第18話 野営地での極上おもてなし
大規模遠征の初日というものは、大抵、見た目よりずっと疲労が溜まる。
まだ本格的な戦闘はない。道中の行軍が中心だ。
重い鎧を着たまま馬を一定の歩調で進め、揺れる補給車を守り、小休止を挟みながら国境へ向かう。
たったそれだけのはずなのに、実際に動いてみると、目に見えない疲労がジワジワと体力を削るものなのだ。
特に今回は、道中の地形がよろしくなかった。
王都を離れて半日ほどで街道は細くなり、その先は湿地帯沿いのぬかるんだ悪路へ入る。日中は陽が出ていたものの、夕方からは冷たい風が吹き始め、靴底にまとわりつく重い泥が地味に騎士たちの脚のスタミナを奪っていく。
おまけに重い補給車の車輪は何度か泥へ取られ、そのたびに騎士たちが押して引いて汗をかいた。
つまり、何が言いたいかというと。
(野営地に着いた時点で、皆様のHPはすでに黄色ゲージ(限界)ですわね)
私は街道脇の小高い丘へ立ち、今夜の設営予定地を静かに見下ろした。
国境まであと一日強。本日の野営地として選ばれたのは、森へ寄りすぎず、水場からも遠すぎない、防衛上ギリギリ合格点の草地だ。
普通に(今まで通りに)使えば、ただの“そこそこ不便な野営地”で終わる。
だが、私が『現場監督』として同行している以上、そんな劣悪な環境で推しを寝かせる気は毛頭ない。
後方から続々と到着する騎士たちの顔を見れば分かる。
皆、肩で息をし、脚は重そうだ。しかも初日の疲労は、本人たちが思う以上に翌日へデバフとして響く。
ここで雑に寝かせるか。
それとも、完璧に回復させるか。
遠征の勝敗は、そういうインフラの積み重ねで決まるのだ。
「ルシア様」
補給班の若い騎士が泥だらけの顔で駆け寄ってくる。
「設営範囲、この辺りでよろしいでしょうか」
「ええ。ですが、そのまま天幕を張っては駄目ですわ」
「えっ」
「まず地面が湿っておりますもの。寝台を置く前に、表層を乾かします」
「乾かす……?」
私はニッコリと極上の微笑みを浮かべた。
「遠征初日の夜に、湿った冷たい地面で寝て翌朝腰を痛めるなど、戦術的に愚の骨頂ですわ」
そう言いながら、私は手袋越しの指先へ膨大な魔力を集めた。
「《乾燥》《均し(フラット)》《踏圧固定》」
淡い銀光が、広大な草地の表面をサッと撫でるように走る。
次の瞬間、ジトリと湿っていた地面から余分な水気が一瞬で抜け、足を乗せた時の嫌な沈み込みが完全に消えた。
さらに邪魔な小石や凹凸が自然と端へ寄り、寝具を敷く範囲だけが、まるで王宮の床のように平らに固められて整っていく。
若い騎士が、ポカンと間抜けに口を開けた。
「……え。地面って、魔法で整えられるんですか?」
「整えられますわよ」
「そんな、朝に自分の机を拭くみたいな気軽さで……」
「机も地面も、使う前にフラットに整えるのは同じことですもの」
「同じかなあ!?」
隣で聞いていた別の騎士が思わずツッコんだ。
失礼な。概念としては完全に一致しておりますわ。
だがその間にも、他の騎士たちが泥まみれの疲れた顔で設営へ入ってくる。
私はパンッと手を叩き、通る声を張った。
「天幕は風下側から! 補給車は中央へ寄せて壁代わりに! 医療班は水場寄りですが、夜露の流れへ入らない一段高い位置を確保してくださいまし!」
「はッ!」
「寝具は直接地面へ置かず、必ず下へ私がお渡しする『乾燥布』を挟んで! ない方はこちらへ!」
「ルシア様、焚き火は?」
「三か所! 大きく一つではなく、小さく分散ですわ! 煙を上げすぎると飛行型(敵)の目印になりますし、近すぎる人と遠い人で温度差が出ますもの!」
疲労困憊のはずの騎士たちが、なぜか私の指示を聞くたびに返事だけは妙に元気になっていく。
理由は分かっている。
人間というものは、「終わり(完成図)」と「正しい手順」が見えると身体が動くのだ。
そして野営の何が一番つらいかといえば、“いつ、何を、どうすれば少しでも自分が楽になるか(休めるか)が全く分からないこと”なのだ。
ならば、私が全工程を最適化(タスク切り分け)して並べてしまえばよろしい。
(さあ、参りますわよ。今夜の目標は“野営なのに高級宿屋みたいに熟睡できた”と全騎士へ言わせることですわ!)
