第43話 夫婦水入らずの混浴イベント。推しの肉体美にルシアのHPはゼロ
問題の発言は、あまりにも自然だった。
「一緒に入るか」
山の中。
私が半日で強引に建てた、推し専用――いえ、領地の福利厚生も兼ねた超高級温泉施設の前。
完成したばかりの、湯気の立つ広大な露天風呂を背にして、クライス様はただ当然のようにそうおっしゃったのである。
「…………」
私は、とても静かに石像のように固まった。
風が吹く。木々が揺れる。
湯気がフワリと流れる。小鳥がどこかで呑気に鳴いた。
けれど、私の思考は一切動かなかった。
一緒に入る。
つまり、混浴。
夫婦。
温泉。
裸。
推し。
圧倒的肉体美。
ゼロ距離。
(む、無理ですわ……!!)
頭の中で、警報アラートと共にその単語たちだけがグルグルと回る。
クライス様はそんな完全にフリーズした私を見て、小さく首を傾げた。
「ルシア?」
「……はい」
「聞こえなかったか」
「一言一句、ハッキリと聞こえてはおりました」
「なら」
「その上で、今、全力で現実逃避の計算をしておりますの」
私はようやく、カラカラの喉からそう絞り出した。
だって、仕方がないではないか。
温泉を作る時は、完全に“推しの疲労を癒やしたい健気なオタク妻”のモチベーションだけで突っ走っていた。
だが実際に“では服を脱いで一緒に入るか”と言われる実技の段階まで来ると、全く話が違う。
違うでしょう。大違いでしょう。
ジャンルが突然、全年齢対象からR指定のラブコメに変わってしまいますわよ。
「か、確認は必要ですわ」
私はどうにか公爵令嬢の理性を繋ぎ止めながら言った。
「湯温、泉質、脱衣所の動線、排水の具合、風の抜け方。どれも施設管理者として大事でございます」
「ああ」
「ですので、私自身が入る必要性そのものは痛いほど理解しております」
「そうか」
「ですが」
「何だ」
「クライス様との『混浴』は、事前の仕様書に聞いておりませんわ!」
「夫婦だろう」
「その絶対的なキラーワードを、そう簡単に万能札みたいに使わないでくださいまし!」
クライス様の目が、ほんの少しだけ意地悪く細くなる。
多分、笑いを堪えていらっしゃる。
いけない。
この人、最近絶対に私のこういう限界オタクの反応を面白がっている。大変よろしくない。
「……嫌か」
不意に、少しだけ低く、真剣な声で問われた。
私はピタリと止まる。
嫌。
そんなわけがない。嫌ではない。絶対に嫌ではないのだ。
むしろ、一緒に入りたいか入りたくないかの究極の二択で言えば、もちろん入りたい。入りたいに決まっている。オタクの夢だ。
だがそれと、心臓がもつかどうかは全くの別問題である。
「……嫌では、ございません」
私は真っ赤な顔で正直に答えた。
「ただ、その」
「何だ」
「正気でいられる自信が、あまり」
「ないのか」
「ほぼ、1ミクロンもございません」
クライス様は数秒黙り、それからごく落ち着いた声で言った。
「なら、先に言っておく」
「はい」
「俺も、平然ではない」
「…………はい?」
今、何と?
私は思わず顔を上げた。
クライス様はいつも通りの、氷の騎士の顔をしている。
少なくとも表面上は。
だがその耳が、ほんの少しだけ赤く染まっている。
「ク、クライス様」
「何だ」
「それは、つまり」
「見れば分かるだろう」
「見て、よろしいのです?」
「今さらだろう。夫婦なのだから」
「そういう問題ではございませんわ!」
何なのですの、この方は。本当に。
淡々とした顔で、心臓に悪い爆弾発言ばかりおっしゃるのだから困る。
だが、その“俺も平然ではない”の一言で、私の中の異常な緊張が、ほんの少しだけ解けたのも事実だった。
ああ、そうなのだ。
この人も、私と同じように少しは意識して(恥ずかしがって)いるのだと。
少なくとも、混浴を前に完全無風でいられるほど、達観しているわけではないのだと。
そう思うと、ほんの少しだけ勇気が出た。
