第19話 絶体絶命の危機と、推しへの脅威
遠征二日目の朝は、驚くほど静かに始まった。
昨夜、あれほど慌ただしく完璧に整えた野営地だったが、朝の空気は一切乱れていない。
火は必要な分だけ熾され、温水はすでに循環し、簡易朝食も無駄のない動線で配布の流れができている。
熟睡できた者たちの顔色は、正直なものだ。
「……身体が、信じられないくらい軽い」
「昨日あれだけぬかるみを歩いたのに、まだ脚のスタミナが完全に残ってるぞ」
「野営でこれって、あり得るんだな……」
温かい朝食の器を手にした騎士たちが、口々にそんなことを言う。
私は表向きは『涼しい顔の特級補給官』として頷きながら、内心では小さくガッツポーズをキメていた。
よし。初日は大成功だ。
この調子なら、今日の本隊行軍と前線接敵にも、十分な余力(HP/MP)を持ち込める。
……とはいえ。
(油断は禁物ですわ)
私は器を片づけるふりをしながら、広域地図と周辺地形を脳内で高速でなぞった。
今日には、国境の防衛線へ合流する。
そして、そこから先が本番だ。
スタンピードの中核はまだ崩れていない。散った魔物の群れを押し返しつつ、本命の密度が最も高い『危険地帯』へ入ることになる。
ゲームの記憶では、この先の戦況は苛烈を極めた。
補給の乱れ、足場の悪さ、夜間の冷え込み、部隊間連携の遅延。それらの悪条件が少しずつデバフとして積み重なって、隠しキャラであるクライス様は一人で無理を重ね、そして――消えない深手を負う。
けれど今回は違う。絶対に違わせる。
補給も、休息も、動線も、昨日までで完璧に整えた。
ならば、あの理不尽な負傷イベントごと、力技で回避できる可能性は高いはずだ。
「ルシア」
低い声に振り向くと、クライスがすでに軍馬の支度を終えて立っていた。
朝の冷えた空気の中でも、その怜冽な横顔はやはり絵画のように鋭く美しい。
「はい」
「出るぞ」
「かしこまりましたわ」
私は外套を整え、補給のチェックリストを抱え直した。
その際、ほんの少しだけ視線が合う。
昨夜の、あの「他の男と話すな」と言わんばかりの微妙な不機嫌さ(硬さ)は消えていた。少なくとも表面上は、いつも通りの氷の副団長だ。
……そういう無自覚なところが、逆にタチが悪くて気になりますのよね。
と、思わなくもないが、今はオタクの深読みよりも任務優先である。
◇ ◇ ◇
国境防衛線へ到着した時、空気は一変した。
そこはもはや“遠征先”ではなく、血の匂いが漂う“戦場の最前線”だった。
急ごしらえの防壁。魔物の爪で深く削れた土嚢。
疲労と絶望の滲んだ他領の騎士たち。次々と運び込まれる血まみれの負傷者。
遠くの森から断続的に響く不気味な咆哮と、地鳴りのような震動。
第一騎士団の到着に、現地指揮官らしき男がすがりつくように駆け寄ってくる。
「お待ちしておりました! 先遣隊だけでは、西側の群れを押し返しきれません! 中型が多数混じり、しかも飛行型まで空を制圧し始めています!」
「主群の位置は」
団長が冷静に問う。
「森沿いから南へ流れております! ただ、妙なのです。群れのまとまり方が不自然で……」
「不自然?」
ローデン隊長が眉をひそめた。
「まるで、後ろの『誰か』に追われているみたいなんです。恐怖で押し出されるように、パニックを起こして外へ外へ溢れ出してくる……!」
その言葉に、私の胸の奥で、警鐘がガンガンと鳴り響いた。
追われているように。
押し出されるように。
(まさか……)
まだ確証はない。だが、前世のゲーム知識が最悪の可能性を告げている。
スタンピードの中でも、特に最悪のパターン。
群れの後ろに、“規格外の本命”が控えている時の、典型的な魔物の動きだ。
私はすぐに補給車の位置を後退させた。
「補給車、前へ寄せすぎですわ! もう半町(約50メートル)下げて!」
「えッ、でも前線への即時補給が」
「前線へ突っ込んでは補給線ごと潰されて意味がありません! 強固な『二次退避線』を先に構築します!」
「ルシア様、追加の担架は?」
「中央と南へ二枚ずつ! 水は各隊へ分散、塩分は片側へ偏らせないで!」
騎士たちが一斉に、私の指示通りに無駄なく動く。
私はその淀みない流れを確認しながら、チラリとクライスの方を見た。
彼はすでに、一番危険な前線の状況確認へ向かっていた。
背筋の伸びた、一切の迷いのない歩き方。
ああ、本当にこの人は、危険があるほど自ら一番前へ出てすべてを背負おうとする。
(絶対に、無茶はさせませんわよ……!)