◇ ◇ ◇
それから一刻もしないうちに。
第一騎士団の野営地は、当初の“そこそこな草地”から、完全に『別次元の空間』へと変貌していた。
天幕は風向きに合わせて完璧な配置で組み上げられ、中央には補給車を囲うように焚き火が分散。
地面の湿気は魔法でシャットアウトされ、寝具の下には簡易乾燥布。さらに各焚き火のそばには湯沸かし用の小鍋、足を洗うための温水桶、冷えた手を温めるための魔石灯まで設置済み。
そして何より。
「……あったかい」
第三隊の若い騎士が、足元の温水桶に足を浸して呆然と呟いた。
「野営地で、足湯があるんですけど……ここ天国?」
「足湯ではなく、洗浄用の温水ですわ」
私はすかさず訂正した。
「ただし結果として足の血流も温まります」
「いやそれ完全に足湯では!?」
別の騎士が叫ぶ。うるさいですわね。名目(予算の通りやすさ)の話です。
私は補給台の特大鍋を軽く混ぜながら答えた。
「冷たいぬかるみを歩いた後、足首から下を温めて泥を落とすだけで、疲労物質の抜け方が全然違いますのよ。冷えたまま寝具へ入るなど論外ですわ」
「論外……」
「遠征の二日目三日目で、パフォーマンスに劇的な差が出ますもの」
「え、そこまで……」
「そこまで、ですわ」
焚き火の上では、塩気を控えめにした温かい煮込みが極上の湯気を上げている。
乾燥肉を特製スープで戻し、野菜を煮込み、胃腸に重すぎないよう穀物を少量。そこへ喉と気管支をいたわる香草をひとつまみ。
「これも全部、ルシア様が?」
「私一人ではございませんわ。皆様が私の指示通りにきちんと動いてくださるから、この環境が整うのです」
「でもその指示がなかったら、絶対こんな快適にならないですって……!」
「そうですの?」
「そうです!!(断言)」
なぜか力強く、信者のような目で断言された。
若手騎士たちの目が、またしても少しだけ宗教的に輝いている。
やめてくださいまし。私はただ、推しが快適に過ごせる野営地を構築しているついでに、皆様の環境も整えているだけなのですから。
その時、少し離れたところで設営確認をしていたローデン隊長が、深々と息を吐いた。
「……何だこれ」
「何、とは?」
私が振り返る。
「いや、ここ野営地だろ?」
「野営地ですわね」
「なのに、何でこんな……何ていうか……」
ローデン隊長が周囲を見回す。
「実家よりやたらと落ち着くんだ?」
「完璧に整っているからですわ」
「間髪入れずに言い切ったよこの人」
団長までもが、計算し尽くされた焚き火の配置と補給台を見ながら腕を組んでいる。
「正直、初日の野営はもっと荒れる(疲労で士気が下がる)と思っていたが……」
「明日の過酷な行軍を考えれば、今日の夜の回復量が勝負ですもの」
私は当然のように答えた。
「ここで良質な睡眠がとれないと、明日から皆様の集中が鈍ります」
「……」
「あと、副団長が無理をして休めません」
「結局理由はそこ(推し活)か」
ローデン隊長が呆れたように笑った。
だが、半分は本気である。
クライス様のような人は、こういう時ほど“自分は後回しでいいから部下を先に休ませろ”をやりがちなのだ。
だからこそ、先に全員の環境を底上げして完璧に整え、推しが休まざるを得ない『逃げ道のない快適空間』を作る。何も特別なことではない。
「ルシア様!」
また別の騎士が駆け寄ってきた。
「この簡易天幕に張ってある『飛行型避けの布』って、本当に効果あるんですか?」
「ありますわ。少なくとも、火の明かりを見て寄ってくる小型個体のヘイト(目線)はずらせます」
「すげえ……」
「あと、夜霧が降りた時の見張りの視界も確保しやすくなりますの」
「すげえ……」
「さっきから語彙力が死んでおりますわよ?」
「すみません、でもマジですげえです」
褒められているのは分かるが、もう少し知性を尽くしていただきたい。
◇ ◇ ◇
空が深い藍色へ沈み、焚き火の明かりがくっきりと浮かび始めた頃。
前方偵察と周辺確認へ出ていたクライスが、ようやく野営地へ戻ってきた。
私は煮込みの火加減を見ながら、気配だけでそれを察した。
いや、正確には察したというより。この人が戻ると、野営地の空気の芯が一段ピーンと引き締まり、私のオタクセンサーが激しく反応するのだ。
(お戻りになりましたわね……!)
