第3話 前世の社畜スキル、異世界で火を噴く
「副団長を呼べ! 団長もだ! 今すぐ連れてこい!」
ローデン隊長の悲痛な怒号が夜の訓練場に響き渡ってから、わずか数分後。
第一騎士団本部は、完全にお祭り騒ぎと化していた。
「的が消えたって何だよ!」
「砕けたんじゃなくて!?」
「マジで空間ごと抉れたみたいに何も残ってないんだよ!」
「それをやったのが公爵令嬢!?」
「しかも婚約破棄された直後に裸足で就職活動に!?」
「情報量が! 情報量が多すぎる!」
パニックに陥る屈強な騎士たちを他所に、私は両手を前で組み、とてもお行儀よく背筋を伸ばして立っていた。
なお心の中は、先ほどから一貫して暴風雨である。
(副団長……副団長……副団長ってことは、つまりクライス様よね!? えっ、待って、心の準備が! というか身だしなみ! 髪! 裸足! 裾をぶった切ったドレス! 推しに初エンカウントする装備じゃないわよ最悪では!?)
ここへ来ることしか考えていなかったため、肝心の「推しに会う姿」としては著しく不適切である。
せめて手櫛で髪を……いや、そんな小細工でどうにかなる乱れではない。
内心で一人高速反省会を開いていると、訓練場の入口側がスッと静まり返った。
ざわめきが波が引くように止み、騎士たちが一斉に姿勢を正す。
「副団長」
「クライス副団長!」
その呼び声に、私の心臓がブワッと跳ね上がった。
来た。
来てしまった。
私は恐る恐る、けれど一秒たりとも見逃すまいと、顔を上げた。
夜の灯りに照らされながら訓練場へ足を踏み入れたその人は、まるで月光をそのまま人の形に切り取ったようだった。
癖のない、鋼を思わせる淡い銀灰色の髪。
研ぎ澄まされた刃のように美しい横顔。
感情をほとんど表に出さない、切れ長の蒼い瞳。
鍛え抜かれた長身を包む騎士服は無駄がなく、その立ち姿ひとつで、周囲の空気まで冷たく引き締まる。
――クライス・フェルド。
(ゲームの立ち絵より百倍顔がいい……!!)
いや、千倍かもしれない。二次元の時点ですでに限界突破していたのに、三次元化(リアル化)してなおこの破壊力とは何事だ。国家の損失ならぬ国家の至宝である。
(無理無理無理無理無理!! 生クライス様だ!! ちょっと待って、顔がいい! 顔が良すぎる! 息してる! えっ、同じ空間の酸素吸ってる!? 私が!? 許されるの!?)
内心で五体投地しながらも、私は外面だけは「氷の淑女」を完璧に取り繕った。
ここでオタク特有の不審な挙動を見せれば、即座に不審者として摘み出される。落ち着けルシア、中身は活火山でも外側は永久凍土であれ。
クライスは訓練場の中央まで歩いてくると、チリ一つ残らず消滅した的の跡を一瞥した。
それだけで周囲の騎士たちが、なぜかビシッと背筋を伸ばす。
ああ、分かる。分かるわその気持ち。推しの前では呼吸すら正したくなるものよね。
「……これをやったのは」
低く、静かな声。
たったそれだけの一言で、私の脳内サーバーが一度落ちた。
(声ェェェェェェ!!)
