第49話 隣国からの不穏な影。視察という名目の厄介な来客
平和とは、実に素晴らしいものである。
朝、目を覚ませば同じベッドのすぐ隣に最推し――いえ、愛する夫がいて。
朝食の席では「焼きたての雪花菓子の新作、どうです?」と和やかに語り合い。
昼には魔法で蘇らせた農地と、フル稼働するお菓子工房の素晴らしい進捗(利益率)を確認し。
夕方には超高級温泉の客単価レポートを見ながら、「次は湯上がり用の冷たい果実蜜のラインナップを増やしますわね」と相談し。
夜には当然のように、クライス様の大きくあたたかい腕の中へ回収されて、致死量レベルの甘やかし(HPの削り合い)を受ける。
ええ。
大変結構。オタクの人生として、非常によろしい。
そして領地経営の方も、順風満帆そのものだった。
あの豚代官の膿は完全に物理的に出し切った。
農地は安定して緑に染まり、新名物の焼き菓子は王都どころか国境を越えて他国へまで流れ始め、温泉目当ての裕福な旅人や商人も少しずつ増えている。
市場の顔色は明るく、使用人の足取りも軽い。
領民たちが私を『豊穣の女神』扱いして黄金像を建てようとする流れだけは、未だに全力で阻止中ではあるが、まあ、それはそれで平和の副作用(ファンサへの恩返し)と思えば許容範囲だろう。
……そんな風に、私の中に少々、甘い気の緩みが生まれていたのかもしれない。
「旦那様、奥方様」
昼下がりの執務室へ、老家令のハインツさんがいつになく固い、血の気の引いた顔で入ってきた。
私は利益計算の帳簿から顔を上げる。
向かいのデスクのクライス様も、ペンの手を止めてスッと蒼い目を細めた。
「何だ」
「国境監視所より、早馬での急報です」
「急報」
私は思わず、オウムのように復唱した。
平和な領地運営の最中に、その単語は心臓へ悪い。
いや、本当に非常に悪い。
最近のフェルド領は、菓子の増産計画と温泉の男女別動線改善くらいしか『緊急事項』がなかったのだ。
そこへ血相を変えての“急報”は、温度差が激しすぎて風邪を引く。
ハインツさんは深く一礼し、短く告げた。
「隣国より、我が領へ『視察団』が参ります」
「……視察団?」
私は目を瞬く。
「どこの国ですの」
「西方の、グランゼル皇国にございます」
「グランゼル……」
その名を聞いた瞬間、執務室の空気がピリッと少しだけ変わった。
グランゼル皇国。
フェルド辺境伯爵領のさらに西、国境の山脈を挟んで隣接する巨大な軍事国家だ。
交易もある。表向きは王国の友好国の一つ。
だが、最前線の辺境を預かる者にとって“大国の隣国”という言葉は、常に少しだけ神経を逆撫でする、きな臭い響きを持つ。
クライス様が、静かに問う。
「視察の名目はなんだ」
「『国境周辺の安全確認』、および『領地発展の視察』とのことです」
「……」
「先方の親書には、“昨今のフェルド領の急速な発展と、その見事な運営手法へ深い関心を抱いたため、ぜひ学ばせていただきたい”と」
「まあ」
私は思わず、扇で口元を隠して言った。
「ずいぶんと丁寧で、白々しい言い回しですこと」
「ええ」
ハインツさんの顔は少しも和らがない。
「丁寧すぎる、とも申せましょう」
その通りだった。
急速な発展。
辺境領の見事な運営手法。
深い関心。
つまり要するに、“何もないはずの田舎のド辺境が、どうやって急に大金(特産品)を生み出したのか、その美味しい秘密を調べに来た”というわけである。
(感じがよろしくありませんわね……腹の底が透けて見えますわ)
私は指先で、執務机をトントンと叩いた。
領地が潤うのは良いことだ。
目立つのも、商売をしている以上はまあ仕方がない。
だが、隣国の大国がわざわざ“視察”という名目で大手を振って乗り込んでくるとなれば、話は全く別だ。
そういう手合いは、大抵、純粋な好奇心や友好だけでは絶対に終わらない。前世の企業間取引でもそうだった。
「人数は」
クライス様が、戦場に向かうような冷たい声で聞く。
「親書には、外交官二名、記録官三名、護衛十名『ほど』とありました」
「……ほど」
「はい」
「その時点で、全く信用ならんな」
「完全に同感ですわ」
私は即答した。
“ほど”というのは、非常に便利な言葉だ。
便利であるがゆえに、外交文書や契約書に入っているとロクなことがない。
十名“ほど”と言って威圧のために武装兵が三十名来ることもあれば、護衛の顔をした別件担当(暗殺者やスパイ)がしれっと混ざることもある。