振り向けば、外套へ夜露を少しだけ乗せたクライスが、焚き火越しにこちらを見ていた。
その顔にはいつもの無表情。
だが、視線が野営地の異常なまでの快適配置を一巡した瞬間、ほんのわずかにピタリと止まる。
完璧な補給台。温水桶(足湯)。魔法で乾燥設営された寝区画。一切散らかっていない荷駄。動線を邪魔しない安全な医療班位置。
「……何だこれは」
「第一騎士団の野営地ですわ」
私は当然のように、ニッコリと答えた。
クライスは数秒黙り、それから周囲を見回した。
第三隊の若手が、ちょうど温水で泥を落とした靴を満足げに見ている。補給班は既に食事配布の順番を整え終え、医療班は負傷者ゼロを確認して温かい茶を飲んで一息ついている。
そして誰もが、野営地とは思えないほど穏やかでリラックスした顔をしていた。
「ルシア様のおかげで、初日とは思えないくらい快適です!」
若い騎士がクライスへ向かって元気よく報告した。
「まだ遠征中なのに、もう王都へ帰還した後みたいな安心感が!」
「それはさすがに気が早すぎますわよ」
「でも本当にすごいんですよ、副団長!」
別の騎士まで興奮気味に口を挟む。
「地面は乾いてるし、湯はあるし、飯は温かいし、寝具も一切湿ってないんです! 奇跡です!」
「それは私が事前に指示したからですわ。奇跡ではありません」
「いや普通じゃないですって!!」
……何だか、皆様ずいぶん私の布教活動に熱心ですわね。
クライスはそんな熱狂的な騎士たちを一瞥し、それから私へ視線を戻した。
「お前がやったのか」
「皆様と一緒に、ですわ」
「……そうか」
短い返答。
けれど、その声はなぜか少しだけ低かった。
私は特大鍋へ木杓子を差し込みながら、密かに首を傾げる。
疲れているのかしら。それとも偵察先で何か不穏な兆候でもあった?
だが、その美しい無表情からは読み取りきれない。
「副団長も、まずあちらの温水で手と足を温めてくださいまし」
私はできる限り自然に(オカンにならないように)言った。
「その後、すぐにお食事をお持ちしますわ」
「後でいい」
「後では冷めます」
「……」
「それに、冷えたままでは質の良い休息が取れません。明日に響きますわ」
「……分かった」
よし、と私は内心で小さくガッツポーズをキメた。
まずは一勝。遠征中の推しへ“強制的に休むルーティン”を叩き込むのが、今夜の私の最重要任務である。
だがその時。
「ルシア様ー!」
補給台の向こうから、第三隊の騎士が大きく手を振った。
「こっちの別鍋、味見お願いできますか!」
「はい、今参りますわ!」
「あと、寝区画の仕切り布の位置も、もう一回だけ見てください!」
「分かりましたわ!」
私はそちらへ向かおうとして――ふと、クライスの方を見た。
一瞬だけ。本当に一瞬だけなのに。
なぜか、あの美しい蒼い瞳が、少し冷たく見えた気がした。
(……?)
