第24話 崩壊する王宮と国王の帰還
国王レオニードが地方視察から王都へ帰還したのは、空が鉛色に曇る昼下がりだった。
本来であれば、王の帰還というものはもっと華やかで、もっと整然としているはずである。
正門前には列を揃えた近衛兵、無駄のない出迎え、手違い一つない報告動線。王宮全体が一つの巨大な機械のように、静かに、しかし完璧に噛み合って動くものだ。
……少なくとも、これまではそうだった。
だが、その日の王宮は明らかに異常だった。
「お、お待ちください陛下! そちらはまだ清掃が――」
「何だ、この廊下の荷の山は」
「し、至急の差し替え書類でして……!」
「なぜ通路へ無造作に積まれている」
「そ、それが、仕分けの優先順位がわからず……」
王宮西棟へ足を踏み入れた瞬間から、レオニードは深く眉を寄せていた。
廊下の端には未処理書類の箱が雪崩を起こしている。行き交う文官の顔色は過労で土気色になり、侍従たちの足取りはパニックを起こしたように落ち着かない。
本来なら王の目に入るはずのない細かな乱れ(インフラの崩壊)が、あちこちに露呈していた。
王とは、細部を見るものだ。
そしてレオニードは、細部の乱れから『全体の致命的な歪み』を嗅ぎ取ることに長けていた。
「……アーサーは?」
王が低く問う。
側近の老執事が、ひどく言葉を選びながら答えた。
「王太子殿下は、現在執務室に……『て』」
「“て”の後が濁ったな」
「……その、少々、立て込んでおられるご様子で」
「ほう」
レオニードはそれ以上は言わず、真っ直ぐに王太子執務室へ向かった。
扉の前には、明らかに疲労困憊の文官が二人。
王の姿を認めるなり、ビクゥッと青ざめて道を開けた。
「へ、陛下、お帰りなさいませ!」
「挨拶は後だ。開けろ」
重厚な扉が開く。
その瞬間。レオニードは、無言で室内の惨状を見渡した。
机の上には、地層のように積み上がる書類。
床には開封済みと未開封の束がゴミのように混在し、外交用の差し込み資料が中途半端に挟まり、国家の決裁印は無造作に転がされている。
壁際の小机には冷めきった茶器が放置され、窓辺には重要文書らしきものが半ば丸めて投げ出されていた。
そして、そのゴミ溜めの中心で。
「……父上?」
王太子アーサーが、見るからに寝不足と苛立ちを限界まで溜め込んだ顔で立ち上がる。
その隣には、彼にすがりつくようにして怯えた小動物めいた表情を作ったミレーヌ。
加えて、部屋の隅では文官たちが『死んだ魚のような目』で意味もなく資料を抱えていた。
スラム街よりもひどい有様だった。
レオニードはまず、無言で机の上に置かれた文書を一枚手に取る。次に別の束を一枚。さらに、窓辺の差し込み資料を一瞥する。
そのわずか十数秒で、彼は状況の“絶望的な大半”を正確に把握した。
「……アーサー」
「は、はい」
「隣国との不可侵条約更新の確認文書が、旧版と新版で混在しているな。なぜだ」
「……ッ」
「祭礼警備案と王都南門の交代表が、同じ『保留』の箱へ入っている。優先順位の概念は消滅したか?」
「そ、それは、文官どもが勝手に」
「橋梁補修要請に未処理印。医務局からの催促が三通放置。第一騎士団再編予算は差し戻しのまま、しかも理由欄が空欄(嫌がらせ)だ」
「…………」
アーサーの顔から一気に血の気が引く。
レオニードはゆっくりと視線を上げた。
「私が地方を回っている数週間の間に、王宮は随分と『無法地帯』になったようだな」
「ち、違います父上! これは一時的な混乱で――」
「一時的、だと」
レオニードの声は静かだった。
静かだからこそ、怒声よりも余計に怖い。
「では聞く。お前は今、この机の上にある案件のうち、どれを一番に片づけるべきか即答できるか」
「そ、それは……」
「できぬのだな」
「父上、私はただ、いくつか不運な事故が重なって」
「不運?」
国王の片眉が、ゆっくりと上がる。
「条約文の整合性不備も、祭礼警備の遅延も、国家インフラの補修案件の滞留も、すべて『不運』で片づくのか」
「…………」
「王宮の実務が“運”に左右される程度の代物なら、そもそもお前という王太子など不要だ」
アーサーは完全に黙り込んだ。
その時、隣で様子を窺っていたミレーヌが、空気を読まずにおずおずと口を開いた。