「……分かりましたわ」
「いいのか」
「確認は、必要ですもの」
私はコホンと咳払いをした。
「その、夫婦ですし」
「そうだな」
「ただし」
「何だ」
「私が尊さでのぼせたら、責任を持って助けてくださいまし」
「任せろ」
その即答が妙に頼もしくて、余計に心臓に悪かった。
◇ ◇ ◇
結果として、脱衣室へ入って着替えている時点で、私はすでにだいぶ限界だった。
「…………」
湯気の向こう、魔法で柔らかく仕切られた木壁のこちら側の女子脱衣所で、私は自分の熱い頬をペチペチと叩く。
落ち着きなさい、ルシア。
これはあくまで、温泉施設の試運転(テスト稼働)である。
夫婦水入らずという響きは大変危険だが、第一目的は現場の確認だ。
湯温。泉質。動線。
決して、推しの裸(肉体美)を至近距離で合法的に直視するためではない。
……多分。
私はあらかじめ用意(錬成)していた、薄手の湯浴み着へ身を包んだ。
完全な水着ではないが、最低限の肌は適度に隠れる。
よろしい。これならギリギリで淑女の理性は守れる。
(クライス様も、同じようなものでいらっしゃるはずですわ)
そう。そうに違いない。
夫婦といえど、いきなり完全無防備(全裸)で来るような野蛮な方では――
「ルシア、先に入るぞ」
木壁の外から、布擦れの音と共にクライス様の声がした。
「は、はいッ」
私は深呼吸を一つ。二つ。三つ。
それから、そろそろと露天風呂側へ足を進める。
木戸を開けた瞬間。
フワリと、あたたかな硫黄の香りのする湯気が頬を撫でた。
自然の巨大な岩を縁取った、広大な露天風呂。
淡く立ちのぼる湯煙。木立の向こうに広がる、夕暮れ前の荘厳な山の景色。
我ながら、とんでもなく素晴らしい仕上がりである。
だが、今の問題はそこではない。
問題は、その広い湯船のど真ん中にいた。
「…………(ドカンッ)」
私は、ピタリと止まった。
クライス様が、露天風呂の奥側、大きな岩へ背を預けるようにしてゆったりと浸かっていた。
上半身が見えている。
当然である。温泉なのだから。
だが当然だからといって、オタクが直視に耐えられるわけではない。
広い肩幅。
無駄の一切ない、彫刻のような首筋。
湯気の中でもハッキリと分かる、過酷な鍛錬で引き締まり、鍛え抜かれた厚い胸板と腕の筋肉のライン。
剣士らしいしなやかさと、第一騎士団の副団長として積み上げた圧倒的な力強さが両立していて、しかもところどころに残る無数の傷跡すら、歴戦の猛者としての雄みを強調していて妙に生々しく尊い。
前世の乙女ゲームの画面越し(スチル)では絶対に見られなかった、高解像度の特大の情報量が。
今、現実の湯気越しに、ゼロ距離で存在している。
(むりですわ)
私の残されたHPが、一気にゴリッと削れた音がした。
「ルシア」
「は、はいッ」
「どうした」
「いえ、その」
私はフラつく足で、入口の木の柱へドンと手をついた。
「少々、景観が……」
「景観?」
「良すぎますわね……刺激が強すぎます」
「……そうか」
「そうですわ」
クライス様は不思議そうな顔をした。
だが、その表情のまま、やはり微妙に耳が赤い。
ああ、こちらだけが動揺しているのではないと分かるだけで、少しだけ救われる。
私はどうにか震える足を動かし、湯船の端へ近づいた。
まずは湯温確認。そっと足先を入れる。
「……ちょうどよろしいですわね」
「熱すぎないか」
「ええ。むしろ理想的な温度です」
「ならよかった」
「……」
その何でもない日常の会話の間にも、視界の端に推しの濡れた上半身と筋肉が入るのだからたまらない。
私は極力、彼を見ないよう、湯面と岩と空だけを見るよう必死に努力した。
「入らないのか」
「い、入りますわ」
「そうか」
「その、あまり見ないでくださいまし」
「見ていない」
「いえ、全身で感じるのです」
「何をだ」
「熱い視線を……!」
「……そうか」
今、絶対に面白がっていらっしゃいますわね?
