第30話 星空の下のプロポーズ
王都随一の高級レストランでの昼食を終えた時点で、私のオタクとしての精神的HPはもうだいぶ限界(赤ゲージ点滅)だった。
何しろ、向かいに座る最推しが。
あまつさえ大人の色気を漂わせた私服姿で。
あまりにも自然な顔で、あまりにも本気の声音で、「お前に、側仕え以上の扱いをしているつもりだ」などと正面から爆弾宣言をしてきたのである。
そんなもの、処理できるはずがない。
それでも私は、どうにか公爵令嬢としての淑女の理性を総動員し、最後まで食事を完遂した。
偉い。本当に偉い。途中でナイフを取り落として奇声を発しなかっただけでも、国から表彰されるべきだと思う。
だが、私の心臓への試練は終わっていなかった。
「食後、もう一か所寄る」
そう言われたまま、私は今。
王都の中心街から少し外れた、なだらかな上り坂をクライス様と並んで歩いていた。
よく磨かれた石畳はいつの間にか途切れ、足元は柔らかな土の道へ変わっている。
周囲には背の低い草が風に揺れ、振り返れば、王都の美しい街並みが夕暮れの向こうにパノラマのように広がっていた。
(……どこへ向かっておりますの?)
高級店街ではない。買い物の通りでもない。
王宮へ戻る道でも、騎士団本部へ帰る道でもない。
しかも、日はもう完全に傾いている。
西の空は燃えるような茜色から深い紫へとグラデーションを描き、夜の気配がゆっくりと世界に降り始めていた。
私は隣を歩くクライス様を、そっと盗み見た。
相変わらず、横顔が良い。良すぎる。
昼間の洗練された外出着のまま、夕焼けを背にして静かに歩く姿など、一枚の絵画のようで破壊力が高すぎるに決まっている。
(本当に、何なのですの今日という日は……)
最高級のオーダーメイドドレス。
特注のサファイアの髪飾り。
予約が取れない高級レストラン。
そして、逃げ場のない意味深な言葉の数々。
そこへ来て、この夕暮れ時の、人目のない静かな散歩めいた移動である。
……普通に考えれば。
いや、普通に考えなくても。
(これ、もう完全に“そういう(告白の)流れ”では……?)
だが、ここでオタク特有の早とちりをしてはいけない。
私はルシア・フォン・グランツ。推しの行動に対しては、無限に都合よく解釈しがちな『限界オタク令嬢』である。
ここで「これはついに告白前の演出ですわね!」などと浮かれて盛大に勘違い(自爆)した日には、恥ずかしさで二度と立ち直れず、王都の海に身を投げるしかない。
だから、冷静に。慎重に。
あくまで側仕えとして、理性的に確認すべきだ。
「副団長」
「何だ」
「どちらへ向かっておりますの?」
「もう少しだ」
「それは答えになっておりませんわ」
「着けば分かる」
「本日四度目くらいではありませんこと、その台詞」
「そうか」
「そうですわ」
やはり、はぐらかされた。
私はジトリとジト目を向けたが、クライスは気にした様子もなく真っ直ぐに歩き続ける。
その足取りには一切の迷いがない。つまり、行き先は最初からハッキリと決まっているのだ。
そして坂を上り切った先で、私はようやく、ハッとして息を呑んだ。
そこは、小高い丘の上の、見晴らしの良い開けた場所だった。
王都の喧騒から完全に切り離された、静寂の空間。
見渡せば、石造りの街並みに夕暮れのオレンジ色のガス灯が一つ、また一つと点り始めている。
遠くには王宮の尖塔、さらに向こうには沈みかけた太陽の最後の残光。
頭上には、まだ薄暗い空に、澄み切った一番星がポツリと浮かんでいた。
風が心地よい。人の気配はない。
ただ草が揺れて、世界がここだけ少しゆっくり呼吸しているみたいな、完璧な場所だった。
「……まあ」
それしか言えなかった。
綺麗だ、とか。すごい、とか。そういう陳腐な単語では足りない。
ただ、息をするのを忘れるくらいには、圧倒的に美しかった。
「ここ、は……」
「昔、騎士団の訓練で高所巡回に使った場所だ」
クライスが静かに答える。
「王都がよく見えるだろう」
「ええ……本当に」
私はそっと丘の端へ歩み寄る。
夜の始まりの風が頬を撫で、昼間の火照った熱を少しずつ攫っていく。
