第22話 帰還、そして引き抜きラッシュ
大規模魔物討伐遠征の三日目。
地竜型という最悪の特級脅威を物理的に消滅させたことで、戦場の空気は目に見えて変わっていた。
あれほど狂乱して押し寄せていた魔物の群れは、恐怖の根源たる主導個体を失った途端に完全に統率を失い、ただの“数の多いだけの烏合の衆”へと成り下がった。
厄介であることに変わりはない。けれど、絶望的ではない。
第一騎士団と現地駐屯隊は、夜明けから慎重に残存群れを押し返し、国境防衛線の再構築へ入っていた。
負傷者は、あの規模のスタンピードとしては奇跡的に少ない。補給のパイプも完璧に回っている。
そして何より、現場の士気が全く違った。
「地竜型を落としたんだぞ俺たち……」
「いや、落としたっていうか、ルシア様が一撃で消し飛ばしたんだよな……」
「森ごと抉れて空間が消滅したんだよな……?」
「俺たち、神話の目撃者になっちまったのか……?」
朝の補給台近くでは、現地駐屯隊の騎士たちまでもが、遠い目で現実逃避するようにそんなことを呟いていた。
分かる。言いたいことは分かる。
私だって一晩寝てもまだ「昨日の私、ちょっとリミッター外しすぎてしまいましたわね……」という若干の反省はあるのだから。
ただし、それとこれとは別問題である。
「副団長、お薬ですわ」
「……またか」
「またです」
私はニッコリと、一切の反論を許さない微笑みを浮かべた。
「あんな大怪我を負っておきながら“もう動ける”などと宣う方には、これくらい徹底的な管理が当然です」
「過保護ではないか」
「適正ですわ」
クライスは、天幕の前に置かれた簡易椅子へ座ったまま、無言で特製の薬草を煎じた湯呑みを受け取った。
昨夜のあの『天幕でのお説教(密着)』以来、私たちの間には妙な静けさがある。
気まずい、というのとは少し違う。
むしろ、何か一つ明確な線を越えてしまった後の、どう距離感を測っていいか分からない甘い静けさだ。
防音天幕の中での密着。抱擁。「俺のせいでお前が死ぬかと思って冷えた」という本音。そして、あまりにも近すぎた距離。
(ッ……だめ、思い出しただけで死にますわ)
あれを脳内でリプレイするだけで、今でも心臓がバグったような音を立てる。
立てるのだけれど、今はまだ遠征の任務中だ。私は鉄の理性(オタクの意地)でそれを精神の奥底へ押し込め、全力で“有能でクールな側仕え”を演じていた。
……多分、耳まで真っ赤になっているから演じきれてはいないのだけれど。
「副団長」
「何だ」
「本日は絶対に、前線へ出すぎないでくださいまし」
「昨日ほどの脅威はもういない」
「そういう問題ではございません。傷口が開いてまた血を流すようなことがあれば、私が本気で怒りますわよ」
「もう一生分怒られた気がするが」
「足りませんでしたか?」
「十分だ」
短いやり取り。
それだけなのに、近くで警備に当たっていた若い騎士たちが、なぜか揃って微妙に生温かい顔をしていた。
「何ですの」
「い、いえ……」
若い騎士が気まずそうに目を逸らす。
「何というか……あの氷の副団長が、ちゃんと言うこと聞いて座ってるなって……」
「失血しているのだから座らせますわ」
「ルシア様が命じると、あの人が本当に大人しく座るんですね……」
「必要だからですわ」
「そうなんですけど、何かこう……完全に尻に敷かれ……いや何でもないです」
何かこう、何ですの。気になるではありませんか。
だが、その言葉の続きを言う前に、ローデン隊長がこちらへ歩いてきた。
「副団長、北側掃討の最終報告を」
「どうだ」
「主だった群れは完全に崩れました。あとは散った個体の追い込みと残敵処理だけです」
ローデン隊長はそこで、チラリと私を見た。