だが、ここで立ち止まっていても埒が明かない。
私は意を決して、チャプンと湯へ身を沈めた。
あたたかい。やわらかい。肌あたりが極上に良い。
少しとろみがあるのに重くない。湯の質としては、前世の記憶を頼りにしてもかなり理想に近い最高の温泉だ。
「…………」
そして、同時に。
すぐ対面の至近距離に、クライス様が同じ湯へ浸かっているという絶対的な事実が、ものすごい勢いでオタクの意識へ押し寄せた。
無理ですわ。
温泉の泉質評価どころではありませんわ。
「どうだ」
クライス様が低く問う。
私は湯へ鼻の下まで沈みそうになりながら、必死で答える。
「す、素晴らしい、ですわ」
「湯が、か?」
「全部です」
「……」
「いえ、湯でございます」
「今、一瞬別の本音(俺の身体)が混ざったな」
「気のせいですわ!!」
私が赤面して言い切ると、クライス様の口元がわずかに動いた。
笑った。今、絶対に笑いましたわね。
だめだ。
この空間、危険すぎる。
景色は良い。湯も最高に良い。そして目の前に愛する夫がいる。
しかも夫が最推しで、見た目が良すぎて、濡れた髪で黙って湯へ浸かっているだけで一枚の絵画になりすぎる。
どうしろというのか。
「ルシア」
「はい」
「顔が赤いぞ」
「お、温泉ですもの。血行が良くなっているのです」
「それだけか」
「それだけではございませんわね」
「正直だな」
「嘘をついても仕方ありませんでしょう……」
私はチラリと、上目遣いでクライス様を見た。
そしてその瞬間、またしても視線が彼の濡れた広い胸板に滑ってしまい、慌てて湯面を見る。
だめだ。
本当にだめだ。目のやり場というものが存在しない。
「ク、クライス様」
「何だ」
「どうしてそんなに平然としていらっしゃるのです?」
「平然ではないと言っただろう」
「そうは見えませんわ」
「見えていないだけだ。俺も必死に耐えている」
「…………」
「そっち(薄着のお前)を見るたび、理性が飛んでしまいそうで困っている」
「そういうことを今、ストレートにおっしゃいます!?」
「言った方がいいかと思った」
「余計に困りますわ!」
ああもう。
何ですのこの人は。
こっちはただでさえ限界だというのに、そんな低い声で真っ直ぐに正直なことを言われたら、ますますどうにもならないではないか。
私は湯の中で膝を抱えて丸まりたくなるのを堪え、せめて岩へ寄って距離を取った。
すると、クライス様が少しだけ近づく。
「ヒッ」
「何だその声は」
「ち、近づかないでくださいまし」
「なぜ」
「今の私に、その距離は大変危険です」
「危険?」
「私のHPがゼロになりますわ」
「……また前世の謎の言葉か」
「“これ以上は刺激が強すぎて心肺停止します”の意味だと思っていただければ」
「そうか」
「そうですわ」
クライス様はそこでピタリと止まった。
湯気の向こう。手を伸ばせば確実に届く距離。
だが、ギリギリで届かない。
その絶妙な生殺しの間合いが、余計に心臓へ悪い。
「湯は気に入ったか」
「ええ」
私はどうにか答える。
「とても」
「ならよかった」
「クライス様は?」
「悪くない」
「“悪くない”では分かりませんわ」
「そうか」
「そうです」
「なら訂正する」
クライス様は、少しだけ熱を帯びた目で目を細めた。
「かなり、最高にいい」
「……そう、ですか」
「特に」
「何でしょう」
「お前が俺のためだけに作ったと思うと、余計にな」
「…………(ドカンッ)」
だめですわ。
本当にだめですわ。
それ、湯の感想として出してよい台詞ですの?
しかもそんな、湯気越しに色気ダダ漏れの静かな声で。
そんなの、温泉の効能以前に限界オタクの心臓へ悪すぎるでしょう。
私はもう、まともに返事ができなかった。
ただ顔を限界まで熱くして、目を逸らすしかない。
すると、クライス様がまたザバァッと一歩だけ近づいた。
「ク、クライス様」
「何だ」
「距離が」
「嫌か」
「嫌では……ございませんけれど」
「ならいい」
「そういう問題ではなくてですわね」
「違うのか」
「違います」
「そうか」
「そうです」
「なら、どう違う」
「それを今、この状況で言語化して説明させるのは意地悪ですわ!」
私が半ば泣きそうになって訴えると、クライス様はとうとう小さく声を立てて笑った。
低くて、静かで、でも確かに心から楽しそうな笑い。
もう駄目だ。
推しの笑顔まで至近距離で供給されてしまった。
耐えられるはずがない。
「……ルシア」
「はい……」
「こっちを見ろ」
「無理ですわ」
「なぜ」
「分かっていておっしゃっておりますでしょう」
「まあな」
「クライス様!!」
私は抗議のために、バッと顔を上げた。
でもその瞬間、至近距離でバッチリと目が合った。
湯気の向こうの、熱を帯びた蒼い瞳。
完全にやわらいだ、愛おしそうな眼差し。
少しだけ濡れて額に張り付いた前髪。