◇ ◇ ◇
戦闘は、昼を回る頃に本格化した。
第一騎士団の投入で、崩れかけていた防衛線は明らかに立て直された。
左翼の牙猪の突進を重装歩兵が押し返し、中型灰狼の群れを第三隊が分断し、上空の飛行型へは弓隊と魔法支援が的確に刺さる。
前線の流れは悪くない。むしろ、かなり良い。
私は後方寄りの安全な位置から、絶えず戦況を俯瞰し、バフを飛ばし、補給動線を完璧にコントロールしていた。
「第三隊、左へ寄りすぎですわ! そのままだと飛行型の降下の射線へ入ります!」
「了解!」
「医療班、次の負傷者は北側のルートから入ります! 止血用の温水を先に準備!」
「はいッ!」
「副団長前衛、補助を一段上げます! 《軽身(アジリティUP)》《集中維持》!」
銀の光が戦場へ散り、前線の動きがさらに一段鋭くなる。
クライスの剣が、群れの分厚い壁を正確に穿つ。
速い。静かで、一切の迷いがない。
牙猪の突進を最小限の動きでいなし、その背へ回った灰狼を返す刃で両断し、さらに上空から飛びかかってきた中型個体の喉元へ、神速の一閃を叩き込む。
(はああああ……ッ! 格好いい……!!)
いや違う。今は見惚れてペンライトを振っている場合ではない。
だが、格好いいものは格好いいので仕方がない。推しが輝いている。
それでも私は、意識の大半を戦況全体のコントロールへ向けた。
今のところ、ゲームの最悪なシナリオよりずっと良い。
補給のパイプは詰まっていない。負傷者の後送も間に合っている。各隊の足並みも、私のバフと指揮で全く崩れていない。
ならば、このまま押し切れる――。
「ルシア様!!」
見張り台にいた若い騎士の、悲鳴のような絶叫が飛んだ。
「西側の森際……魔物の流れが、急に止まりました!!」
私はハッと顔を上げた。
止まった? 前へ押し出されて狂乱していた群れが、ここで急に?
それはおかしい。あまりにも、生物としておかしい。
次の瞬間だった。
森の奥底で、何かが『鳴いた』。
いや、鳴き声ではない。
それは、もっと低く、重く、大気そのものをミシミシと震わせるような、圧倒的な暴力の音だった。
ゴォォォォォォォォォォ――――ン……ッ!!
