第35話 辺境領地への新婚旅行(という名の赴任)決定!
結婚してから数日。
私は、人生で最も危険な日々を送っていた。
何が危険って、幸福度(QOL)が致死量レベルで高すぎるのである。
朝起きれば、同じベッドのすぐ隣に推し――いえ、愛する夫であるクライス様がいる。
共に朝食を取り、時には不器用な手つきで私の髪まで整えていただき、昼は並んで第一騎士団の書類を高速で捌き、夕方にはさりげなく腰を抱かれてエスコートされ、夜は夜で、私の心臓へ大変よろしくない過剰な甘やかし(R指定)が当然のように飛んでくる。
無理ですわ。
新婚というものは、なぜこんなにもオタクの理性を試してくるのか。
「ルシア」
「はい」
「さっきから、だらしなく顔が緩んでいるぞ」
「そうですの?」
「そうだ」
「……お心当たり(尊い供給)が多すぎて、どれが原因か分かりませんわね」
「そうか」
「そうですわ」
私は副団長室――ではなく、今はもう“私たちの執務室”と呼ぶべき部屋で、書類へ目を通しながら小さく、しかし確実にニヤニヤと微笑んでいた。
結婚後も、私は変わらず第一騎士団とクライス様の実務(兵站管理)を手伝っている。
ただし、以前のような“一介の側仕え”ではない。
国王陛下の正式裁可と神殿での誓いにより、私は『クライス・フェルドの正妻』として、かつ最強の補佐役として、堂々とその隣へ立っている。
それが嬉しくてたまらないのだから、多少顔が緩むくらい許していただきたい。
その時、扉が叩かれた。
「失礼します!」
入ってきたのは、事務担当の眼鏡騎士だった。
彼はいつも通り几帳面な顔をしていたが、手にした一通の封書だけは妙に重々しい。
「副団長、そして『奥様』」
「……奥様」
私は思わず復唱した。
いや、間違ってはいない。全く間違ってはいないのだが。
第三者からそう呼ばれると、未だに少しだけ心臓がキュッとしてバグりそうになる。
クライス様は平然としていた。
この辺りの精神の強さ(雄み)、本当にズルい。
「何だ」
「フェルド伯爵家から、急ぎの使者です」
「……父上からか」
クライス様の声が、ほんの少しだけ低くなる。
フェルド伯爵家。
つまり、クライス様のご実家であり、王国の辺境防衛の要を担う名門伯爵家だ。
私はパッと顔を上げた。
えっ。
ご実家? お義父様?
ということは。
(推しの『生家関係』の新規エピソードですの!?)
途端に、内心のオタク心が激しくざわつき始める。
落ち着きなさい私。今は仕事中。
きっとこれは、大事な領地関係の書簡であって、決して『聖地巡礼』の前触れでは――。
「ルシア」
「はいッ!」
「返事が異常に早いな」
「少々、気になりまして」
「そうか」
クライス様は封書を受け取り、ペーパーナイフで封を切って手早く目を通していく。
その美しい表情は相変わらず大きくは動かない。けれど、読了した瞬間、ごくわずかに眉が寄った。
私は思わず、机から身を乗り出した。
「何か問題でも?」
「問題というほどではない」
「でしたら」
「……赴任だ」
「はい?」
赴任。
今、この方は確かにそうおっしゃった。
「父上が、正式に領地を引き継げと言ってきている」
「領地を」
私は目を瞬く。
「……あなたが、引き継ぐ?」
「そうだ」
クライス様は短く頷いた。
「結婚と、この前の国境遠征での功績。時期としては十分だと判断したらしい」
「…………」
そこで、私の思考は一瞬だけ止まり。
次の瞬間、頭の中で特大の花火が爆発した。
「それってつまり!!」
私はガタッ! と立ち上がった。
「クライス様が伯爵位を継がれて、辺境領地へ赴任なさるということですの!?」
「そうなる」
「クライス様の生まれ育った故郷へ!?」
「……そうだな」
「つまりご実家へ!?」
「そうだ」
「それって実質、『聖地巡礼』ではありませんこと!?」
「ルシア様!?」
眼鏡騎士がギョッとした声を上げた。
だが、私は止まらなかった。止まれるわけがなかった。
推しの故郷。
推しが幼少期を過ごし。
きっと少年時代に泥だらけになって剣を振り。
家族と育ち。領民たちと関わってきた、すべての原点となる場所。
そんなもの、前世の乙女ゲームの隠し設定資料集(特装版特典)でも、最後まで十分に描かれなかった『聖域中の聖域』である。
それが今、生身で、合法的に、妻として堂々と立ち入れる?