ゲームでもボイスはあった。だが現実の空気を震わせて鼓膜に届く『生ボイス』は、殺傷能力が段違いである。どうしよう、耳が幸せすぎて死にそう。
「こ、こちらの、ルシア・フォン・グランツ様です!」
なぜかローデン隊長が妙に裏返った声で私を紹介した。やめてほしい。今の私は、推しの視線を一身に浴びていい精神状態ではない。
クライスの蒼い瞳が、まっすぐ私に向く。
その瞬間、私は悟った。
(あ、これ近距離で見ると想像以上に無理だわ)
長い睫毛。通った鼻筋。薄い唇。無機質な表情が逆に美貌を際立たせている。制服越しにも分かる肩幅、腰の細さ、剣帯の位置。
すべてが、あまりにも『解釈一致』の塊だった。公式設定資料集が歩いている。
私は死力を尽くして、優雅に一礼した。
「はじめまして、クライス副団長。ルシア・フォン・グランツと申しますわ」
よし。声は震えていない。カーテシーも完璧だ。
クライスは私を数秒見つめ、それから短く言った。
「……グランツ公爵家の令嬢が、なぜここにいる」
「就職希望ですわ」
「就職」
「はい。できれば副団長付きの専属側仕えとして」
「断る」
即答だった。
あまりにも迷いがない、自然すぎる拒絶。
(ありがとうございます!! 生・即・答!! 解釈一致!!)
冷たく突き放すのに声を荒げないところが最高だ。端的で、無駄がない。そういうところが私は大好きなのだ。
しかし、好きと就職は別問題である。
「まだ何も見ていないうちから断られるのは心外ですわ」
「先ほど、あそこの惨状(魔法の跡)を十分すぎるほど見た」
「戦闘能力だけで判断されては困ります。私は戦うためではなく、働くために参りましたの」
「……働く?」
「ええ。雑務、書類処理、会計、備品管理、法務確認、対外交渉の下準備、必要であれば夜食の配膳まで一通り」
「幅が広すぎるな」
「前職が激務でしたので」
ぽろっと本音が漏れた。
前職(前世の社畜OL)に比べれば、物理的な命の危機があるとはいえ、職務内容が明確なだけマシである。「上司の気分で締切が生える」理不尽もないだろうし。
クライスがわずかに眉を寄せたのを見て、ローデン隊長が慌てて口を挟む。
「副団長! 彼女の魔法は本物です。少なくとも、ただ追いかけてきただけの令嬢ではありません!」
「追いかけてきた、というのは誤解ですわ」
「副団長の側にいたいのは本心だが!?」
「ローデン隊長!?」
(余計な補足をしないでいただきたい!!)
周囲の騎士たちが一斉にこちらを見た。やめて、違わないけど、今そこを掘り下げられると非常に困る。
クライスはそんな騒ぎを意に介した様子もなく、淡々と告げた。
「……戦闘能力は認める。だが、騎士団に必要なのはそれだけではない」
「ええ。ですから、実務でご判断くださいませ」
私はすかさず切り返す。
「ちょうどお困りごとがあるのではなくて? 現場が強い組織ほど、事務は滞りがちですもの」
前世で嫌というほど見た。営業が強い会社ほど、経理や総務が裏で血反吐を吐いているのは世の常である。武闘派の騎士団なら、なおさらだ。
その言葉に、ローデン隊長と数人の騎士が露骨に目を逸らした。
おやまあ。図星らしい。
クライスは沈黙したまま、訓練場の奥にある本部建物へ視線を向ける。そこには、書類地獄に苦しむ者だけが纏う『月末特有の重苦しいオーラ』が漂っていた。
数秒後、彼は短く言った。
「……ついてこい」
(えっ)
「実務を見せろ」
「は、はいっ!」
思わず返事が裏返った。危ない、完全にオタクの素の声が出た。
私は咳払いひとつで何事もなかった顔を作り、クライスの後を追う。
その背中を見た瞬間、またしても内心が大爆発した。
(背中がいい……!! 広い背中! ぶれない歩幅! 無駄のない動き!)