地面が、大きく跳ねるように揺れた。
前線の騎士たちが一斉に動きを止める。
今まで死に物狂いで暴れていた魔物たちでさえ、ほんの一瞬、絶対的な恐怖に怯えたように後ずさった。
現地指揮官の顔が、見る間に絶望の土気色に染まる。
「嘘、だろ……」
「何ですの」
私が問う。だが、問うまでもなかった。
森際の巨大な老木が、内側からメキメキとへし折れた。
一本、二本ではない。
まるで見えない規格外の巨人が踏み荒らしたみたいに、森の一部がまとめて吹き飛ぶ。
土煙が天高く上がり、地面がさらに深く、絶望的に震えた。
そして、その土煙の向こうから現れた『それ』を見た瞬間。
私は、全身の血が文字通り凍りつくのを感じた。
巨大だった。
三階建ての家屋ほどの、圧倒的な巨体。
岩のように分厚く黒光りする暗灰色の鱗。地を無惨に抉る巨大な爪。
太い首だけで人の背丈をいくつも超え、唸るような呼気が高熱の白煙となって漏れている。
翼はない。だが、それでも十分すぎるほど、圧倒的に絶望的だった。
地竜型。
紛れもない、災害指定の『特級ボス個体』。
「……ッ!」
喉が、ヒュッと詰まる。
前世のゲームの記憶が、嫌というほど鮮明に、そして残酷に蘇った。
本来、このボスはもっと後の段階で出現するはずだ。
補給が完全に崩れ、部隊が限界まで疲弊し、プレイヤーが絶望する『最悪のタイミング』でだけ顔を出す、隠し級の災厄個体。
それが、なぜ今。
なぜ、私がこれほど完璧に整えた、このタイミングで。
(ゲームの強制補正力が働いたとでも言うの……!?)
「総員、防壁まで後退しろ!!」
団長の怒号が戦場に轟く。
「絶対に前へ出るな! 中型は無視して、陣形を保ったまま距離を取れ!」
「飛行型が上空へ散ります!」
「散らせ! とにかく本命(地竜)から離れろ!」
だが、訓練された第一騎士団であっても、混乱は一瞬で広がった。
当然だ。今まで“押し返せる程度の群れ”として戦っていたところへ、突然、核兵器クラスの脅威が顔を出したのだから。
地竜型は低く唸ると、そのまま前方へドスン、と一歩踏み出した。
たったそれだけで土砂が爆発するように跳ね、逃げ遅れた魔物たちがまとめて消し飛ぶ。
魔物たちが狂乱して押し出されていた理由が、ようやくハッキリした。
あれから逃げていたのだ。群れごと、命からがら。
「副団長!!」
誰かが叫んだ。
クライスは、もう動いていた。
「前へ出るな!!」
私は反射的に、淑女の仮面をかなぐり捨てて叫んだ。
だが、声は届かない。
いや、届いたかもしれない。けれどあの人は、こういう絶体絶命の時こそ、誰より早く一番危険な位置(ヘイトの集まる場所)へ入る。それが彼の戦い方だ。
「ローデン、左翼をまとめろ! 団長は中央指揮を!」
「お前はどうする気だ!?」
「時間を稼ぐ!」
クライスが、地竜へ向かって一直線に地を蹴る。
その背中を見た瞬間、私の胸がギリリと千切れるように痛んだ。
だめだ。行かせたくない。
けれど、止めてもあの人は絶対に止まらない。しかも今は、誰かが一瞬でもあれの注意を引かなければ、防衛線そのものが蹂躙されて崩壊する。
(くそッ……!)
私は奥歯が砕けそうなほど強く噛みしめ、両手へ限界まで魔力を集めた。
「《重圧軽減》《脚力補助》《集中極限》!!」
いつもより遥かに強い、リミッターを外した補助を、クライス一人へ一点集中で飛ばす。
強烈な銀の光が、その背へ吸い込まれる。
同時に、彼以外の前衛へも低出力で広く補助を散らす。逃げる者を少しでも早く逃がし、崩れる線を一秒でも遅らせるためだ。
地竜型が、天を仰いで吠えた。
空気が、物理的にビリビリと裂ける。
その咆哮の衝撃波だけで耳が麻痺し、前線の数人が血を吐いて膝をつく。
クライスはそれを真正面から受けながら、一気にボスの間合い(死地)へ飛び込んだ。
速い。私の補助が乗っているとはいえ、それでも人間の限界を遥かに超えている。
剣閃が、地竜型の極太の前脚へ走る。
ギィンッ!!
