第36話 馬車の中でもイチャイチャが止まらない。推しの膝枕イベント
王都を発った大型の特注馬車は、春の街道をゆっくりと西の辺境へ向けて進んでいた。
窓の外には、やわらかな陽射しに照らされた新緑の草原。
遠くには背の低い森、その向こうには淡く霞む山並み。
空は高く、雲は薄く、いかにも「新婚旅行日和」と言わんばかりの穏やかな天気である。
本来なら、こういう美しい景色を見ながら優雅に紅茶でも傾け、愛する夫との旅路へうっとりと浸るのが新婚旅行というものなのかもしれない。
だが、現実はそう甘くなかった。オタクは忙しいのだ。
「ルシア」
「はい」
「また書いているのか」
「当然ですわ」
私は馬車の柔らかい座席へキチンと腰掛けたまま、膝の上の画板へ紙を広げ、サラサラと猛烈な勢いでペンを走らせていた。
内容は、赴任初日から三日目までの仮行動計画。
領都到着後の宿泊区画の整理、使用人全員との顔合わせ、厨房と補給庫の在庫確認、過去五年分の帳簿回収、家令との面談、代官の権限と不正の現状把握、農地状況の初期調査――。
やることは山ほどある。
むしろ今、この誰にも邪魔されない馬車の中こそ、落ち着いて思考をまとめる絶好の作業時間(サビ残タイム)だ。これを活かさずして何とするのか。
「到着直後の導線構築が、すべての生産性の要ですもの」
私は当然のように答えた。
「特に領地の初期把握は、初日の印象が肝心ですわ。住民の空気、屋敷の整い具合、使用人の目線、帳簿の置かれ方一つで、かなり裏側の事情が見えてくるものが――」
「今は、旅の初日だぞ」
「ええ、ですから到着後のことを前倒しで考えているのです」
「……」
「何ですの」
向かいに座るクライス様は、ひどく静かな目で私を見ていた。
今日の彼はカッチリとした軍装ではなく、馬車旅用の少し気楽な、仕立ての良い私服姿だ。
軍装ではないが、やはり目に悪いほど大人の雄みが溢れていて格好いい。国宝。
私は意識して直視しないようにしているのに、この方は容赦なく私の視界のど真ん中へ入ってくるので非常に困る。
「働きすぎだ」
「まだ実働はしておりませんわ。頭の中でシミュレーションしているだけです」
「お前の場合、それは働いているのと同じだ」
「まあ」
「褒めてはいない」
「存じております」
私はニッコリと笑って、また紙へ視線を戻した。
クライス様は結婚してからというもの、以前にも増して私の『休息(HP管理)』にうるさい。
もちろん、推しに気遣われるのはありがたい。ありがたいのだけれど。
(だって、領地経営のシステムを考えるのは、最高に楽しい(オタクの喜び)のですもの……!)
フェルド辺境伯爵領。
推しが生まれ育った故郷。
そして、これから私たちが夫婦として共に治める地。
そう思うだけで、胸がワクワクする。
その土地が今どんな荒れた状態であれ、私の前世の知識と魔法でどうやって最強の領地に整えていくかを考えるのは、私にとって極上のご褒美に近い。
けれど。
「ルシア」
また、低い声が落ちる。
「はい」
「目が、しょぼついているぞ」
「……」
「さっきから瞬きの回数が多い」
「……馬車の揺れの気のせいでは?」
「違う」
「そうですの?」
「そうだ」
私は、思わず目を逸らした。
しまった。完全にバレている。
実のところ、昨夜は少し(かなり)寝不足だった。
いや、“少し”ではないかもしれない。
何しろ、新婚ホヤホヤである。同じ寝台で眠ることにようやく慣れてきたとはいえ、愛する夫の熱い体温がすぐ横にある状況で、限界オタクの心臓が平穏に一晩を過ごせるはずもない。
毎晩が供給過多で、致死量ギリギリの攻防戦なのだ。
その上、赴任準備で少々張り切りすぎた自覚もある。
「……大丈夫ですわ」
「説得力が皆無だ」
「ございます」
「ない」
「ありますわ」
「ない」
「うう……」
だめだ。
この方、私の体調管理のこととなると、本当に一歩も引かない。
私は少しだけむくれて、窓の外へ視線を逃がした。
だが、その動きだけで、確かに目の奥が少し熱く重い(疲労が溜まっている)のを自覚する。
……悔しいけれど、少しだけ疲れているのかもしれない。
馬車は揺れる。王都を離れてから道も少しずつ荒くなり、立派なサスペンションがついていても、車輪が時折ゴトリと石を乗り越える。
そのたびに、膝の上の画板が微かに揺れた。
「ほら」
クライス様が短く言う。
「紙の字がブレたぞ」
「……ッ」
悔しい。本当に悔しいが、ぐうの音も出ない正論だ。
「少し休め」
「少し、とはどれくらいですの」
「目を閉じる程度でいい」
「それだけで済みます?」
「俺が済ませる」
「どうやって」
「俺が見張る」
「何からですの」