そして、あまりにも整いすぎた国宝級の顔。
その全部が、真正面から私だけへ向いた。
「…………」
脳の処理が、完全に止まる。
「ルシア?」
声が、遠い。
駄目だ。
もう駄目ですわ。
私のオタクとしての処理能力の限界を、完全に超えましたの。
混浴という時点で危険だったのに、そこへ推しの笑みと至近距離の眼差しと肉体美まで乗せられたら、もはや何もできるはずがないではないか。
「む、り……」
「何がだ」
「尊すぎ、て……無理ですわ……」
言い切る前に、視界がグラリと大きく揺れた。
あっ、と思った時には遅い。
頬が熱い。耳も熱い。頭の芯まで沸騰したように熱い。
湯の熱気のせいか、自分の羞恥心のせいか、その両方か。
完全に、のぼせた。
と、理解した瞬間。
「ルシア!」
クライス様の焦った声が、今度は近くでハッキリと響いた。
視界が揺れる。身体の力が抜けてフラつく。
だが、湯に沈む前に強い力で腕を取られ、ガシッと引き寄せられる。
熱い湯の中でもハッキリと分かるくらい、逞しくて、しっかりとした腕だった。
「おい、大丈夫か」
「だ、いじょうぶ……では、ございませんわね……」
「当たり前だ。真っ赤だぞ」
「でも」
私は朦朧としながら、本音を漏らした。
「クライス様のお身体が、あまりにも、目に毒で……尊すぎて……」
「……今それを言うな」
「本音ですもの……」
「黙っていろ」
「ひどい……」
そう言ったところで、もう限界だった。
私は結局、そのままクライス様に抱え上げられるようにして湯から引き上げられる羽目になった。
はい。
混浴初回確認イベントは、見事に“推しの肉体美でのぼせて倒れる”という、限界オタク極まりない極めて私らしい結末を迎えたのである。
◇ ◇ ◇
その後。
私は風通しの良い湯上がり処の長椅子へ寝かされ、ひんやりした布を額に当てられながら、ひどく情けない気持ちで天井を見上げていた。
「……面目ございませんわ」
「本当だ」
クライス様の呆れた声が、すぐ横から返る。
「まさか、初回確認で本当にのぼせて倒れるとは思わなかった」
「私もですわ」
「嘘だな」
「半分くらいは、こうなるだろうと予想しておりました」
「正直だな」
「そこはもう、ごまかしても取り繕えませんもの……」
私はそっと、視線を横へずらす。
クライス様はすでに衣をキチンと整え終え、少し離れた位置へ腰かけて私を看病してくれていた。
湯上がりのせいで、銀の髪が少し湿って色気を放っている。
その状態ですら目に悪い。いや、むしろ余計に悪い。
「……まだ見るな」
「見ておりませんわ」
「ハッキリと見ていただろう」
「少しだけです」
「懲りないな。また倒れるぞ」
「無理ですもの」
「何がだ」
「世界で一番好きなもの(推し)を見ない、なんて」
「……ッ」
「夫になっても、推しは推しですわ」
クライス様が、小さく息を吐く。
だがその口元は、またしてもわずかに緩んでいた。耳も赤い。
「本当に、面倒で愛おしい妻だ」
「今さらですわね」
「そうだな」
「でも」
私は額の布を押さえながら、小さく笑った。
「温泉そのものは、大成功ですわよ」
「それは認める。疲れが嘘のように抜けた」
「でしょう?」
「湯も良かった」
「景観も」
「ああ」
「湯上がり処も」
「悪くない」
「では次回は、私がもう少し心の準備(オタクの防具)を整えてから、再挑戦ですわね」
「……次回も、俺と一緒に入る気か」
「当然ですわ」
私はキッパリと、全く懲りずに言い切った。
「せっかく作ったのですもの。推しの疲労回復のためにも、私の観察――いえ、管理者としての確認のためにも」
「今、ハッキリと観察(推し活)と言いかけたな」
「気のせいです」
クライス様はそこで、とうとう我慢しきれずにハッキリと声を出して笑った。
それを見て、私は胸の奥で小さくガッツポーズ(拳)を握る。
よし。
のぼせて倒れたのは痛恨の不覚だった。
だが、あの氷の騎士が、こうして心からリラックスして笑ってくださったのなら、収支(費用対効果)としては決して悪くない。
いやむしろ、大勝利では?
「ルシア」
「はい」
「次は」
「何でしょう」
「最初から無理するな。熱ければすぐに出ろ」
「努力いたしますわ」
「信用できん」
「では、最初から少し遠目で拝見――」
「それも違う。俺のそばから離れるな」
「難しいご相談ですわね」
「本当に面倒だな」
「愛ゆえですわ」
「……」
「何ですの」
「いや」
クライス様は少しだけ目を細め、私の濡れた髪を優しく撫でた。
「そこまで含めて、お前を心底好きだと思っただけだ」
「…………(ドカンッ)」
ああ。
またですわ。
混浴イベントの締めに、そんなクリティカルヒットを。
そんなサラリと。
そんな真面目な顔で。
私のHP(理性)は、どうやらしばらくゼロのまま回復しそうにないらしい。




