第27話 暗い牢獄での後悔
暗い。
ただひたすらに、暗く、冷たかった。
王宮北塔の最上階――いや、“最上階”などと聞こえのいいものではない。
そこは、大罪人を閉じ込めるための実質的な幽閉房だった。
石造りの壁は氷のように冷たく、狭い鉄格子の窓から差し込む光は細い。夜になれば、濃密な闇が床も壁も天井も、すべてまとめて呑み込んでしまう。
王太子だった頃のアーサーなら、こんな不快な場所へ一刻たりとも留まることに耐えられなかっただろう。
寒い。暗い。狭い。寝台は石のように硬い。洗面の湯はぬるい。食事は冷え切って不味い。
そして何より――誰も、彼の機嫌を取らない。
「……おい」
喉の渇きからくる掠れた声で呼んでも、鉄扉の向こうに控える看守は、必要最低限の事務的な返事しかしない。
「灯りを足せ。本が読めん」
「規定の時間外です」
「私は王太子だぞ」
「あなたは『元』王太子であり、現在は廃嫡され幽閉中の身でいらっしゃいます」
一切の感情を排した淡々としたその言葉に、アーサーはギリッと唇を噛んだ。
元、王太子。
その呼び方にも、まだ慣れない。慣れたくもない。
ほんの数日前まで、自分はこの国の絶対的な未来だった。誰もが頭を下げ、誰もが自分へ配慮し、誰もが傅いて道を開けていた。
……少なくとも、自分ではそう思っていた。
それが今ではどうだ。
硬い寝台と、冷えた石壁と、囚人用の最低限の食事だけが与えられ、外へ出ることも、人と会うことも許されない。
窓の向こうに小さく見える王都の空だけが、かろうじて自分を世界と繋いでいる。
「……ふざけるな」
吐き捨てた声は、湿った石壁に吸い込まれて虚しく消える。
誰も聞いていない。誰も恐れない。誰も、「殿下」とは呼ばない。
それが、アーサーの肥大化したプライドにとって、たまらなく屈辱だった。
◇ ◇ ◇
最初の二日は、まだ怒りが勝っていた。
自分を切り捨てた父王への怒り。
手のひらを返して自分を裁いた貴族たちへの怒り。
最後まで自分の保身しか考えず、泣き喚きながら平民へ落とされていったミレーヌへの苛立ち。
そして何より、自分をこんな場所へ追いやった全ての元凶として、ルシアの顔が頭に浮かんだ。
(あいつが……ッ)
ルシア・フォン・グランツ。
氷のように冷たい顔をした、可愛げのない公爵令嬢。
いつも完璧で、いつも口うるさくて、いつも自分にとって耳の痛い“正しい”ことばかり言ってくる女。
卒業夜会のあの日だって、そうだ。
あの場で大人しく泣いて許しを請えばよかったものを。あんな風に嘲笑って婚約破棄を受け入れ、王宮を飛び出して、むさ苦しい騎士団へ逃げ込んで――。
あいつのせいで、全てが狂った。
そう思っていた。少なくとも、最初の二日は。
けれど。
三日目になって、怒りだけではどうしても埋められない“絶対的な空白”が、じわじわと腹の底で膨らみ始めた。
その決定的なきっかけは、あまりにも些細なことだった。
「……まずい」
夕食のスープを一口飲んだ瞬間、アーサーは思わず顔をしかめた。
塩気が強すぎる。温度はぬるい。肉は筋張って硬い。それだけの話だ。
けれど、その“それだけ”が、妙に腹立たしかった。
なぜなら、以前の自分の食事には、こんな不快なことはただの一度もなかったからだ。
熱すぎず冷たすぎず、常に猫舌の自分に合わせた程よい温度で出されるスープ。
夜会続きで胃が疲れた翌日には、何も言わずとも味の濃すぎない、消化の良い献立。
長引く御前会議の前には、眠気を誘わない、しかし渋すぎない絶妙な茶。
そういう細かな気遣いが、自分の身の回りではいつも“勝手に完璧に整っていた”。
その瞬間。
アーサーの脳裏に、不意に一つの場面がフラッシュバックした。
まだ彼が幼かった頃。
朝の食卓で、彼が「今日は肉が重くて食べたくない」と何気なく我が儘を漏らした時のことだ。
翌日から、スッと献立が変わった。
その時は、宮廷料理人が王太子である自分の顔色を見て気を利かせたのだと思っていた。
だが、今なら分かる。違う。
あれは、多分――。
「……ルシア」
名を口にした途端、喉の奥が嫌な具合に詰まった。
そうだ。
あの女は、そういう自分の生活の細部に至るまで、すべてを見ていた。
アーサーが気づきもしないところで、料理人に指示を出し、侍従の動線を管理し、勝手に整え、勝手に負担を軽くし、勝手に“問題ない快適な状態”へと最適化していたのだ。