「あ、あの、陛下……」
「何だ」
「アーサー様は本当にお疲れで……。最近ずっと、ルシア様がしていたお仕事までご自分でなさっていて、それで少しだけ混乱してしまって……」
言い切った瞬間。
室内の空気が、絶対零度に凍りついた。
老執事が「終わった」という顔で目を閉じる。
文官たちが一斉に明後日の方向へ目を逸らす。
アーサーだけが「貴様余計なことを!」という顔でミレーヌを睨みつけた。
だが、もう遅い。
レオニードの鋭い視線が、ピタリと止まる。
「……今、何と言った」
ミレーヌは自分が致命的な失言をしたとも気づかず、むしろ“愛する人を庇っている健気な私”に酔ったまま続けた。
「ですから、ルシア様が今まで裏でなさっていた、書類の整理とか、要点のまとめとか、そういう『細かな雑用』が急になくなってしまって……」
「細かな雑用、だと」
レオニードが低く復唱する。
その凄みのある声音に、今度こそミレーヌも青ざめた。だが止まれない。
「え、ええ。でも大丈夫ですわ! アーサー様はきっとすぐに慣れますし、私も愛の力でお手伝いを――」
「黙れ」
国王の声が、重い刃のように鋭く落ちた。
ミレーヌがビクゥッと震え上がり、アーサーまでもが息を呑む。
レオニードはしばらく恐ろしい沈黙を保ち、それから部屋の隅に控えていた年配文官へ視線を向けた。
「説明しろ」
「……は」
「ルシア・フォン・グランツは、この王宮で、何をどこまで担っていた」
その問いに、年配文官は一瞬だけ迷った。
だが、ここで王太子を庇って誤魔化すことが、国家にとって最悪の選択だと理解していたのだろう。彼は深く一礼し、一切の感情を交えずに淡々と『事実』を答え始めた。
「王太子殿下のお目通し用資料の事前整理、優先順位付け、各省庁提出文書の整合性照合、外交草案の差分確認と修正、国家予算案の再計算と調整、祭礼・視察に伴う下準備、各部署からの照会内容の即時返答、王立学園行事日程との調整……」
「それだけか」
「いえ、まだございます」
文官は砂を噛むような乾いた声で続ける。
「騎士団関連の参考資料抽出、橋梁補修や水利案件の現地調査と下調べ、医務局要請のトリアージ、陳情書の分類、他国使節来訪時の席次補助案、贈答品目録の再点検と在庫管理、御前会議前の論点整理なども」
「……」
「また、それらの多くは殿下のお名前ではなく、裏方としてルシア様個人の裁量と人脈で『事前処理』されておりました」
沈黙。
レオニードは、ピクリとも表情を変えなかった。
だが、その沈黙の重圧で、室内の空気が物理的に押しつぶされそうになる。
やがて国王は、静かに、氷のような目でアーサーを見た。
「お前は」
「……ッ」
「今、聞いた内容の半分でも、自分が把握していたと言えるか」
「父上、私は……」
「言えるか」
「…………」
「言えぬのだな」
アーサーは一切言い返せなかった。
だが、それでもまだ、自分のちっぽけなプライドを守ろうとしたらしい。
「ですが父上、ルシアは婚約者として当然の補佐をしていただけです!」
「当然、だと」
レオニードの目が、ほんのわずかに眇められる。
「王太子本人が把握し、決断すべき案件の整理と優先判断を、一介の令嬢がすべて肩代わりして国政を回すのが『当然』だと?」
「そ、それはあくまで補佐であって」
「補佐の範囲を遥かに超えている」
「……ッ」
「そしてその『異常な献身』を、お前は理解も感謝もせず、ただ“当然の権利”だと思い上がり搾取していた」
「違います、私は」
「違わぬ」
短い、決定的な断定だった。
その重みだけで、アーサーの言い訳は完全にへし折られた。
◇ ◇ ◇
だが、王宮にとって真に致命的だったのは、ここからだった。
レオニードは老執事から別の報告書束を受け取る。
地方視察中に急ぎまとめられた、王都側の『最新の混乱報告』らしい。
「不可侵条約更新、隣国からの不信により遅延寸前」
「祭礼警備再編、未確定により貴族からクレーム多数」
「王都インフラ補修案件、滞留による物理的被害発生」
「宮務省管轄の納入業者の不正発覚、第一騎士団側で独自に摘発・処理」
「国境付近・大規模魔物暴走、第一騎士団主導で鎮圧」
そこまで読み上げたところで、国王の手が止まる。