(尊さの供給過多で死にますわーーーーー!!)
「ルシア」
「はい!」
「落ち着いて座れ」
「はい!」
条件反射で座った。だが興奮のボルテージはまるで冷めない。
クライス様はそんな鼻息の荒い私を見て、少しだけ呆れたように息を吐く。
「……赴任であって、新婚旅行ではない」
「承知しておりますわ」
「辺境だ。王都のように何もかもが整ってはいないぞ」
「存じております」
「移動も長く、過酷だ」
「むしろご褒美ですわ」
「何がだ」
「クライス様と二人きりで長時間ご一緒にいられる馬車旅(密室イベント)など、どう考えても特大のご褒美でしょう」
「……」
「しかも行き先が、推しの故郷」
「推しと言うな。夫だ」
「今さらですわね」
「……そうだな」
眼鏡騎士が、何とも言えない(イチャつきを見せつけられた)顔でそっと部屋を出て行った。
賢明な判断である。
◇ ◇ ◇
それから詳しく聞けば、話はこうだった。
フェルド伯爵家は、代々辺境防衛の要を担う名家である。
現伯爵――つまりクライス様のお父上はまだ健在だが、近年は領地経営の実務を徐々に後継へ移すつもりでいたらしい。
そこへ今回の国境遠征の大功績、加えて私との結婚も重なった。
国王も正式に認め、クライス様は伯爵位継承とともに領地へ赴任。
王都の第一騎士団との籍は名誉的に残しつつ、今後は辺境伯爵として領地経営と防衛の全権を担う。
……うん。
極めて真っ当で、極めて大事な国家レベルのお話だ。
だが。
「つまり、新婚旅行兼赴任ですわね」
「違う」
「聖地巡礼兼赴任でもございます」
「違う」
「推しの思い出探訪・公式メモリアルツアー」
「違う」
「領主夫人としての正式な領地視察兼、夫の幼少期ゆかりの地巡り」
「……後半が余計だ」
「余計ではございませんわ。私の人生の最重要事項ですもの」
私は真顔で言い切った。
だって仕方がない。オタクとして重要だ。極めて重要である。
何しろ。
クライス様が初めて木剣を握った裏庭があるかもしれない。
幼少期に読んでいた書物が書庫に眠っているかもしれない。
無口な少年時代の、誰にも知られていない黒歴史が埋まっているかもしれない。
そんな場所へ、堂々と行けるのだ。
領地経営?
もちろん全力でやりますわよ。前世の社畜スキルをフル動員して。妻として当然ですもの。
だがそれはそれとして。
聖地巡礼心が業火のように燃え上がるのも当然ではないか。
「ルシア」
「はい」
「顔に出ているぞ」
「何がですの?」
「ろくでもないことを考えている、悪い顔だ」
「失礼ですわね。とても有意義で尊いことですわ」
「聞くだけ無駄か」
「ええ、多分」
クライス様が小さく息を吐く。
でも、完全に咎める気はないらしい。その辺りがまた、妻に甘い。
◇ ◇ ◇
問題は、その後だった。
赴任が決まった以上、準備が必要である。
しかも私は、ただの同行者(側仕え)ではない。
『次期辺境伯爵夫人』として領地へ入るのだ。ならば、やることは山ほどある。
「まずは移動日数の完全な確認ですわね」
私は即座に白紙を広げ、猛烈な勢いでペンを走らせた。
「街道状況、宿場の質、馬車の揺れ(クッション)対策、それから持ち込むべき帳簿様式の再編と監査基準の統一化――」
「もう始まった」
ローデン隊長が呆れたように言う。
「当然ですわ」
「まだ今日、たった今決まったばかりだぞ」
「だからですわ。赴任準備は初動が全てでございます」
「相変わらずすげえな、この奥様……」
すげえのは当然である。私を誰だと思っているのか。
前世では残業続きの社畜OL、現世では腐った王宮と騎士団の両方の兵站を回してきた最強実務令嬢である。
新婚旅行だろうと赴任だろうと、準備段階で後れを取るつもりは一切ない。
「クライス様、ご実家の使用人構成は?」
「屋敷付きが二十ほどだ」
「代官権限の現状の範囲は?」
「父上と筆頭家令が維持しているはずだ」
「過去五年の収支表と税収録は届きます?」
「多分な」
「なら、赴任前に先に全部読ませてくださいまし」
「……赴任する前から働くのか」
「読むに決まっておりますでしょう」