食事だけではない。
衣装もそうだ。書類も。茶も。時間も。室温も。
全部だ。
自分の人生の快適さのすべては、あの女の血の滲むような見えない計算(タスク管理)の上に成り立っていた。
「……ッ」
アーサーは湯気の消えかけた不味いスープの器を睨みつける。
認めたくない。絶対に認めたくはないのに、ここへ幽閉されてからというもの、そういう“昔は当然だった快適さ”の一つ一つが、ことごとく欠けているのだ。
夜の灯りが足りない。洗面の湯がぬるい。寝具の布地が硬い。茶が苦い。
そして、それらすべての不便さの裏に。
あの銀髪の令嬢の『冷たくも完璧な献身』の影が、見えない形で重なってくる。
◇ ◇ ◇
五日目。
書見台の上には、父王の許可した最低限の書物だけが置かれていた。
政治書、歴史書、そして『王宮実務の基礎手引き』。
まるで物覚えの悪い子どもの学び直しだ、とアーサーは最初、鼻で笑って床へ蹴り捨てた。
だが、暇を持て余して仕方なく一冊目を開き。
二冊目へ進み。
三冊目の途中で――彼はようやく、顔色を変えた。
「……何だ、これは」
王宮実務の決裁フロー。外交文書の基礎照合の手順。祭礼・視察時の予算優先順位付けのロジック。インフラ補修・警備・医務の案件振り分けの基準。
書かれていること自体は、そこまで難解ではない。
だが、問題はそこではなかった。
それらの“どれもこれも”へ、アーサーには見覚えがありすぎたのだ。
息を呑む。
この項目も。あの複雑な手続きの流れも。この法令の注記も。全部、見たことがある。
いや、見たことがあるどころではない。
何度も、自分の机の上へ置かれていた。
ルシアが『殿下は、こちらの三行だけご確認くださいませ』と差し出してきた完璧な要約や、すでに根回しが終わった状態の資料や、赤線の引かれた優先案件の中に、すべて組み込まれていたのだ。
「……」
ページをめくる指が、じわりと重く、冷たくなる。
これらは、本来。
国を統べる王太子自身が、頭に叩き込んでおくべき基礎中の基礎だったのか。
外交の順序も。祭礼の優先順位も。警備と補修の予算の兼ね合いも。医務局と騎士団の再編が、国家運営にどう連動して噛み合うかも。
全部。
全部、自分が把握しておくべきことで、その上で王太子として判断を下さなければならない類いのものだったのか。
なのに自分は、玉座の間で父王に何と言い放った?
『ルシアは婚約者として当然の補佐をしていただけだ』と。
“見やすくまとめておけ”
“細かい話は後にしろ。疲れている”
“要点だけ言え”
“まあ、お前が言うなら大丈夫なんだろう?”
自分は、そんな頭の空っぽな言葉ばかりをあの女に吐き捨てていたではないか。
「……ッ」
アーサーはバタンと書物を閉じた。
胸の奥が、吐き気を催すほど嫌な具合にざわつく。
怒りではない。焦りでもない。もっと、鈍く重い『自己嫌悪』という毒だ。
あの時、父王は言った。
『知らなかったこと自体が罪だ』と。
その言葉が、今さらになって頭の中でガンガンと鐘のように響く。
知らなかった。本当に、何も知らなかった。
ルシアが毎日何をしていたか。どれほどの睡眠時間を削って自分を支えていたか。
彼女という大黒柱を失うと、自分の無能さがどれほど露呈するか。
全部、知らなかった。
いや。
現実を見るのが怖くて、知ろうとしなかったのだ。
◇ ◇ ◇
七日目。
看守が、昼の食事と一緒に一枚の新聞めいた情報紙を置いていった。
王都の噂や、各地の動きを簡略にまとめたものらしい。
アーサーは最初、外の世界の動きなど興味もなくそれを脇へ寄せた。
だが、やることがない。結局、気まぐれに目を通した。
そして、数行目で手が完全に止まる。
「国境での大規模魔物暴走、第一騎士団主導で完全鎮圧」
「氷の副団長クライス・フェルド、地竜型の特級災厄個体と交戦」
「同行した令嬢ルシア・フォン・グランツ、兵站と後方支援を完璧に指揮。さらには『白銀の絶大なる殲滅魔法』で戦局を一変させ、地竜を一撃で消滅させる」
「……は?」
紙が、カサリと鳴った。
何度読み返しても、内容は変わらない。
ルシアが。
あの、自分の後ろで大人しく書類をめくっていたルシアが、過酷な国境遠征に同行し。
兵站と後方支援を現場で指揮し。
しかも、地竜型というとてつもない化け物を、魔法一撃で消し飛ばした?
