を読める相手が出てくると、一瞬で砂上の楼閣のごとく崩れ去るのだ。
私は追撃の手を緩めない。
「さて。ここで選択肢ですわ」
「せ、選択肢……?」
「今この場で過去三か月分の不正請求を認め、差額全額の即時返還と違約金の支払い、ならびに今後一切の取引停止を受け入れる」
「――――ッ」
「あるいは、会計院と王宮監査室へ正式に報告し、王都中の取引先へあなたの不正を大々的に周知した上で、投獄される」
ニッコリ。
「お好きな方をどうぞ?」
ゲスパーは完全に絶望の淵に立っていた。
今にも泣き出しそうな顔で、すがるようにクライスを見る。
だが、助けを求める相手を間違えすぎている。
クライスは、最初から最後まで一度も余計な口を挟んでいなかった。ただ静かに腕を組み、話を聞き、その上で最後に、淡々と、絶対零度の声で告げた。
「ルシアの提示条件で処理する。異論は」
ゲスパーの喉がヒクリと鳴る。
「……ッ、あ、ありません……」
「差額返還は七日以内。違約金は十日以内。今後の納入契約は本日付で全破棄する」
「は、はいぃ……ッ」
「ローデン」
「はっ」
「文書化しろ。会計院への照会も回せ」
「了解です」
その瞬間、勝負は完全についた。
ゲスパーは椅子からずり落ちるように床へへたり込み、もはや商人らしい尊大さの欠片も残っていない。
……まあ、完全なる自業自得である。推しの騎士団から金を抜くなど、万死に値する。
◇ ◇ ◇
ゲスパーが半泣きで会議室からつまみ出された後。
数秒の沈黙を破ったのは、ローデン隊長だった。
「……いや、怖ッ」
開口一番、それか。
「失礼ですわね」
「いや失礼じゃない! 今のはガチで怖い! なんだあの理詰めのコンボ! あの商人、最後完全に魂抜けてただろ!」
「抜けておりませんわ。半分出かかってはいましたけれど」
「認識はしてるんだな!?」
周囲の騎士たちも、何とも言えない畏怖の目でこちらを見ている。
「帳簿見ただけでそこまで分かるのか……」
「しかも法律の条文までソラで言えるとか……」
「副団長の側仕えっていうか、もはや特級異端審問官では?」
分かる。言いたいことは分かる。
だが、これでも私はかなり穏便に済ませたのだ。本来なら過去数年分を遡って商会ごと物理的に叩き潰すこともできたが、今はまず、推しの騎士団に巣食う明確な膿を一つ除去することが先決だった。
私は広げた資料をまとめながら言った。
「今後は納入業者の選定と、検収時の記録方式を見直した方がよろしいですわね。担当者の勘と慣れだけでは限界がありますもの」
「見直し……?」
「ええ。納品時に品質、数量、等級を三段階で確認し、請求書と月次比較表を自動で突き合わせる仕組みを作れば、同種の不正は防げます」
「……自動で?」
ローデン隊長が嫌な予感しかしない顔で聞き返した。
私はニッコリと微笑む。
「ええ。簡易魔法式の《自動照合陣》を組めば一瞬ですわ」
「副団長」
ローデン隊長が真顔でクライスを見た。
「この人、もしかして一人で騎士団の裏方全部回せるんじゃないですか?」
「多分な」
「多分って」
「すでに、かなり回っている」
サラリと言われて、私は一瞬だけ完全にフリーズした。
クライスの蒼い視線が、こちらへ向く。
「お前が来てから、滞っていた報告の流れが明らかに速くなった」
「……ッ」
「書類も、備品管理も、今朝の件もだ。――助かっている」
――。
…………。
(今、推しが、『助かっている』と、おっしゃったァァァァ!?)
危ない。思考が真っ白に飛んだ。会議室の天井がぐるぐると回っている。
推しが。私に。助かっていると。
そんな。そんなご褒美、初週でもらっていいの? 命日なの?
「る、ルシア様!?」
「おい、すげえ顔色悪いぞ!」
「だ、大丈夫ですわ……ッ」
私はすんでのところで机に手をつき、淑女の微笑みを死守した。内心では全細胞がスタンディングオベーションをしている。
(推しのお役に立てている……! えっ、もう成仏しても――いや駄目! まだ早い! 推しの剣術稽古見学も汗拭きイベントも残ってる!)