「ルシア様の完璧な補給案もバッチリ効いてます。現地駐屯隊の連中まで、“あの銀髪の女神(補給官)をうちの領地へ貸してくれ”って本気で頭下げて言い始めましたよ」
「貸しませんわ」
私は即答した。
「私は第一騎士団(推し)の専属ですもの」
「ははッ、頼もしいなあ」
その何でもないやり取りの横で。
クライスの手が、湯呑みを持つ動きをほんの一瞬だけピタリと止めたのを、私は見逃さなかった。
……また、ですわね。
昨夜の焚き火の前でも、似たようなことがあった。
若い騎士たちへ私が笑い返した時。「皆様が素直で可愛らしい」と言った時。
あの時と同じ、ほんのわずかな不機嫌さを含んだ硬さ。
気のせいかもしれない。けれど、気のせいにしておくには、ちょっとばかり頻度が高すぎる。
(……何ですの、もう。心臓に悪いですわ)
ほんの少しだけ胸がザワついた。
だが、それを深く考える前に、前線から戻った団長の号令が飛ぶ。
「本隊、午前中で防衛線再編を終える! 昼には王都へ向けて撤収準備だ!」
「はッ!」
ざわめいていた野営地が、一斉に帰還へ向けて動き出した。
◇ ◇ ◇
結局、遠征隊が王都へ戻ったのは、その翌日の昼前だった。
国境防衛線は完璧に立て直され、スタンピードは完全に霧散。現地駐屯隊と交代部隊へ引き継ぎを済ませた上で、第一騎士団は堂々たる凱旋を果たしたのである。
ただし、その“凱旋”は、私の想像していたよりずっと大袈裟だった。
「第一騎士団の帰還だ!」
「国境を守り抜いた英雄たちだぞ!」
「地竜型をたった一撃で退けたって聞いたぞ!」
「神の怒りみたいな白い光が空を割ったって本当か!?」
王都東門前には、出迎えの市民が予想の十倍以上集まっていた。
早馬の伝令が先に入っていたのだろう。小規模な歓声どころではない。もはや国家を挙げての祝賀パレード状態である。
しかも、その熱狂の中で時折ハッキリと聞こえるのだ。
大変よろしくない単語が。
「“白銀の聖女様”はどこだ!?」
「ドラゴンを討ち滅ぼした『最強の令嬢』ってどの方!?」
「副団長の隣にいるあの方では!?」
私は思わず、目立たないように外套の襟元を深く持ち上げた。
やめてくださいまし。そういうアイドルみたいな注目の浴び方は一切求めておりませんの。
私はただ、推しの後方支援を完璧にこなし、ついでに推しを危機から物理で守っただけで――。
……いえ、改めて言葉に並べると、だいぶ国史に残りそうな大事件ですわね。
「ルシア様、完全に英雄として噂になってますね」
補給車の横で、若い騎士がヒソヒソと面白そうに言う。
「なってますわね……」
「“白銀の聖女”はちょっと中二病っぽくて格好いいですけど」
「そんな格好よさは微塵も求めておりません」
「えッ、そうなんですか?」
「私は一生、副団長付きの目立たない側仕えで結構ですわ」
「それを『結構』と本気で思ってる時点で、だいぶメンタルがバグってますよね」
本当に失礼な若手ですこと。
だが、そうこうしているうちに、無事に第一騎士団本部へ到着してしまった。
私はいつもの日常に戻り、副団長室の整えと負傷報告の整理へ入るつもりでいた。
いたのだが。
「……何ですの、これ」
本部事務室へ足を踏み入れた瞬間、私は石のように立ち止まった。
机の上に、山ができていた。
いや、正確には。
『手紙の山』である。
封蝋つきのやたらと上質な書簡。王都の特権貴族らしい重厚な紋章入りの封筒。見たことのない外国様式の豪華な封書まで混ざっている。
しかも一つの机では収まりきらず、二つ、三つと山脈を形成していた。
事務担当の眼鏡騎士が、徹夜明けのような非常に疲れた顔でこちらを見る。
「ルシア様……」
「……何かしら、この紙屑の山は」
「全部、あなた宛てです」
「全部?」
「全部です」
私はしばらくその場でフリーズした。
全部? この山が? 私宛て?