「そんな馬鹿な……」
だが、それは玉座の間で既に父王からも聞かされていた事実だ。
信じた目の前の現実を直視したくなくて、どこかで老いぼれた執事の誇張だと思い込んでいた。
しかし今や、それは王都全体の真実として熱狂的に広がっている。
第一騎士団の英雄。
白銀の聖女。
騎士団の勝利を呼ぶ女神。
記事の端々に踊る、彼女を熱狂的に讃える単語。
そのどれもが、アーサーの神経を逆撫でし、プライドをズタズタに引き裂いた。
(あいつが……)
怒りが湧く。だが、今回はそれだけではなかった。
喉の奥が、カラカラに乾いていく。
第一騎士団という、武に生きる男たちの集団の中で。
女である彼女が評価され。感謝され。頼られ。しかも、女神として英雄扱いされている。
それはつまり。
ルシアが、自分という王太子がいなくとも、完全に“自分の足でやれている”ということだ。
いや、“やれている”どころではない。
自分の隣で都合のいい道具として扱われていた時よりずっと、のびのびと、生き生きと、本来の規格外の力を発揮している。
その事実が、アーサーにはどうしようもなく受け入れ難かった。
なぜなら、それはそのまま。
――ルシアの人生にとって、俺という存在は『足手まといの寄生虫』でしかなかった。
という、残酷すぎる絶対的真実に繋がるからだ。
「……違う」
アーサーは掠れた声で呟く。何が違うのか、自分でもよく分からないまま。
違う。そんなはずはない。
ルシアは、ずっと俺の婚約者だった。俺の王太子妃になるために育てられ、俺を裏で支えるのが存在意義だった。
それが、俺に捨てられた途端に、別の場所で美しく花開くなど。そんなこと、あっていいはずがない。俺のプライドが許さない。
なのに現実は、その否定したい形そのままに進んでいる。
アーサーは情報紙をギリッと握りしめた。紙がぐしゃりと歪む。
そして、その下段にあった短い一文が、決定的だった。
「王都の高位貴族家および他国使節館から、ルシア・フォン・グランツ嬢へ『次期正妻』としての複数の正式な縁談打診あり。引く手あまたの状態」
「……ッ」
息が止まる。
打診。正式。複数。正妻。
つまり、縁談だ。引き抜きだ。
他家が、他国が、世界中が、ルシアを欲しがっているのだ。俺がゴミのように捨てた女を。
その瞬間。
アーサーの胸の奥で、ひどく醜く、どす黒い感情がドロリと湧いた。
嫌だ。
そんなのは絶対に嫌だ。
あいつは、俺の――。
そこまで考えて、アーサーはピタリと止まった。
俺の、何だ?
婚約者?
違う。もう違う。自分が公衆の面前で破棄した。
便利な補佐?
もっと違う。とっくに失った。
王太子妃候補?
自分が廃嫡された今、もう何も与えられない。
では、何だ。
答えは出ない。出ないのに、喉の奥が焼けるように苦しい。
「……ルシア」
何度目か分からない名を、また暗い独房で口にする。
その響きは、以前よりずっと空虚で、情けなかった。
◇ ◇ ◇
十日目。
アーサーは、ようやく泣いた。
最初は怒りだった。次に苛立ち。その次に、悔しさ。
だが、どれも長くは続かなかった。
この部屋には、感情をぶつける相手がいない。喚いても、言い訳を叫んでも、石造りの壁と床が冷たく黙るだけだ。
そして逃げ場のない沈黙の中で、都合の良い思い出ばかりが浮かんでくる。
机の上へ綺麗に整えられて置かれた要約済み資料。
疲れた日に何も言わず、自分の負担が減るよう差し替えられていた会議予定。
猫舌の自分に合わせた絶妙な温度の茶。
文句を言えば淡々と返してきた、氷のような冷たい声。
それでも最後には、どんな無茶振りでも必ず間に合わせていたあの女の、細い背中。
ルシア。
いつもそこにいた。うるさいほど正しくて。冷たいほど完璧で。少しも自分に甘えた顔を見せずに。
当たり前みたいに、俺のすぐ斜め後ろにいた。
だから。
アーサーは、本当にそれが“当たり前”だと思い上がっていたのだ。
ずっといるものだと。
自分のために血を吐くように動くのが当然だと。
俺がどれだけ邪険に扱おうと、決して離れないと、勝手に決めつけていた。
第一騎士団のあの場でも。
俺が直接迎えに行って「戻れ」と命じれば、喜んで尻尾を振って戻ってくると、本気で思っていた。
どこまで愚かだったのか。
「は……はは……」
乾いた、惨めな笑いが漏れる。
どうしようもない。滑稽だ。今さらになって、ようやく真実が分かる。
ルシアは、最初から俺という男のために働いていたのではない。
国のために。公爵令嬢としての責任のために。
俺という無能を放っておけば国家が壊れるから、壊れないよう必死に裏で支えていただけだ。
そこに、俺個人への愛など、1ミクロンもなかった。
「……ッ」
その事実が、鋭い刃みたいに胸を深く抉った。
アーサーはゆっくりと両手で顔を覆う。
ルシアは、俺を愛していたのではない。
むしろ最後には、全騎士の前でハッキリと俺を嘲笑って言った。
――民と国のためですわ。殿下のためではありませんのよ。
あの時は怒りでまともに受け止められなかった言葉が、今は遅効性の毒のようにジワジワと胸を犯す。
では、自分は何だった?