前世のブラック企業時代でも、先方の会議参加者数が“数名ほど”とぼかして書かれていた時は、だいたい役員がぞろぞろと出てきて詰められる地獄の接待だった。
こちらの異世界でも、その辺の狡猾な事情は大差ないらしい。
「到着予定は」
「早ければ、明後日には領都へ入るかと」
「早いですわね」
私は不快そうに眉を寄せた。
「事前通知からの猶予が短すぎますわ。非常識です」
「向こうも、こちらに隠蔽や準備の時間を与えるつもりがないのだろう。奇襲と同じだ」
クライス様の声音は、すでに氷点下だ。
私は小さく、ため息を吐いた。
平和が続くと、こういうオタク特有の“嫌な直感(フラグ察知)”は鈍る。
だが、完全には消えない。
むしろ今、私の脳内でハッキリと蘇ってきた。
王宮でバカ王太子や腐った貴族たちを相手に何度も嗅いだ、“これは非常に面倒で理不尽な案件ですわね”という、泥沼の空気だ。
◇ ◇ ◇
それからの執務室は、甘い新婚の空気から一転、一気に『防衛戦』の作戦本部めいた空気へ変わった。
「まず、視察団の受け入れ動線(見学ルート)を完全に制限します」
私は白紙を引き寄せ、サラサラと領都の地図に線を引く。
「見せる場所と、絶対に見せない場所を明確に分けましょう」
「見せない場所とは、どこですか」
ハインツさんが手帳を片手に問う。
「温泉の源泉と、その汲み上げの魔法陣跡」
私は即答した。
「製菓工房の、配合比率や温度管理などの核心工程」
「……」
「それから、北側水源地の詳細な位置と、新しい水路の配分システム」
「やはり、そこを厳重に警戒なさいますか」
「当然ですわ」
クライス様が腕を組んで頷く。
「理由は」
「視察団が本当に“発展の秘訣(金脈)”へ興味があるなら、最初に嗅ぎ回り、食いつくのはそこだからです」
私は地図上の三箇所に、赤いインクで丸をつけた。
「水、食、そして流通」
「……」
「農地再生は一見派手ですが、私の規格外の魔力がないと外からは再現しづらい。けれど水源の確保、菓子の生産法、温泉の集客構造は、頭の良い奴なら真似できるし、奪える」
「だから、情報の核心は隠す、と」
「ええ。全部は隠せませんし、隠しすぎると逆に怪しまれますわ。表面の『華やかな結果』だけは見せつけてやって、一番美味しい『技術の核心』は絶対に1ミクロンも渡しません」
ハインツさんが、頼もしそうに深く頷く。
よろしい。話が早い。
「あと、先方が護衛十名“ほど”とボカしてくるなら」
私は筆先を止めずに、冷酷に続けた。
「こちらも、迎えの第一騎士団上がりの精鋭兵を『三十名』出します」
「多いな」
クライス様が言う。
「圧倒的な威嚇と牽制ですもの」
私は顔を上げた。
「“田舎の辺境伯爵領ごとき”と舐められたまま、領内を好き勝手に歩かせる方が、よほど危険なリスク(負債)になりますわ」
「……全くだ。その通りだな」
クライス様は私の案に同意し、そのままハインツさんへ低く短く命じた。
「国境監視所へ通達。視察団の数と動きを、誤魔化しなく逐一報告させろ」
「はッ」
「街道沿いの兵の配置も見直す。不審な動きがあれば、外交官だろうと即座に取り押さえろ」
「承知いたしました」
ハインツさんが早足で去ると、室内には一瞬だけ、夫婦二人きりの静けさが落ちた。
私は机へ広げた動線図をジッと見つめる。
歓迎用の豪華な応接室。視察対象の農地。活気ある市場。
菓子工房の『外観』だけ。温泉施設の手前の『足湯』まで。
全部、見せられなくはない。
むしろ隠しすぎる方が、コソコソしていると思われて怪しまれる。
だが、“見せる(プレゼン)”と“渡す(情報漏洩)”は全く違う。
「ルシア」
「はい」
「かなり怖い顔をしているぞ」
「そうでしょうとも」
私は素直に、オタクの険しい顔を認めた。
「領地がようやく黒字になって、平和な軌道へ乗り始めたこの最高の時期に、隣国の大国の視察団など、厄介以外の何物でもございませんもの」
「そうだな」
「しかも“急速な発展に興味”ですって?」
私は鼻でフンと笑いそうになるのを堪えた。
「泥棒猫の、嫌な匂いしかしませんわ」
「……同感だ」
クライス様は席を立ち、私の机の横へ来た。
剣ダコのある大きな手が、ふと地図の端を優しく押さえる。
「必要なら、俺の伯爵の権限で、国境で入国を断る(追い返す)ことも考える」
「いえ」
私はすぐに首を振った。