「お前がまた、仕事(書類)に逃げようとするのをだ」
「……ひどい言われようですわね」
「事実だ」
私はとうとう、膝の上の紙束を抱きしめるようにギュッと押さえた。
だが、その抵抗も長くは続かなかった。
クライス様が何も言わず、こちらへスッと長い手を伸ばしてきたからだ。
「ちょ、」
「貸せ」
「ま、まだこの項目の書き出しが」
「後でいい」
「ですが」
「ルシア」
「……はい」
その声は、ひどく静かで。
絶対に逆らってはいけない種類の、夫としての低い響きだった。
私は渋々、紙束とペンを差し出す。
クライス様はそれを当然のようにまとめ、私の手の届かない自分の背後へ置いた。
「これで仕事は終わりだ」
「強引ですわ……」
「そうでもしないとお前は休まない」
「私、そこまで信用がありませんの?」
「1ミリもない」
「少しは迷ってくださいまし!」
クライス様はそれに答えず、今度は自分の隣の空いた座席を、ポンと軽く手で叩いた。
「こっちへ来い」
「はい?」
「お前のその位置だと、車輪の揺れが直接伝わって強い」
「ですが、向かい合わせの方がお顔が――いえ、対面の方が自然では」
「今は、休む方を優先しろ」
私はパチクリと目を瞬いた。
隣。
つまり、向かい合うのではなく。横並びで密着して座れ、と?
いや、それ自体は夫婦なのだから何もおかしくない。何もおかしくないのだが。
(心臓には大変、致死量レベルでよろしくないですわよね!?)
だが、この空気で拒むのも違う。
私はそろそろとカニ歩きで移動し、クライス様の隣へちょこんと腰を下ろした。
近い。
当然だ。馬車の座席なのだから。
だが“当然の近さ”として受け入れるには、この人はあまりにも顔が良く、体格が大きく、そしてあまりにも私に甘い。
「もっとこっちだ」
「まだ寄るんですの?」
「肩がぶつかるくらいでいい」
「それがもう、パーソナルスペースを完全に超えて十分に近いのですけれど」
「そうか」
「そうですわ」
文句を言いつつも、私は逆らえずにほんの少しだけ距離を詰めた。
すると、クライス様が自分の大きな外套の端をこちらへ寄せ、私の肩へすっぽりと掛けるように整える。
「窓から風が入る」
「……ありがとうございます」
「寒いか」
「そこまでは」
「ならいい」
会話が短い。
短いのに、どうしてこんなにも、行動がいちいち甘いのか。
私は大人しく、推しの匂いのする外套に肩を包まれたまま、背もたれへコトリと寄りかかった。
馬車の揺れは、彼が風よけになってくれているせいか、確かに少し穏やかになる。
「目を閉じろ」
「命令ですの?」
「そうだ。夫からの絶対命令だ」
「……かしこまりましたわ」
私は小さく息を吐き、言われた通り目を閉じた。
すると、視覚が塞がれた分だけ、隣の気配がより濃厚になる。
あたたかい体温。衣擦れの音。時々、馬車の揺れに合わせてわずかに触れる、がっしりとした肩。
ああもう、これでは休まるものも休まらないのでは。
そう思ったのだが。
「ルシア」
「……はい」
「まだ肩に力が入っているぞ」
「そ、それは」
「抜け」
「難しいご相談ですわね……」
「なぜ」
「あなたが近すぎるからです」
「そうか」
「そうですわ」
クライス様はしばらく黙った。
そして、次の瞬間。
「なら、これでどうだ」
フワリ、と視界が大きく動いた。
「……え?」
気づけば私は、クライス様の身体の方へ強引に引き寄せられていた。
というか、ほとんどその腕の中へ横倒しに収められている。
「く、クライス様!?」
「声が大きい」
「だって!」
「寝るんだろう」
「寝るとしても、これは!」
「何だ」
「体勢が近すぎますわ!」
「さっきも言った。肩が触れるくらいでいいと」
「だからといって、この体勢はオタクの想定の斜め上をいっておりますわ!」
私は慌てて身を起こそうとした。
だが、馬車がゴトリと揺れ、そのままバランスを崩す。
次の瞬間。
「きゃッ」
視界が完全に反転した。
私はクライス様の上に倒れ込むような形になり、そのまま、ガッチリと頭を支えられた。
「……ッ」
「暴れるな。落ちるぞ」
「ぼ、暴れてなど」
「今のは完全に暴れている」
「違います、不可抗力の事故ですわ!」
「ならなおさら、このままの方が安全でいい」
「…………」
私は完全に石像のように固まった。
今。
今、何が起きているのか。
頭の下には、しっかりとした筋肉の感触。
太腿。
クライス様の、膝。
そして、片手が私の頭を優しく支え、もう片方の手が落ちないように私の肩を抱え込んでいる。
つまり。
推しの、膝枕である。
「…………(ドカンッ)」
無理ですわ。脳が爆発する。
だってそんな。馬車の中で。密室の旅の途中で。
夫に。愛する推しに。
膝枕?