ただ利用されていた?
違う。一方的に利用(搾取)していたのは自分の方だ。
彼女の価値に気づきもせず。感謝の言葉一つかけず。
当然みたいに彼女の有能さを吸い上げ、最後には別の女のために冤罪で切り捨てた。
「……俺は」
何だ。何だったのだ。
王太子だった?
もう違う。
未来の王だった?
違う。
ルシアの婚約者だった?
それも、もう二度と違う。
今の自分は。
暗い牢獄の中で、誰も呼びに来ず、誰にも必要とされず、初めて“失った宝の大きさ”を理解して泣いているだけの、惨めな男だ。
その完全なる自己認識が、ついにアーサーの最後の虚勢を粉々に砕いた。
「ッ、あ……」
喉がヒクつく。視界が滲む。
そして、そのまま。
ポタリ、と。
汚れた手の甲へ、涙が落ちた。
「……ッ、う……ぅ……」
止まらない。
怒りではない。癇癪でもない。
全てを自業自得で失った幼子のような、みっともない嗚咽が、石壁へ反響する。
「ルシア……ッ」
名を呼んでも、当然返事はない。
あの女はもう来ない。ここへ来る理由が、この世のどこにもない。
王宮へも戻らない。自分のもとへも戻らない。
今は第一騎士団で高く評価され、王にすら頭を下げられ、他家から望まれ、恐らくは――。
そこまで考えたところで、ふと、あの男の顔が頭をよぎった。
氷の副団長、クライス・フェルド。
無口で、不器用で、けれどルシアを完全に庇い、守り、あの本部前で俺に向けて『殺意』を放った男。
アーサーはそこで、ようやく絶望と共に理解する。
ルシアは、俺の隣では一度も見せなかった『心からの笑顔』を。
あの男のそばでは、もう見せているのかもしれない。
安心した顔。嬉しそうな顔。
自分の有能さを正当に評価され、心から役に立てていると感じる、満たされた顔。
それを想像した瞬間。
アーサーの胸の奥が、グシャリと音を立てて潰れた。
「……嫌だ……」
口から漏れたのは、あまりにも情けなく、身勝手な言葉だった。
だが、もう自分の感情を誤魔化せない。
嫌だった。
失うのが。他の男に奪われるのが。
いや、違う。
最初から、あいつは『俺のもの』ではなかったのだ。
それなのに、勝手に自分の所有物だと信じ込んでいた。それが一番、滑稽で惨めだった。
「……ッ、あぁぁ……ッ!!」
アーサーはとうとう、硬い寝台の上へ崩れ落ちて号泣した。
元王太子。廃嫡。幽閉。
ルシアの不在。王宮の混乱。他者からの高い評価。別の男の影。
全部が遅れて効いてきて、どうしようもなく重く、息ができない。
涙が止まらない。止める気力も、もうなかった。
石造りの暗い部屋の中。
誰も慰めず、誰も赦さず、誰も見向きもしないその孤独な場所で。
アーサーは初めて、自分がどれほどルシア・フォン・グランツという女に依存し、生かされていたのかを、骨の髄まで思い知ったのだった。
そして、ようやく理解する。
あの夜、己の勘違いで婚約破棄を宣言した瞬間に。
失ったのは『可愛げのない婚約者』などではなく。
自分を優秀な王太子らしく見せてくれていた、唯一にして最強の『命綱』だったのだと。
その絶対的な事実に気づいた時には、もう何もかも遅かった。
だからこそ、アーサーの流す涙には。
果てしない後悔と、惨めさと、取り返しのつかない己の愚かさしか、残っていなかったのである。