私はふんす、と胸を張る。
「推しの領地を預かるのですわよ? 赤字なんて許しませんわ」
「おい、今さらっと伯爵領より“推し”が先に来たぞ」
ローデン隊長がツッコんだ。
「当然ですわ」
「当然なのか……」
「でも結果として領地は爆発的に潤うので、何も問題ございません」
「まあ、それはそうなんだよな……確実にな……」
若い騎士たちまで深く頷いている。
何ですのその絶対的な信頼は。嬉しいではありませんか。
その時だった。
「ルシア様!」
また別の若い騎士が、半泣きのような顔で駆け込んでくる。
「本当に行ってしまわれるんですか!?」
「ええ、夫の赴任ですもの」
「そんな……! 俺たちの補給庫は!? 書類の整理は!?」
「完璧なマニュアルを引き継ぎますわ」
「南門の交代表、誰が見るんです!?」
「誰でも回せる自動化手順書を作ります」
「遠征の時の、あの神がかった果実煮の味つけは!?」
「配合レシピをミリグラム単位で書き残します」
「ルシア様ぁ……!!」
気づけば、周囲の若い騎士たちがズラリと私を囲むように集まり始めていた。
しまった。これはいけない流れである。
「泣かないでくださいまし」
私は少しだけ困って優しく言う。
「王都から完全にいなくなるわけではございませんわ。必要があれば戻りますし、手紙でも最新の補給案は送れます」
「でも……!」
「それに」
私はコホンと咳払いを一つした。
「今度は領地で、より大きな単位の『内政と防衛』を担うのです。これは、私が第一騎士団で培った経験をさらに広げる機会でもありますのよ」
「うッ……ルシア様が正論を……」
「ルシア様はいつも正論だろ……」
「分かってるけど、ルシア様がいなくなるの、寂しいんだよ!」
うむ。
素直で可愛いですわね、この子たち。
だが、その輪の向こうで。
クライス様が、腕を組んでジッとこちらを(正確には若い騎士たちを)見ているのに気づいた。
あっ。
この空気、少しまずいかもしれない。
なんとなく、ほんの少しだけ。
前にあの宝飾店や野営地でも見たことのある、あの静かで重たい『絶対零度の圧(独占欲)』がある。
「ルシア」
「は、はいッ」
「準備に戻れ」
「ええ、もちろんですわ」
「今すぐだ。こっちへ来い」
「……はい」
若い騎士たちが、副団長の殺気に気づいて揃ってシュンとした。
いや、でもこれは仕方がない。
私の主業務はあくまでクライス様の妻であり、今後は伯爵夫人としての赴任準備なのだから。
私はヒラリと手を振った。
「皆様、後ほど完璧な引き継ぎ表を作成いたしますわ」
「は、はい……」
「果実煮のレシピも書き残しますから」
「ありがとうございます、女神様……」
「だから泣かないでくださいまし」
「無理です……」
本当に、第一騎士団の若手は素直で愛らしい。
「……愛らしい?」
背後で、地を這うような低い声がした。
私はピタリと止まる。
「副団長?」
「夫だ」
「……そうでしたわね」
「そうだ」
「それで」
私は恐る恐る振り返る。
「何かしら」
クライス様は無表情に近い顔をしていた。
していたのだが。
「お前は、どこへ行ってもそうやって、男に懐かれるんだな」
「え?」
「……いや、何でもない」
そう言って、彼はフイッと不機嫌そうに視線を外す。
何でもなくは、ないでしょう。
でも、そこを不用意に深掘りするとまた甘くて重い方向へ転がりそうなので、今はやめておく。
……ただし。
その声音に、ほんの少しだけ『俺の妻だぞ』という独占欲の残り香みたいなものを感じ取ってしまって、私は内心でこっそり顔を熱くするしかなかった。
◇ ◇ ◇
その夜。
私は屋敷の寝室に、ありとあらゆる紙を持ち込んでいた。
街道地図。持ち物一覧。騎士団への引き継ぎ表。領地赴任後の初動(100日)計画。
必要となりそうな新興作物と気候の想定データ。
そして、『フェルド辺境伯爵領』という文字を中央に大きく書いたマインドマップ。
「……本当に始めたな」
後ろからクライス様の呆れた声が飛んでくる。
私は寝台の上へ地図を広げたまま、キッパリと答えた。
「当然ですわ」