いや、待ちなさい。多すぎるでしょう。どう考えても多すぎる。私、前世でもこんなにラブレター(?)もらったことありませんわよ。
「内訳は」
私はピクピク引きつる頬をどうにか抑えながら聞いた。
眼鏡騎士は震える手で集計リストをめくる。
「王都の高位貴族家からの『お茶会』という名目の招待状が、二十七通」
「二十七」
「地方有力貴族からの『ぜひ一度ご面会を』という要望が、十四通」
「十四」
「他国使節館経由の『我が国での好待遇をお約束する』という打診が、六通」
「他国まで」
「あと、内容確認済みのものだけでも“縁談に準ずる熱烈な申し入れ”が……」
彼はそこで一瞬言いよどみ、
「現在、三十一件です」
「…………」
事務室が、シンと静まり返った。
近くにいた若い騎士が、ポツリと呟く。
「さんじゅういっけん……」
「やめてくださいまし、絶望の数字を復唱しないで」
私はドサッ、と机へ手をついた。
ちょっと待ってほしい。多い。あまりにも多すぎる。
なぜこんなことになっているのか。理由は、まあ、痛いほど分からなくもない。
国境での圧倒的な戦果。ドラゴンクラスを一撃で消し飛ばしたという規格外の武力。
補給と実務を完璧に回すチート級の有能さ。
元・王太子の婚約者という、最高峰の教育を受けた肩書き。
そこへグランツ公爵家の血筋と、未婚の若い令嬢という条件までトリプルで乗る。
……うん。
貴族社会における『市場価値』としては、とんでもないストップ高になっているのだろう。
王太子が手放したフリーの超優良物件だ、ハイエナどもが群がらないわけがない。
だが。
「いりませんわ」
私は0秒で即答した。
事務室にいた騎士たちが、揃って目をパチクリと瞬く。
「えッ」
「全部?」
「全部ですわ」
私はキッパリと言い放った。
「私は、他家の人間に都合よく拾われるつもりなど微塵もございませんもの」
「拾われるって……」
若い騎士が困惑したように言う。
「いや、内容的にはそういう『雇う』って感じじゃないと思うんですが」
「どういう感じですの?」
「その……見たところ、“我が家の次期当主の妻としてぜひお迎えしたい”とか、“相応しき地位と財産をご用意します”とか、“正妻として”とか……」
「正妻?」
私は小首を傾げた。
何だか、果てしなく面倒くさくて嫌な予感のする単語ですわね。
すると眼鏡騎士が、小さく咳払いした。
「要するに、すべて『婚姻を前提としたガチの引き抜き』です」
「…………」
「これだけ優秀すぎる公爵令嬢が、しかも今はフリー(独身)ですからね」
「フリーではありませんわ」
私は即座に、不機嫌に訂正した。
「私は『副団長付きの専属』ですもの」
「いや、そういう意味(職業)じゃないんですが……」
またしても事務室が、微妙な空気に包まれた。
だが、私はそれどころではなかった。
婚姻前提。正妻。引き抜き。
つまりこれ、要は全部、“うちの馬鹿息子の嫁に来て、家を裏から完璧に回してくれ”という都合のいい話では?
(はああああああァ!? 冗談ではありませんわ!)
内心でちゃぶ台をひっくり返す。
いりませんわよそんなもの! バカ王太子のサビ残地獄はもう懲り懲りです!
私はただ、推し(クライス様)の側仕えとして最適な環境を整え、合法的に尊いお姿を拝みたいだけなのに!
なぜそこで“どこかの家の奥方候補”にならねばならないのか! 推し活の邪魔をしないで!
「すべて断ります」
「まだ一通も読んでませんけど!?」
ローデン隊長がちょうど事務室へ入ってきて、開口一番そうツッコんだ。
「内容確認くらいしたらどうです? もしかしたら大金星があるかも……」
「不要ですわ」
「即答すぎるだろ……」
「だって、私が副団長の傍(聖域)を離れる理由が、この世のどこに一つもございませんもの」
「ルシア様、それ今この大勢いる場で言い切るの、マジですごい(愛が重い)ですね」
失礼ですわね。事実を述べているだけですのに。
その時だった。
「……何の話だ」
絶対零度の低い声が、事務室の空気を真っ二つに切った。
振り返れば、負傷明けにもかかわらずいつも通りの無表情を貼りつけたクライスが立っている。どうやら団長への遠征報告を終えて戻ってきたらしい。
私はホッと息をついた。
推しだ。推しが来た。マイナスイオン。
ならばこのわけの分からない紙屑(縁談)の山も、何だか急にどうでもよく――。
「副団長!」
空気を読まない若い騎士が、元気よく敬礼した。
「ルシア様に、国中から縁談が殺到してます!」
「お黙りなさいッ!!」
私の制止は、盛大に遅かった。
事務室が、完全に静まる。
クライスの蒼い視線が、ゆっくりと机上の書簡の山へ向く。