こんな美しい場所が王都のすぐそばにあったなんて。
知らなかった。いや、知っていたとしても、自分一人では絶対に来なかっただろう。
だってここは。
あまりにも、“特別な誰かと来る場所”すぎる。
(……駄目ですわ)
落ち着いていたはずの心臓が、また早鐘のように騒ぎ始める。
この流れで。
この場所で。
二人きりで。
もし、もしも。
本当に、私の思い描いたあの『可能性』なのだとしたら――。
「ルシア」
名前を呼ばれて、私はビクゥッと肩を震わせた。
振り返れば、クライスが少し離れた位置でこちらをジッと見ていた。
夕暮れと夜の境目みたいな薄明かりの中で、その蒼い瞳だけが妙に熱を帯びて鮮やかに見える。
「はい」
返事が、情けないほど少しだけ掠れた。
クライスは数秒、何も言わなかった。
ただ、真っ直ぐに私を見る。
その沈黙が妙に長くて、重くて、私は落ち着かなくなる。
何か言うべきだろうか。いや、オタクの余計な早口でこの神聖な流れを壊したら万死に値する。なら黙っているべきか。
でも黙って見つめられているだけだと、緊張で今度こそ心不全で死にそうだ。
そんな私のパニックを見透かしたみたいに、クライスが低く言った。
「今日は、最初からこのつもりだった」
「……最初から?」
「街へ出たのも」
一歩、こちらへ近づく。
「お前の服を選ばせたのも」
さらに一歩。
「あの髪飾りを渡したのも」
また一歩。
「全部だ」
私は、完全に息を止めた。
やはり。
やはり、そうなのだ。
買い出しの荷物持ち(パシリ)ではなかった。
業務の延長でもなかった。
最初から、全部。
全部、“このため(私のため)”だった。
「副団長……」
「クライスだ」
「……ッ」
そうだった。昨日から何度も、そう呼ばせようとしていたことを思い出す。
けれど今この甘く張り詰めた空気の中で、その名を直接口にするのは、難易度が高すぎる。
「く、クライス、様……」
やっとのことでそう呼ぶと、クライスの氷のような目が、ほんの少しだけ、熱く和らいだ。
だめだ。
その微細な変化だけで、また心臓が限界まで持っていかれる。
「ルシア」
彼は静かに、確かめるように言う。
「お前は、俺のことをずっと見ていたな」
「……(ギクッ)」
「最初は、何を考えているのか分からなかった」
「……はい(すみません常に尊いと思ってました)」
「だが、今はハッキリ分かる」
「何が、ですの」
「お前が俺へ向ける感情が、『本気』だということがだ」
その言葉に、胸の奥がカッと熱くなる。
本気。
ええ、そうだ。
私はずっと本気だった。
単なる『推し活』だから、で済ませるには、あまりにもずっと長く、深く。
見つめて、支えて、理不尽から守りたくて。
その大きな背中の傍に、ずっといたかった。
けれど。
それを真っすぐに言葉にして言い返すには、限界オタクの私には、まだ勇気が1ミリも足りない。
クライスはゆっくりと私の前まで来る。
手を伸ばせば触れられる、ゼロ距離。
風が吹いて、私の銀色の髪が少しだけ頬にかかった。
その時、彼の大きな手がそっと伸びてきて、私の髪を優しく払うように耳へかけた。
「ひゃ……ッ」
情けない、カエルの潰れたような声が漏れる。
近い。近すぎる。
昼間のドレス選びの採寸や宝飾店でも十分危険だったのに、今のこの空気感は比べものにならない。
何しろ、この人の熱い指先が。直接。私の髪と肌に。
「す、副団長」
「クライスだ」
「く、クライス様……」
「何だ」
「距離が、近いですわ……」
「そうだな」
否定しないでいただきたい。
それなのに、彼は一歩も引かない。むしろ、逃げ道を塞ぐようにそのまま真っすぐに私を見下ろす。
「ルシア」
「……はい」
「俺は不器用だ」
「それは……」
私はコクンと頷いた。
「存じております(痛いほど)」
「そこは否定して言い直してもいいぞ」
「言い直しませんわ」
こんな極限状態でも、少しだけおかしくて。
でも、そのわずかな飾らないやり取りすら、どうしようもなく愛おしいと思ってしまう自分がいた。
クライスはほんの少しだけ息を吐き、それから、真剣な眼差しで続けた。
「だから、気の利いた回りくどい口説き文句は向いていない。率直に言う」