「新婚初夜から数日しか経っていない女がする顔ではない」
「だって赴任ですわよ?」
「そうだな」
「しかもクライス様の故郷」
「……」
「つまり、私が知らない幼少期の尊い情報が山のように眠っている可能性が高い――」
「そっちが主目的みたいに言うな」
「半分くらいはそうですわ」
「半分もあるのか」
「だって尊いではありませんか」
「……お前は本当に、ブレないな」
「最高の褒め言葉として受け取りますわ」
クライス様は呆れたように息を吐いたが、そのまま自然な動作で私の隣へ腰を下ろした。
そして、広げた地図を一緒に覗き込む。
近い。
肩が触れそうで触れない距離。
新婚の夜を越えた今でも、このゼロ距離はやはり心臓へ悪い。
だが、それ以上に嬉しい。
「ここが領都だ」
クライス様の長く美しい指が、地図の一点を示す。
「北に険しい山、南に平野。東は深い森、西は国境へ続く」
「まあ……」
私は地図を食い入るように見た。
「クライス様は、このあたりで育ったのです?」
「ああ」
「幼い頃から?」
「そうだ」
「初めて木剣を握ったのは?」
「屋敷の裏庭だったはずだ」
「裏庭」
「目が怖いぞ」
「怖くなどございませんわ。オタクとして極めて真剣なだけです」
推しの初めて剣を握った庭。
何ですのその神聖な情報は。
一気に旅程表へ“到着後・最優先確認事項(撮影スポット)”として書き加えたい。
だが、それをやる前に。
クライス様が、ふと大きな身体を傾け、私の小さな肩へコトリと寄りかかった。
「……?」
「少し休め」
「まだ準備が」
「明日でもできる」
「ですが」
「俺がここにいる」
「はい」
「それで十分だろう」
「…………」
そういう不意打ちの甘え方をされると、本当にオタクは弱い。
私は持っていたペンを、そっと置いた。
クライス様がそのまま私の肩へ額を預ける。
大きな身体なのに、今だけは妙に静かで、あたたかくて、少しだけ体重を預けてくれているのが分かる。
「赴任、嫌ではないか」
不意に、そんな不器用な問いが落ちた。
私は瞬く。
「なぜそのように?」
「王都を離れる」
「ええ」
「慣れた環境も、お前を慕う第一騎士団の連中も」
「はい」
「全部変わる。辺境の何もない田舎だ」
私は少しだけ考え、それから優しく笑った。
「嫌ではございませんわ」
「……」
「だって、私の愛するクライス様がいらっしゃるではありませんか」
「……」
「それに、あなたの育った大切な場所を知れるのですもの」
「やはりそこ(推し活)か」
「私にとって、大変重要ですわ」
「そうか」
「はい」
私は胸を張る。
「むしろ、楽しみで仕方ありませんわ!」
クライス様は少しだけ沈黙し、それから低く、甘く言った。
「ならいい」
「はい」
「一緒に来い」
「もちろんですわ」
「ずっと、俺の隣に」
「最初から、そのつもりです」
その返事に、クライス様の大きな手が、そっと私の指へ重なった。
指を絡められ、繋がれる。
新婚になってから何度もされたはずなのに、やはりそのたびに胸が熱くなる。
私はその手を、力強く握り返した。
推しの故郷。辺境伯爵領。
新婚旅行という名の赴任。新しい暮らし。新しい仕事。
そして、多分、新しい甘い生活。
これから先に待っているものは、きっと便利な王都とはまるで違う。
けれど、怖くはなかった。
だって、私はもう知っている。
半歩後ろから見上げるだけではなく、ちゃんと『妻』として隣に立てることを。
この人と一緒なら、どんな過酷な場所でも、そこがきっと私の最高の特等席になるのだと。
そうして。
限界オタク妻ルシア・フォン・グランツは、満面の笑みで辺境赴任の準備を始める。
その先に待つ甘すぎる馬車旅も、
推しの膝枕イベントも、
盗賊襲撃でのサイリウム応援も、
推しの領地を荒らした悪徳代官へのガチギレも、
そして規格外すぎるチート領地改革も。
今の私は、まだ知らない。
ただ一つだけ確かなのは。
推しの故郷へ行けるなんて、やはり聖地巡礼以外の何物でもありませんわね!
……という、極めて前向きで、極めて私らしい限界オタクの決意だけだったのである。