前世の乙女ゲームでも、こんな高火力イベントはルート終盤の『好感度MAX限定のスチル回収イベント』ではなかったか。
しかも今は、画面の向こうではなく完全な現実(VR)だ。
体温も、男らしい香りも、揺れも、全部本物。
「ク、クライス様」
声が情けないほど震える。
「何だ」
「これは、あの」
「休め」
「休めるわけが」
「休め」
「だからですわね!」
私は真っ赤な涙目になりながら訴えた。
「推しに膝枕などされたら、限界オタクの脳が休むどころか、ショートして焼き切れますのよ!?」
「焼き切れるな。耐えろ」
「理不尽ですわ!!」
だが、クライス様は平然としていた。
いや、表面上は。耳がほんの少しだけ真っ赤になっている気もするが、多分それを指摘したら私の方が先に羞恥で死ぬ。
「目を閉じろ」
「……無理です」
「なぜ」
「見上げると、お顔が良すぎて近すぎるからです!」
「なら閉じればいいだろう」
「閉じたら閉じたで、今度は頭の下の『感触』が強くなりますわ!」
「……面倒な妻だな」
「誰のせいだとお思いで!?」
すると、クライス様の胸が小さく揺れた。
今、絶対に笑いましたわね。この状況で。
「……仕方ない」
低い声がそう言ったかと思うと、次の瞬間。
大きくあたたかい指先が、そっと私のこめかみの辺りへ触れた。
「ひゃッ」
「静かにしろ」
「何をなさって」
「疲労緩和の魔力を、少しだけ流す」
「そんな器用なヒーラーみたいなこと、いつの間に」
「お前が兵士にやっているのを、見よう見まねで覚えた」
指先から、ほのかに温かく心地よい魔力が流れ込む。
強引ではない。ただ、張り詰めていた神経をゆっくりと解きほぐすみたいに、ジンワリと頭の奥へ広がっていく。
「……ッ」
私は思わず、抗議の言葉を忘れた。
気持ちいい。
悔しいけれど、とてつもなく。
馬車の揺れが、揺りかごのように心地よく遠のいていく。
膝の男らしい感触はまだハッキリしているのに、不思議とオタクの緊張だけが少しずつ解けていく。
「どうだ」
「……ズルいですわ」
「効いているならいい」
「そういう問題では……」
「寝ろ」
「命令ばかりですわね」
「有能すぎる妻が、すぐ無理をするからだ」
「……」
「俺の前では、少しは安心して甘えろ」
その言葉が、静かに、深く胸に落ちた。
私は目を見開いた。
けれど、見上げた先のクライス様は、少しだけ照れ隠しのように窓の外を見ている。
あまりにも自然に言うものだから、余計に胸の奥がギュッと締め付けられる。
甘えろ。
この方は本気で、そう思っているのだ。
私に。ずっと誰かを支える側だった私に、ちゃんと“寄りかかる側”になってもいいのだと、何度でも教えようとしてくれている。
「……ッ」
どうしようもなく、胸が熱くなる。
私はそっと、安心したように目を閉じた。
「少しだけ、ですわよ」
「それでいい」
「本当に、少しだけですからね」
「ああ」
「……あとで、ちゃんと利子をつけて返してくださいまし」
「何を」
「この、膝枕のお礼、ですわ」
「要らん」
「要ります」
「そうか」
「そうです」
「なら、俺が喜ぶお礼を考えておけ」
「……ッ」
何を?
俺が喜ぶお礼って、何を考えておけと? R指定のやつですの!?
それを赤面して問い返す前に、また指先の魔力がほんの少しだけ深く流れた。
だめだ。まぶたが重い。
意識が、あたたかいお湯の中へ沈んでいくようにゆっくり溶けていく。
最後に感じたのは、私の銀の髪へ優しく触れる大きな手と。
耳元へ甘く落ちた、低い声だった。
「おやすみ、俺の可愛いルシア」
そんなの。
そんなの、完全に反則でしょう。
そう幸せに思ったところで、私の限界オタクの意識はとうとう白く溶けた。
◇ ◇ ◇
どれくらい眠っていたのかは分からない。
目を覚ました時、馬車の揺れは少しだけ穏やかになっていた。
窓の外は夕方に近い色で、黄金色の光が斜めに差し込んでいる。
私はぼんやりした頭で、自分の現在の体勢を理解して――完全に石化した。
まだ、クライス様の膝の上だった。
「…………」
いやいやいやいや。
寝落ちしてそのまま? 本当に?