どうしよう、まだ会って五分も経っていないのに、すでにオタクとしてのHPが限界である。
◇ ◇ ◇
第一騎士団本部の事務室は、控えめに言ってスラム街だった。
部屋へ入った瞬間、私は確信した。
(あ、これ前世の月末だわ)
机の上にそびえ立つ書類の山。棚に乱雑に押し込まれた帳簿。床にまで雪崩を起こしている報告書。
しかも、分類も優先順位も書式もバラバラ。典型的な「忙しい人が忙しさにかまけて放置した結果」である。
部屋の隅では、数人の事務担当騎士が死んだ魚のような目でペンを走らせていた。
そのうちの一人は、クライスの姿を見るなり半泣きで立ち上がる。
「ふ、副団長……! 申し訳ありません、まだ先月分の備品台帳が――」
「その件だ。試験を行う」
「……試験?」
「この令嬢に、未処理分を任せる」
「…………は?」
事務担当たちの死んだ目が、揃って私へ向いた。
ドレスを引き裂いた裸足の公爵令嬢が、夜中に突然現れて実務試験。怪しさの満漢全席である。
最年長らしき眼鏡の騎士が、おそるおそる口を開いた。
「……あの。書類仕事をご経験されたことは?」
「ございますわ」
「どの程度」
「王宮内政務の裏方(サビ残)を十年ほど。……体感としてはそのくらいですわね」
私は部屋全体を見回した。
書類の山、未開封の報告書束、決裁待ちの印章。
(まず分類。次に優先順位付け。重複確認。承認ルート別分岐。定型文の抽出。そして自動化)
前世仕込みの『社畜脳』が高速回転を始める。
パソコンがあれば三秒で関数を組むのに、と一瞬思ったが、ないものは仕方がない。
ならば、魔法で物理的にマクロを組むだけだ。
「未処理分、全部お借りしても?」
「ぜ、全部……?」
「ええ。ひと月分でもふた月分でも構いませんわ」
「いや、構うに決まってるだろう……」
ローデン隊長が呆れたように呟く。
クライスは壁際に腕を組み、無言でこちらを見ている。
推しの視線がある。死ぬ。いや今死んではいけない。働け私。推しに有能さをアピールする絶好のチャンスだ。
私は深く息を吸い、両手を軽く打ち合わせた。
「《選別(IF)》《整列(SORT)》《識別(VLOOKUP)》」
ポンッ、と柔らかな光が散った瞬間。
机と床に山積みになっていた大量の書類が、フワリと宙へ浮いた。
「「「うわあああっ!?」」」
事務担当騎士たちが悲鳴を上げる。
宙に浮かんだ書類たちは、目に見えない手に操られるように、種類ごと、提出先ごと、優先度ごとに自動で高速分類されていく。
重複分は横へ弾き出し、記載漏れには薄赤い光でエラーマークをつける。
(討伐報告は日付順! 負傷者報告は緊急性優先! 予算書は金額差異の大きいものから! 定型挨拶文はまとめて処理、署名欄だけ残す!)
人間が一枚ずつ見て判断する作業を、条件分岐と反復処理に分解していく。
魔法はあくまで手段だ。重要なのは、手順を最適化する『アルゴリズム的思考』である。
私は近くの空いた机へ歩み寄ると、ペンを五本手に取った。
「《複写筆記(COPY&PASTE)》」
途端に、ペンが勝手に宙へ浮かび上がり、それぞれが別々の書類の上へ移動して猛スピードで文字を書き始めた。
「う、動いてる……」
「ペンが勝手に……怖っ」
失礼な感想が聞こえたが気にしない。
「副団長、こちらは至急案件ですわ。医務室の薬品在庫が今週末までもちません」
「……そこに埋もれていたものを、もう見つけたのか」
「ええ。優先箱の一番下にありましたので、あと二日遅れていればアウトでしたわね」
「……」
クライスの沈黙が少しだけ深くなる。
私はひたすら手を――いや、全身と魔法を動かし続けた。
右手で署名欄を整え、左手で帳簿を繰り、後方では浮遊ペンが定型文を書き、頭上では書類が自動分類される。
事務室全体が、私を中心に高速回転する巨大な『全自動処理装置』と化していた。
(ああ……この感じ、懐かしい……!)