「……第一騎士団主導、だと」
老執事が静かに答える。
「はい。しかも現地からの正式な報告によれば、国境遠征において兵站・後方支援を完璧に立て直した中心人物が――」
「言わなくてよい」
レオニードが低く遮る。
「名前は、もう分かる」
アーサーのこめかみに、嫌な汗がじわりと浮かぶ。
国王はそのまま、続きを読み上げた。
「“地竜型の特級災厄個体出現。第一騎士団副団長クライス・フェルド負傷。――直後、ルシア・フォン・グランツによる『高位殲滅魔法』により、当該脅威を一撃で完全消滅”」
「…………は?」
間の抜けた声を漏らしたのは、アーサーだった。
ミレーヌまで「えっ?」と目を丸くしている。
だがレオニードはそこで初めて、明確に驚愕の表情で眉をひそめた。
「地竜型を? 魔法で?」
「はい」
老執事が答える。
「現地駐屯隊と第一騎士団の双方から、寸分違わぬ一致した報告が上がっております。山の一部が空間ごと抉り取られたと」
「……高位殲滅魔法、か」
「グランツ公爵家の王家に次ぐ血筋を思えば、あり得ぬ話ではないかと」
「あり得ぬ話ではない。だが、一個人が扱える火力の話でもないな」
国王は報告書を静かに机へ置いた。
その鋭い目が、王太子とミレーヌを順に射抜く。
「つまり、お前たちは」
「……」
「書類整理ひとつでも王宮を回せなくなるほど『超有能な令嬢』を」
「……ッ」
「下劣な冤罪で公衆の面前で切り捨て」
「……」
「その結果、第一騎士団(武闘派)の懐へ、国家の心臓部を回せる『最高峰の実務担当』兼『戦略兵器級の魔法戦力』を、丸ごとタダでくれてやったというわけか」
誰も答えない。
答えられるはずがない。何一つ、反論のしようがない完全な事実だからだ。
レオニードは、ふう、と深く息を吐いた。
「……愚かだな」
その一言は、もはや怒りや叱責というより、心の底から呆れ果てた響きに近かった。
アーサーが震える声で言う。
「父上……私は、知らなかったのです」
「そうだろうな」
「ルシアがそこまでの力を持っていたなど……」
「だからどうした」
レオニードは冷然と切り捨てる。
「知らなかったこと自体が、為政者としての罪だ」
「……ッ」
「お前は王になる立場だ。自分のそばで何が、誰が、どのように血を流して国を支えているかを把握していない時点で、トップとして失格だ」
その“失格”という響きに、アーサーの顔色が変わる。
だが国王は止まらない。
「さらに言えば、証拠もない冤罪を用いての婚約破棄、公の場での断罪、そして他部署への戦力流出」
レオニードは一本一本、棺桶に釘を打つように言った。
「これはもはや痴話喧嘩ではない。国家規模の特大の損失だ」
「父上!」
アーサーが叫ぶ。
「私はただ、ミレーヌを陰湿な虐めから守ろうと――」
「事実確認もせずにか」
「……」
「己の浅薄な感情で判断し、政務を壊し、外交を危うくし、騎士団の足を引っ張り、挙げ句の果てに国の最高戦力を外へ追いやった」
「外ではありません!」
ミレーヌが反射的に叫ぶ。
「ルシア様はそんな、敵に回るような方では――」
「黙れ」
今度は、国王の一言でミレーヌの言葉が完全に凍りついた。
レオニードは静かに、しかしハッキリと告げる。
「王宮(中枢)から自ら手放した有能者を、こちらへ戻せぬ時点で、それはもう我々にとってはコントロール不能な“外部の人間”だ」
「……ッ」
事務室の奥で、誰かがヒュッと息を呑んだ。
そう。国王は今、ハッキリと認識したのだ。
ルシア・フォン・グランツは、もう王太子の便利な婚約者候補ではない。王宮の都合よく使える裏方でもない。
今は第一騎士団の一員であり、別の場所で強大な力を発揮している“独立した有能者”なのだと。
そしてその損失は、王宮にとって想像を絶するほど大きい。
◇ ◇ ◇
その時、さらにアーサーへトドメを刺すように、新たな報告が届いた。
「失礼いたします!」
若い書記官が血相を変えて飛び込んでくる。
「陛下! たった今、王都高位貴族家数家より急ぎの照会が!」
「内容は」
「る、ルシア・フォン・グランツ様への『正式な縁談』と、『高待遇での雇用打診』に関するものです! 他国使節館経由の申し入れもすでに三十件を超えております!」
「ほう……」