「ここで無理に門前払いすると、逆に“何か重大な弱みや秘密があります”と教えるようなものですわ。最悪、それを口実に軍事的なイチャモンをつけられます」
「……」
「来るなら、来させます」
私は立ち上がり、クライス様を真っ直ぐに見上げる。
「ただし、完全に『こちらの土俵』で」
その強気な言葉に、クライス様の蒼い目が少しだけ鋭く、頼もしそうに細められた。
ああ、分かる。
この人も、甘い夫の顔から、領地を守る『氷の騎士』の温度へ完全に切り替わったのだ。
「よし」
「ええ」
「何かあれば、俺が物理的に潰すか」
「まだ潰すとは決まっておりませんわよ」
「お前の顔が、“隙あらば論破して潰す”と明確に言っている」
「あくまで、自衛の可能性として、でございます」
「……そうか」
「そうですわ」
するとクライス様が、ほんの少しだけ、酷薄で美しい口元を緩めた。
「最高に頼もしいな、俺の妻は」
「今さらですわ」
「そうだな」
「ですが」
私は小さく息を吐く。
「できれば、ただの純粋な見学旅行(杞憂)で終わってほしいところですわね」
「それは、十中八九難しい気がするな」
「……同感ですわ」
◇ ◇ ◇
翌日には、領都全体が少しだけピリッと張りつめていた。
別に、視察団のことを領民に大々的に触れ回ったわけではない。
けれど、こういう不穏な話はどこからともなく風に乗って広がるものだ。
市場では「隣国からヤバい偉い奴らが来るらしい」と囁かれ、工房では若い女たちが少しソワソワと不安がり、領兵たちは武具の点検に妙に殺気立って熱が入っている。
私は市場と工房を一通り見回った後、温泉施設の様子も確認した。
「視察の案内路は、手前の足湯のここまでですわね」
「奥方様、やっぱり奥の源泉側への道は完全に閉じますか?」
施設番の屈強な男が聞いてくる。
「当然ですわ」
私はキッパリと言った。
「視察と称して、地形や湯量のデータまで勝手に測らせる必要は、1ミクロンもございません」
「はッ」
その時、少し離れた位置で湯上がり用の冷たい果実蜜を並べていた若い娘が、不安そうに言った。
「お、奥方様」
「何かしら」
「その、隣国の方って……戦争を起こすような、怖い方なんでしょうか」
「まだ分かりませんわ」
私はしゃがみ込み、彼女と目線を合わせた。
「でも、怖がりすぎなくて大丈夫よ」
「……本当ですか」
「ええ」
私はニッコリと、安心させるように笑った。
「だって、私たちには、あの無敵の伯爵様がおりますもの。絶対に領地は守り抜きますわ」
「……ッ!」
娘の顔が、安堵で少しだけ明るくなる。
そうだ。
これは大事なことだ。
私やクライス様が裏でどれだけ警戒していても、領民まで必要以上に怯えて萎縮する必要はない。
外から何者かが来るなら、こちらは普段通り“すべてが整っていて、堂々としている”方が、交渉事では絶対に強い。
――もっとも。
その“堂々”を支えるための泥臭い下準備は、裏で死ぬほど(サビ残レベルで)必要なのだけれど。
◇ ◇ ◇
そして、問題は到着当日だった。
朝から空は妙に高く、風は嫌なほど乾いていた。
私は応接用の最終確認を完璧に終え、クライス様と並んで領都の正門前に立って出迎えていた。
「……静かですわね」
「嵐の前の静けさだろう」
「嫌な言い回しですこと」
「事実だ」
遠く、国境の街道の方角へ目を凝らす。
やがて、モウモウとした土煙が見えた。
まず、重装備の馬。
次に、風に靡く巨大な旗。
さらに、無駄に豪華な装飾の馬車。
そして。
「……多いですわね」
私はポツリと、冷たい声で呟いた。
事前の文面では“護衛十名ほど”。
だが、こちらへ向かってくるのが見えるだけで、武装した騎兵が三十はいる。
いや、後続を合わせればもっとか。
馬車も二台では済まない。
しかも護衛の兵の動きが、ただの儀礼的なものではない。周囲を警戒する散開の仕方が、完全に『実戦寄り』だ。
「最初から、こちらを完全に舐めて威圧してきているな」
クライス様の声音が、絶対零度まで冷える。
私は視線を細めた。
先頭の旗印は、隣国グランゼル皇国のもの。
だが、その下に、さらに見慣れない豪華な紋章が一つ、誇らしげに掲げられている。
「あら」
「何だ」
「あの副紋」
私は眉を激しく寄せた。
「……皇族筋の直系の紋章ですわね」
「……」
「視察団の『格』が、文面よりずっと、ずっと高いですわ」
つまり。