それから、私へ。
そしてまた、山へ。
空気が、ほんの少しだけ、いや劇的に氷点下まで冷えた気がした。
「……縁談」
クライスが、地を這うような声で復唱する。
「いえ、あの、その」
私は珍しく言葉を探した。
「私としてはまったく不要ですので、見ずに全部お断りするつもりでして――」
「他国使節館からも来てるんですよ!」
若い騎士が、無邪気に追撃する。
「王都貴族だけじゃなくて、高位家からの『正妻』の申し入れが山ほど!」
「だからお黙りなさいって言っているでしょうがァ!?」
だが状況はもう最悪だった。
ローデン隊長が、明らかに面白がる顔を隠しもせず言う。
「いやあ、当然といえば当然ですよねえ。ドラゴンクラスを一撃で消し飛ばす圧倒的魔法力、補給も会計も交渉も完璧、おまけに公爵令嬢と来た。そりゃ“単なる側仕え”じゃなくて“正妻”として喉から手が出るほど欲しがる家は山ほど出るでしょうよ」
「やめてくださいましその言い方! 私は商品ではありません!」
「何でです? 選び放題ですよ?」
「嫌ですわよ! 私はここ(推しの隣)がいいんです!」
「そこまで嫌がるのも珍しいな……」
珍しくない。オタクにとっては極めて当然である。現場(現場)を離れたら死ぬ。
だが、その会話の間にも、事務室の温度はジワジワと下がっていく。
原因は明白だ。
クライスが、黙っている。
それが何より怖い。
私は恐る恐る視線を向けた。
クライスは、机の上の分厚い一通をスッと手に取っていた。
封蝋を見て、差出人の家柄を読む。
その横顔はいつも通り無表情だ。無表情なのだが。
「…………」
なんでしょう。ひどく嫌な予感しかしませんわね。
その手元、少しピキッと紙が歪んでません?
「副団長?」
私が声をかけると、クライスはゆっくりと封書を乱暴に元の山へ戻した。
「全部か」
「はい?」
「この山の全部、お前宛ての縁談か」
「そ、そのようですわ」
「……そうか」
それだけ。
たったそれだけなのに、なぜだか事務室の空気が完全に凍りついた。
若い騎士たちが揃って「あっ、これマズい空乱だ」と察して口をつぐみ、ローデン隊長ですら片眉を上げて「おや?」という顔をしている。
クライスは、そのまま無言で踵を返した。
「副団長?」
私は反射で呼び止める。
彼は扉の前で足を止めたが、振り返らない。
「討伐の報告書を持って来い」
「え、ええ、もちろんですわ」
「今すぐだ」
「はい」
それだけ言って、彼は足早に副団長室へ戻っていった。
残された事務室は、数秒ほどシンと静まり返っていた。
やがて、若い騎士がヒソヒソと怯えたように囁く。
「……何か、副団長、めちゃくちゃ怒ってませんでした?」
「分かっておりますわ」
私は即答した。
「ちょっと空気が冷たかったですわよね」
「ちょっと……?」
ローデン隊長が、なんとも言えない呆れた顔でこちらを見た。
「ルシア様」
「何ですの」
「あんた、本当に分かってないんだな」
「何をです?」
「……いや、いい。今は言わないでおく」
ローデン隊長はそこで口をつぐみ、それから肩をすくめた。
「とりあえず、その山」
彼は机の上の書簡の山を顎で示す。
「全部まとめて、副団長室へ持って行きなさい」
「は?」
「今の機嫌の悪い副団長に、変に隠して後から知られる方がよっぽど面倒(命に関わる)です」
「ですが」
「いいから持ってけ」
眼鏡騎士までもが深く頷く。
「それが賢明かと……我々の命のためにも」
「なぜ皆様、そんなに真顔なのです……?」
「原因がルシア様だからです」
「意味が分かりませんわ」
分からないものは分からない。
だが、確かに。今の明らかに不機嫌なクライス様をそのままにしておくのは、何となく、ものすごくマズい気もする。
私は大きく息を吐き、机上の書簡の山をドサッと抱え上げた。
重い。物理的にも重いが、意味合いとしても大変重い。
(もう……何なんですの、これ……!)
私はただ、推しの側仕えでいたいだけなのに。
どうして世間はそう、勝手に“正妻候補”などという方向へ話を転がすのか。
意味が分からないまま、私は副団長室へ向かう。
腕の中には、山ほどの他家からの縁談。
その先には、多分ちょっと(かなり)機嫌のよろしくない推し。
……ものすごく、嫌な予感がした。
そして、その予感はきっと。
次の瞬間、扉を開けた途端に確信へ変わるのだろう。
なぜなら限界オタクの私は、まだ知らないのだから。
あの静かで無口な氷の騎士の中で、今まさに。
とても分かりやすくて、とても厄介で、ひどく重たい『独占欲』が、音を立てて限界まで膨れ上がり始めていることを。