レオニードの目が、わずかに細まる。
老執事が、静かに補足する。
「国境遠征での圧倒的な戦果の報告が回り始めたのでしょう。ルシア様という“最強の兵站・戦略兵器”の真の価値に、皆が一斉に気づき群がったのかと」
「今さらか。ハイエナどもめ」
国王は吐き捨てるように言った。
だが、アーサーにとってはその一報すら青天の霹靂だったらしい。
「縁談……?」
「はい」
書記官が青ざめながら答える。
「しかも、かなり高位の家ばかりで……。“単なる側仕えなどではなく、次期当主の『正妻』としてお迎えしたい”との熱烈な文言も多数……」
「正妻、だと……」
アーサーの顔が、見る間に醜く歪む。
その顔を見て、レオニードは初めて、ほんの少しだけ冷ややかな嘲笑を浮かべた。
「どうした」
「……」
「ようやく気づいたか」
「父上、私は……」
「お前は“私が命じれば、泣いて当然自分のもとへ戻る”とでも思い上がっていたのだろう」
「……ッ」
「だが現実を見ろ。今や、国中がその女を喉から手が出るほど欲しがり、取り合っている」
「……」
アーサーは、完全に言葉を失った。
国王は淡々と事実を突きつける。
「当然だ。実務に優れ、魔力も規格外、家柄も申し分ない。しかも今は、バカな男のおかげで『婚約者不在のフリー』だ」
「父上!」
「何だ」
「ルシアは……ルシアは、私のものだ!」
「違う」
一刀両断だった。
「もう、お前のものではない」
その言葉が落ちた瞬間、アーサーの肩が目に見えてガクンと揺れた。
ああ、と老執事は心の中で思った。
ようやく、そこなのだと。
王太子は今、初めて。
ルシアを“自分に従属する便利な補佐”ではなく、“他人が欲しがる価値ある女”として見たのだ。
しかもその失ったものが、他者からはとてつもなく高く評価されていると知って、自分の所有物が奪われるような、醜い焦りと執着を覚え始めた。
だが、遅い。
あまりにも遅すぎる。
◇ ◇ ◇
レオニードはゆっくりと立ち上がった。
「もうよい」
「父上……!」
「明朝、玉座の間を開く」
室内の空気が完全に凍る。
「関係者全員を集めろ」
「……関係者、ですか?」
年配文官が恐る恐る問い返す。
国王は冷然と言った。
「王太子アーサー」
「……ッ」
「ミレーヌ・バルセ男爵令嬢」
「ひッ」
「婚約破棄時の嘘の証言に関与した学園関係者、王宮文官、書記官。そして納入不正案件を握りつぶしていた宮務省のバシュレル伯爵ら」
「は、はい……!」
「さらに」
国王は一拍置いた。
「グランツ公爵も呼べ」
「承知いたしました」
玉座の間。
関係者全員の強制招集。
その単語の並びだけで、室内の誰もが理解した。
これは、ただの身内の叱責では終わらない。
完全なる『公開裁判(断罪)』だ。
アーサーが一歩踏み出す。
「父上、待ってください! これは誤解で――」
「誤解?」
レオニードは振り返りもせず、扉へ向かいながら言った。
「ならば明日、その玉座の間で全て自らの口で潔白を証明すればよい」
「……ッ」
「お前が本当に正しいのなら、誰も困るまい」
「……」
返せる言葉は、もう一つもなかった。
ミレーヌは泣き出しそうな顔で侍女へ縋りつき、文官たちは蒼白になりながら一斉に死に物狂いで動き始める。
書類の準備、証言の裏取り、関係者の強制招集。
王宮全体が、今度は“生き残るため”の別の意味で騒がしくなった。
だがその騒ぎの中心で、レオニードだけはひどく静かだった。
彼は窓の外を見た。王都の空。
その向こう、第一騎士団の本部がある方向を。
そしてそこにいる、規格外の銀髪の令嬢のことを。
「……一度、直接会わねばならんな」
誰にも聞こえないような声で、国王は呟いた。
国家規模の損失。
その意味を、彼はもう正確に理解している。
だが同時に。まだ終わっていない。
明日。
玉座の間で、全ての嘘が暴かれる。
王太子の致命的な失政も。
ミレーヌの浅薄な虚言も。
ルシアへの理不尽な冤罪も。
そして、この王宮全体がどれほど一人の令嬢の自己犠牲(サビ残)へ依存しきっていたのかという、あまりにも情けない現実も。
そうして。
崩壊しかけた王宮は、ようやく本当の意味で、自らの腐った膿を裁く『ざまぁの総仕上げ』の時を迎えようとしていたのである。