前世で、締切前の地獄をたった一人で整理し切った時の万能感。
私は本来、こういう作業が三度の飯より大好きなのだ。
「……楽しそうだな」
不意に、低い声が降ってきた。
ヒュッと息が止まる。
顔を上げると、いつの間にかすぐ傍にクライスが立っていた。
(ち、近い近い近い!! 足音しないの!? さすが凄腕騎士!?)
「た、楽しい、ですわ」
「書類仕事がか」
「はい。カオスに秩序をもたらすのは、わりと」
「変わっているな」
「よく言われます」
推しと会話した。生で。至近距離で。
しかも顔を上げたら、あの蒼い目とバッチリ視線が合った。
冷たい色なのに、底の方に微かな熱がある。直視すると心臓が爆発しそうだ。
私は慌てて視線を帳簿へ落とした。
その拍子に、手元のペン先がぶれ、インク瓶が倒れかける。
「あっ」
しまった、と思った瞬間。
スッ、と大きな手が伸びてきて、インク瓶を支えた。
「気をつけろ」
「……っ、あ、ありがとうございます……」
指先が、ほんの一瞬だけ触れた。
(――――ッッッ!!)
私の脳内で、ビッグバンが起きた。
(い、今、触れた!? えっ、待って! 推しの手!! 思ったより大きいし硬いし熱があるし何これ現実!?)
表情筋だけは死守した。だがたぶん、耳まで真っ赤になっている自信がある。
やめて、クライス様。お願いですからこれ以上観察しないでください。限界オタクが露呈してしまいます。
しかしクライスは特に追及することもなく、インク瓶を机へ戻しただけだった。
紳士か。知ってた。知ってたけど生で浴びると致命傷なのよ。
◇ ◇ ◇
気づけば窓の外はすっかり更け、最後の一束を片づけた私は、静かにペンを置いた。
「……終わりましたわ」
シン、と部屋が静まり返る。
事務担当騎士が震える手で最終箱を確認し、ローデン隊長が帳簿をめくって目を剥いた。
「……嘘だろ」
「未処理分、全部……」
「記載漏れも修正済み、重複整理済み、至急案件は別箱……!?」
「しかも台帳の差異まで洗い出されてるぞ!?」
私はそっと一枚の紙束を差し出した。
「ついでに、不自然な出費と申請数の一覧もまとめておきましたわ。いくつか内部の横領を疑った方がよさそうなものがあります」
「ついでの範囲じゃねえ!!」
ローデン隊長が絶叫する。
私は軽く肩を回し、クライスの方を向いた。
「以上で実務試験は終了ですわ。いかがでしょうか」
クライスはしばらく無言だった。
整然と片づいた事務室と、私を順に見ている。
まさか、まだ足りない? 追加で明朝までに予算再編成とか言われたらさすがに笑うわよ。
やがて、彼は静かに口を開いた。
「……ローデン」
「はっ」
「明日からでは遅い。今この場で、仮採用にしろ」
「副団長?」
「書類担当ではない。俺付きだ」
「…………は?」
「…………え?」
最後の間抜けな声は、私のものである。
俺付き。副団長付き。
つまり、それって――。
「せ、専属、ですの……?」
思わず震える声で尋ねると、クライスはいつもの無表情のまま、ただ一言だけ告げた。
「お前以上に使える人材を、他へ回す理由がない」
その瞬間。
私の脳内で、祝砲が百発同時に打ち上がった。
(推しの側仕えルート、完全開通しましたぁぁぁぁぁぁぁッッ!!)
歓喜で天に昇りそうになる私とは対照的に、クライスの視線はどこか鋭く、深く、まるで何かを測るように私へ向けられていた。
その意味を、この時の限界オタクな私はまだ知らない。
ただ一つ分かったのは、私の最高にハッピーな推し活人生が、ここから猛スピードで転がり始めるということだけだった。