なんとか現世に生還した私を、騎士たちは微妙に引いた顔で見ていた。
失礼な。今のはちょっと尊すぎて心臓が破裂しそうになっただけで、変な病気ではない。
その時、会議室の後ろから、若い騎士がそっと口を開いた。
「……ルシア様」
「何かしら」
「その……ありがとうございます」
「え?」
「医務室の薬品の件、俺の隊の奴も助かりました。あれ、粗悪品のままだったら本当に危なかったんで」
「……ああ」
そうか。
あの帳簿の数字は、ただの数字ではなかったのだ。
前世では、請求書も予算書も、結局は会社の売上の数字でしかなかった。
けれどここでは違う。兵站も、会計も、予算も、全部が現場で戦う彼らの『命』に直結している。
私は少しだけ表情を和らげた。
「当然のことをしたまでですわ。推し……いえ、騎士団の皆様の環境を整えるのが、私の仕事ですから」
「それでも、です」
その言葉をきっかけに、周囲の騎士たちも次々と声を上げ始めた。
「木剣、最近やたら折れると思ってたんだよな……」
「医薬品も妙に効きが弱い気はしてた」
「でも、まさか業者が中抜きしてるとは」
「ルシア様がいなかったら、俺ら一生騙されてたかもな」
怒りと悔しさ、そして確かな感謝の混じった声。
私は資料を抱え直し、ふうと一つ息を吐いた。
「見抜けなかったことを責める必要はありませんわ。皆様は剣で戦うのがお仕事。こういう裏の害虫を駆除するのは、私のような者の役目ですもの」
「ルシア様……」
「ただし」
私はそこでニッコリと笑った。
「今後は少しだけ、請求書にも目を通してくださいましね? 騙されっぱなしは、美しくありませんわよ」
その場にいた屈強な騎士たちが、全員「はいッ!」と反射的に直立不動で返事をした。
おや。
ローデン隊長が横で吹き出す。
「……何だこれ。副団長と違う意味で、完全に統率取れてません?」
「別に統率など取っておりませんわ」
「いや、取れてる」
クライスが静かに突っ込んだ。
しまった。推しから直接ツッコミをいただいてしまった。
だがクライスは咎めるでもなく、ほんのわずかに目を細めただけだった。
「行くぞ、ルシア」
「はい」
「今後の納入業者選定案をまとめろ」
「承知いたしましたわ」
「あと、その自動照合陣とやらの案も」
「もちろんですわ」
推しから追加業務をいただいてしまった。
しかも信頼込み。どうしよう、嬉しすぎて徹夜しそう。
私はクライスの後に続いて会議室を出る。
背後では、騎士たちのざわめきがまだ続いていた。
「すげえな、あの人……」
「公爵令嬢ってあんな化け物なのか?」
「いや絶対違うだろ」
「もう“仮”じゃなくて、一生いてほしくないか?」
聞こえてますわよ、と思いながらも、悪い気はしなかった。
(よし。推しの職場環境改善、着実に進んでいるわね!)
悪徳商人を潰し、無駄な出費を止め、現場の安全を一段階引き上げる。これは立派な推し活である。何一つ間違っていない。
そんな私の前を歩きながら、クライスが不意に足を止めた。
「ルシア」
「はい?」
「……さっきの法律の条文だが」
「はい」
「よく覚えていたな」
「必要でしたので」
「そうか」
それだけ言って、また歩き出す。
だが、その横顔はどこか静かに考え込んでいるようにも見えた。
きっと彼の中で、私という存在の評価がまた少し変わったのだろう。
警戒すべき得体の知れない令嬢から、使える側仕えへ。
そして今、組織の膿を冷徹に切れる実務家へ。
……ええい、評価が上がるのは嬉しいけれど、あまり近くで真顔で見つめないでほしい。顔がいいのだから。本当に、心臓が持たないのだから。
そうして副団長室へ戻る私たちの背を、会議室の扉の隙間から、若い騎士たちがやたらと『敬虔な目』で見送っていたことに――。
推しの顔面偏差値に耐えるのに必死だった私は、まだ気づいていなかった。
その日の夕方には、第一騎士団の一部で密かにこんな囁きが生まれていたのである。
――副団長付きのルシア様には絶対に逆らうな。
――あの方は、帳簿と法律で敵を物理的に殺せる。
――いや、むしろ味方でいていただければ最強の女神では?
そしてその認識は、数日後には騎士団全体へ広がり。
気づけば私は、なぜかむさ苦しい団員たちから『書類と会計の守護聖女』のような熱い目で拝まれるようになっていくのだった。