「……」
「お前を、誰よりそばに置きたい」
「……ッ」
「誰にも、他のどの男にも渡したくない」
「……」
「便利な側仕えだからでも、有能な部下だからでもない」
その不器用で重い一言一言が、胸の奥へ落ちるたびに、息が苦しくなる。
これはもう、オタクの勘違いではない。
曖昧な含みでもない。
ハッキリと。逃げ道の一切ない、純度100%の形として、こちらへ向けられている。
「お前が俺の隣で笑うのを見ると、ひどく安心する」
「……」
「他の男と親しげに話していると、殺したくなるほど気に食わない」
「……(重い)」
「お前が傷つけば、世界の全てが冷える」
「……」
「いなくなると考えるだけで、狂いそうになるくらい嫌だ」
私は、もう何も言えなかった。
だってそんなの。
そんなの、前世からずっと、一番欲しかった言葉だ。
ゲームの画面越しに推しとして遠くから見ていただけの頃には、絶対に手の届かなかったもの。
何度もバッドエンドで見送るしかなかった孤高の人から、今、こんなにも真っ直ぐに、私個人へ向けて巨大な感情が向けられている。
夢みたいだ。
でも夢ではない。
吹き抜ける夜風も、低い声も、目の前の人の確かな体温も、全部現実だった。
クライスは私を見つめたまま、静かに、ゆっくりと片膝をついた。
「……ッ!」
私は、思わず一歩下がりそうになった。
だが、足がすくんで動けない。
跪いた。
この人が。
第一騎士団副団長で、誇り高き氷の騎士で、バカ王太子にすら絶対に頭を下げなかったこの人が。
今、私という一介の令嬢の前で、忠誠と愛を誓うように。
「クライス様……!」
「聞け」
「……はい」
声が震える。体も熱い。視界まで滲みそうだ。
夕闇の中、クライスは見上げるように私を見る。
その蒼い瞳には、一切の迷いがなかった。
「ルシア・フォン・グランツ」
名を、フルネームで呼ばれる。正式に。
この世で一番大事な宝物へ触れるみたいに、優しく。
「側仕えとしてではなく」
その一言で、世界からすべての音が消え去った。
「俺の妻として」
心臓が、大きく跳ねる。
「一生、俺の隣にいてほしい」
風が吹いた。
どこかで夜鳥が鳴いた気がする。
王都の灯りが、星屑のように遠く揺れている。
空には、いつの間にか満天の星が輝き始めていた。
なのに私は、何も見えなかった。
見えるのはただ。
目の前で跪くクライス様と、その唇から落ちた、重くて甘い言葉だけ。
妻。
一生。
隣に。
「……ッ」
喉が震える。
何か言わなければ。返事をしなければ。
そう思うのに、言葉が出てこない。
だって、そんなの。
そんなの、予想できるはずがないではないか。
いや、予想はしていたのかもしれない。どこかで、少しは。
今日一日の“デート”の流れを見れば、勘づかない方がおかしい。
けれど。
本当に、実際に、推し本人の口から。
その真っ直ぐで不器用な声音で。
何一つ逃げず、濁さず、誤魔化さずにド直球でプロポーズされてしまったら。
処理できるわけがない。
(むりですわ)
心の中で、ただそれだけが浮かぶ。
推しからのプロポーズ。
しかも、“妻として、一生俺の隣に”。
そんなもの、限界オタクの処理能力を完全に、圧倒的に超えている。
クライスは返事を急かさなかった。
ただ、ジッと私を見上げている。
その視線が熱い。重い。
でも怖くない。
むしろ、どうしようもなく嬉しい。
私は震える唇を開く。
けれど、声にならない。
目の奥が熱い。胸の中がぐちゃぐちゃで、泣きたいのか笑いたいのかすら分からない。
「……ルシア」
クライスが、返事のない私を見て、ほんの少しだけ不安そうに名を呼ぶ。
その不器用な声で、さらに胸がギュッと締めつけられた。
ああ。
だめだ。
本当に、もうだめだ。
推しが。私の愛する推しが。
こんな顔で、こんな声で、こんなにも真っ直ぐに私を求めている。
私は、ついにオタクとしての限界を迎えた。
「……ッ」
視界が、完全に涙で滲む。
次の瞬間。
私の中で必死に抑え込んでいた、彼へのクソデカ感情の何もかもが、とうとう決壊した。
――その答えを、私はもう、1ミクロンも隠しきれなかったのである。