こんな長時間? 私、ヨダレとか垂らしてませんわよね!?
「起きたか」
頭上から、落ち着いた、少しだけ甘い声がした。
私は反射で飛び起きかけて、またクライス様の手によって優しく押さえられる。
「急に動くな。危ない」
「す、すみません!」
「落ち着け」
「無理ですわ!」
叫んだものの、声は寝起きで少し掠れて甘ったるくなっていた。
それがまた情けなくて恥ずかしい。
私はどうにか身体を起こし、隣へ座り直した。
顔が熱い。絶対にリンゴのように真っ赤だ。
「ど、どれくらい寝ておりましたの」
「二刻(約4時間)弱」
「にこく!?」
「よく寝ていたぞ」
「起こしてくださいまし!」
「あまりにも無防備で、気持ちよさそうだったからな」
「それは……ッ」
反論できない。
実際、前世を含めても一番というくらい、気持ちよく熟睡できた。ものすごく。
私は両手で顔を覆った。
だめだ。これではもう、“有能な補佐官”ではなく完全に“夫の膝でぐっすり寝かされるポンコツ妻”という完成された構図ではないか。
「……そんなに恥ずかしいか」
クライス様が、少し面白そうに静かに問う。
私は指の隙間から、チラリと彼を睨むように見る。
「恥ずかしいに決まっておりますでしょう……」
「そうか」
「でも」
私は小さく息を吐いた。
「嫌では、ございませんでした」
「……ああ」
「むしろ、その……」
「何だ」
「とても、安心いたしましたわ。あなたの温もりが」
言ってから、自分のセリフの甘さに頬がさらに熱くなる。
だが、これは紛れもない本音だった。
馬車の不快な揺れも。長旅の疲れも。
全部どこか遠くなるくらい、あたたかくて、落ち着いて。
気づけば泥のように眠ってしまっていた。
そんな風に、無防備に安心して身を預けられる相手ができたのだと、改めて幸福に思ったのだ。
クライス様は数秒黙り、それから低く、甘く言った。
「なら、またいつでも使え」
「……膝枕を、ですの?」
「そうだ」
「そんな、カフェの特典みたいに日常的に提供されるものなのです?」
「お前が欲しければ、俺の膝はいつでも空けておく」
「……ッ」
私はまたしても処理落ちしかけた。
何ですのそれ。そんな、まるで“永久無料パス”みたいな口ぶりで。
だが、その甘い空気の時だった。
「副団長!」
馬車の外から、護衛騎士の緊迫した声が飛んだ。
「前方に不審な影が複数! 街道脇の林へ散開して待ち伏せています!」
空気が、一瞬で凍りつくように変わる。
クライス様の表情から、やわらかな熱が完全に消え去った。
代わりに現れたのは、獲物を狩る『絶対零度の氷の騎士』の顔。
「数は」
「十以上! 武装あり!」
「……盗賊か。愚かな」
クライス様が短く、冷酷に呟く。
私は、さっきまでのイチャイチャした甘さを一瞬で心の奥底へ押し込め、背筋をピンと伸ばした。
寝起きのポンコツな余韻など完全に吹き飛ぶ。
仕事だ。
いや、この場合は『夫の圧倒的な無双(戦闘)シーンを、特等席で見られる神イベント』と言うべきかもしれないが。
クライス様が、鋭い目でこちらを見る。
「ルシア」
「はい」
「馬車から絶対に出るな」
「承知いたしましたわ」
「支援は」
「必要に応じて、後方から最適なバフとシールドを」
「よし」
その短い単語のやり取りだけで、もう完璧に呼吸が合う。
さっきまで膝枕でドロドロに甘やかされていたのに。
次の瞬間には、こうして背中を任せ合う戦闘前の顔になれる。
そのオンオフの切り替えすら、どうしようもなく格好良くて痺れる。
(ああもう……本当に、最高ですわ)
眠気なんて、完全に彼方へ吹き飛んだ。
馬車が止まり、外の空気が殺気でピンと張り詰める。
クライス様がマントを翻して立ち上がり、腰の剣へスッと手をかける。
私は窓辺へ身を寄せながら、胸の奥でそっと、ウキウキと呟いた。
――次は、推しの圧倒的な剣技を『最前列のVIP席』で観覧する時間ですわね。サイリウム(光魔法)の準備は完璧ですわ!
そうして、辺境への新婚旅行兼赴任の旅路は。
膝枕という極甘イベントの直後に、盗賊襲撃という(私にとってはただのファンサにすぎない)物騒な展開へと突入していくのである。