こちらへ来るのは、ただの好奇心旺盛な外交官ではない。
長い列が、砂埃を上げて門前で止まる。
先頭の騎兵が高圧的なまでに堂々と馬を進め、その後ろの豪奢な馬車がゆっくりと扉を開いた。
最初に降りたのは、金糸の入った濃紺の外套を羽織った、キザな男だった。
年は三十前後だろうか。
整った顔立ちではある。
ではあるが、その目に浮かぶのは貴族の洗練ではなく、田舎を見下すような『あからさまな値踏み』だった。
「これはこれは」
男は辺りを見回し、鼻で笑うように薄く笑う。
「何もない辺境の田舎伯爵領にしては、なかなか見られる程度には小綺麗に整っているではないか」
――ああ。
私はその無礼な第一声で、完全に理解した。
これは厄介だ。
かなり、非常に厄介なフラグですわ。
男の後ろには、絹のように甘く胡散臭い笑みを浮かべた書記官らしき男たち。
さらに、殺気立った重装備の護衛。
そして、馬車の奥には、まだ『最も身分の高そうな誰か』がいる気配がする。
クライス様が、静かな怒りを纏って一歩前へ出る。
「フェルド辺境伯爵家当主、クライス・フェルドだ」
「グランゼル皇国、西方特命視察官、レオン・アルヴェルト」
レオンと名乗った男は、馬を下りることもなく、軽く見下すように顎を上げた。
「此度は、噂に名高い貴領の視察へ参った」
「聞いている」
「そうだろうとも」
レオンは、次に品定めの視線を私へと向けた。
その視線が、私の全身を舐め回すように一瞬だけ止まる。
ジロリ、と。
値踏みするように。
あまりにも露骨で、不快な湿度を帯びた目で。
「……ほう」
男の口元が、下品に歪む。
「こちらが最近噂の、手腕に長けた美しい伯爵夫人か」
その瞬間、隣の空気が一気に氷点下まで冷えた。
あ、と思う間もない。
クライス様の機嫌が、目に見えて『殺意の領域』へと一段階落ちたのが分かった。
やめてくださいまし、まだ到着三分です。抜剣タイムには早すぎますわ。
私はクライス様を手で制すように先に一歩出て、隙のない完璧なカーテシー(挨拶)を優雅に取った。
「ルシア・フェルドにございますわ。遠路はるばる、ようこそおいでくださいました」
「フム」
レオンは私を見たまま、ねっとりと笑う。
「聞いていた通り、ずいぶんと美しい花だ」
「恐れ入ります」
「しかも、ただの飾りではなく有能らしいな。この領地の奇跡の復興は、夫人の手腕だと聞く」
「領主の妻として、必要なことを少し手伝っているだけですわ」
「謙遜か?」
「事実です」
男は、少しだけ面白そうに目を細めた。
嫌な目だ。
“手に入れがいのある、面白い玩具を見つけた”とでも言いたげな、強欲な男の目。
その時、豪華な馬車の奥から、別の声が響いた。
「レオン、田舎の空気を吸うのは構わんが、前置きが長いぞ」
低くはない。
むしろ、よく通る美声だ。
だがそこにあるのは王族の余裕というより、生まれながらに『他者を見下し、奪うこと』に慣れきった傲慢な響きだった。
私は警戒して視線を上げる。
馬車の中、まだ見えない薄暗い位置に、その声の主がいる。
レオンはすぐに居住まいを正し、先ほどまでの傲慢さが嘘のように、恭しく深く頭を下げた。
「これは、大変失礼いたしました。殿下」
……なるほど。
そういうことですのね。
ただの高官ではない。
この不快な視察官の『さらに絶対的な上の存在(皇族)』が、わざわざお忍びで同席している。
しかも、少なくともレオンが自然に頭を下げる程度には、絶対的な権力を持った男が。
私はクライス様と、スッと視線を交わした。
向こうも、この状況の異常さから同じ結論へ達したらしい。
氷の騎士の目の奥が、さらに戦闘態勢へと冷たくなる。
馬車の中の人物は、まだ姿を見せない。
だが、その気配だけで分かる。
これは友好のための“視察”ではない。
もっと直接的で、もっと強欲で、もっと厄介な『侵略(奪取)』の意図を持った何かだ。
そして多分。
この面倒な嵐の中心(台風の目)は、まだ馬車の奥から出てきていない。
私はドレスの下で拳を握り、胸の内で静かに、臨戦態勢の息を吐いた。
平和な領地運営に唐突に差し込んできた、隣国からの不穏な影。
それは、こちらが思っていたよりずっと高位で、ずっと面倒で、ずっと傲慢な形をしているらしい。
――ええ。
どうやら本格的に、私の推しの領地を荒らす『厄介ごと』のお出ましですわね。
返り討ちにしてさしあげますわ!