激しい火花が散った。
鱗は絶望的に硬い。だが、完全には弾かれていない。
氷の剣気は、わずかに、しかし確かにその硬い鱗を裂いた。
「攻撃が通るぞ!!」
ローデン隊長が叫ぶ。
「脚を狙え! 機動力を削いで止めろ!」
騎士たちが再び動き出す。
絶望で散りかけていた戦線が、クライスという圧倒的な一本の剣を軸に、辛うじて繋ぎ止められる。
だが、地竜型は予想以上に、理不尽なほど速かった。
巨体に似合わない異常な速度で身を捻り、丸太のような巨大な尾を薙ぎ払う。
「副団長!!」
私は悲鳴を上げた。
クライスは半歩でそれを躱す。躱しきれない。
だがその瞬間、私の『重圧軽減』が効いたのか、ギリギリで致命的な直撃軌道は外れた。
尾が地面を深く抉り、土と岩盤が爆発するように弾け飛ぶ。
近くにいた重装騎士が二人、紙くずのように吹き飛ばされた。
「医療班、北へ回れ!」
「はいッ!」
「補給車、もっと下げて! 今すぐ! そこは射程内ですわ!!」
私は怒鳴るように指示を飛ばしながら、必死で前線の推しを目で追う。
最悪だ。
補給は崩れていない。疲弊もまだコントロールできている。
それなのに、バッドエンドの強制イベントが前倒しで来た。
いや。イベントなどという生ぬるい言葉ではない。
このままでは、本当に彼が死ぬ。
クライスが再び踏み込む。今度の狙いは首筋の逆鱗。
地竜型がそれを完全に読んだように、巨大な前脚を上段から振り下ろす。
「副団長、右!!」
私の叫びと同時に、クライスが神速で身を捻る。
致命傷となるボスの爪は完全に避けた。
だが、次の瞬間。
森の暗がりから、別の黒い影が飛び出した。
中型灰狼。
混戦と土煙に紛れて完全に気配を消し、潜んでいた狡猾な個体だ。
最悪のタイミングだった。
クライスの意識と体勢は、目の前の地竜型の迎撃に完全に振り切っている。
そこへ横合いの完全な死角から、灰狼が喉笛めがけて牙を剥いて飛ぶ。
「――――ッ!!」
私は思考するより先に、本能で魔力を弾き飛ばした。
「《偏向障壁》!!」
透明な魔法の壁が、ギリギリで灰狼の軌道を空中でズラす。
だが、急造の壁では完全には防ぎきれない。
その一瞬のズレで、灰狼の牙は喉笛を逸れたものの――クライスの左の肩口へ、深く食い込んだ。
ザシュッ、と。
肉を裂き、血が噴き出す、この世で一番聞きたくない嫌な音がした。
「クライス様!!」
私の口から、悲鳴が上がった。
鮮血が、空を舞う。
白銀の美しい外套が、赤く無残に裂ける。
クライスは即座に右手一本で灰狼を叩き斬ったが、地竜型はその千載一遇の隙を逃さない。
大きく上体を起こし、岩石のような前脚を高く振りかぶる。
「下がれ、クライス!!」
団長の悲痛な怒号が響く。
だが、間に合わない。
肩を抉られたクライスの体勢が、ほんの一瞬、コンマ数秒だけ遅れた。
その遅れは、この特級クラスの相手には絶対的な死を意味する。
地竜型の爪が、推しの身体めがけて、真っすぐに振り下ろされる。
私は、視界の端が真っ白になるのを感じた。
だめ。
だめだめだめ。
触れるな。
それ以上、私の大切なあの人へ触れるな。
胸の奥で、何かがゴウッ……と、黒い炎のように燃え上がる。
理性より早く。
恐怖より強く。
王太子に婚約破棄された時でも、冤罪をかけられた時でも、決して湧き上がらなかった。
純粋な殺意にも似た、もっと純度の高い、圧倒的な『怒り』の感情がマグマのように噴き上がった。
――私の、尊い推しに。
何を。
何をしてくれているのよ、このトカゲもどきが。
その瞬間。
私の中で、ブレーキをかけていた何かが、決定的に「ブチッ」と音を立てて千切れた。
そして次の一撃がクライスへ届く、その数ミリの寸前。
限界オタクの令嬢は、これまで周囲を気遣ってひたすら抑え込んできた『規格外の殲滅魔法』を、初めて本気で(殺意100%で)解き放とうとしていた。