気のせいかしら。やはり疲労が溜まっていらっしゃるのかもしれない。
私は首を傾げつつ、私を呼ぶ若い騎士たちの方へ足を向けた。
◇ ◇ ◇
その後、一時間ほど。
私は休む暇もなく、野営地のあちこちを飛び回って最終調整をしていた。
「鍋の塩気、こちらは少し強いですわ。湯を足して中和を」
「はい!」
「仕切り布はもう一枚低く! 風を切りすぎると空気が澱んで逆に寒く感じます!」
「なるほど……!」
「補給袋はその位置だと、深夜の夜番交代の動線に被りますわ。半歩右へずらして」
「たった半歩で変わるんですか?」
「変わります(暗闇では致命的な差になります)」
そう小言を言いながらも、私は心の底から満足していた。
野営地が、一つの巨大なシステムとして完全に機能している。
騎士たちが、疲れた顔のままでも少し笑っている。若い者が水と食事へすぐ辿り着き、年長者は体力を残したまま自然に見回りへ入れる。
それだけで、生存率(クリア確率)が全然違うのだ。
「いやあ、本当に助かるなあ、ルシア様」
第四隊の中堅騎士が、温かい器を両手で包み込みながらしみじみと言った。
「正直、遠征初日の野営って毎回“まあこんなもんか”で我慢して寝るしかなかったんだが」
「我慢は美徳ではありませんわ」
「はは、違いない」
「皆様が余力(HP)を残してくださった方が、いざという時の副団長の負担も減りますもの」
「結局、理由は全部そこ(副団長)なんだな」
「もちろんですわ」
隠す気もないので、堂々と言い切った。
すると、その騎士が妙にニヤニヤした顔になる。
「副団長、愛されてるなあ」
「ええ、推しですもの」
「ルシア様、最近そこ隠さなくなってません?」
「隠してはおりますわよ?」
「どこが!?」
周囲でドッと笑いが起きた。
うるさいですわね。私はいつだって全力で氷の淑女の仮面を被って隠しております。ただ、パッションが強すぎて隠しきれていないだけで。
その時だった。
「何を騒いでいる」
絶対零度の低い声が、笑い声を切り裂いて割って入る。
振り返れば、クライスがいつの間にかそこに立っていた。
焚き火の明かりを背にしたその姿は、相変わらず絵画のように美しすぎて目に毒である。
中堅騎士が器を手に苦笑する。
「いえ、副団長。ルシア様のおかげで野営地が快適すぎるという話です」
「……そうか」
「しかも飯までうまいんですよ」
「温水まであるし」
「寝床も全然違うし」
「俺たち、ルシア様がいない遠征とか、もう戻れないかもしれません」
最後の一言に、周囲の騎士たちがまた笑う。
だが、私はその和やかな空気の中で。
クライスだけが、全く笑っていないことに気づいた。
「副団長?」
思わず声をかける。
クライスは数瞬だけ黙り、それから淡々と言った。
「……食事は」
「あっ、いけません、副団長の分がまだでしたわね」
私は慌てて立ち上がった。
「今すぐ極上の一杯をお持ちいたします」
「そうか」
短い返答。そのまま彼は踵を返しかけて、ふと止まる。
「お前も食え」
「え?」
「まだだろう」
「それは……後で皆様が寝静まってから」
「後では遅い。今食え」
その言い方が少しだけ強くて、私は目を瞬いた。
まるで、さっき私が彼へ言った「後では冷めます」という言葉の返しのようだったからだ。
「……かしこまりましたわ」
私は少しだけ嬉しくなって微笑んだ。
「では、副団長とご一緒に頂きます」
「……ああ」
なぜだか、その返事だけは、少しだけ柔らかかった。
◇ ◇ ◇
結局、私は騒がしい補給台の脇ではなく。
少し離れた、小さめの焚き火のそばで、クライスと二人きりで食事を取ることになった。
団長やローデン隊長もいる大きな火ではなく、野営地全体を見渡せる、しかし少しだけ静かなプライベート空間のような位置。多分、見回りも兼ねているのだろう。
私は器を渡しながら、そっとクライスを窺った。
「副団長、本日の偵察はいかがでした?」
「周辺三里までは異常なし」
「それは何よりですわ」
「だが、北側の森は魔素が異常に濃い」
「……そう」
やはり。嫌な予感は当たっている。
スタンピードの余波が、この辺りにも確実に滲み始めているのだろう。
私はすぐに脳内の戦術マップを切り替えた。
「でしたら、夜番は北側へ多めに警戒を回しますわ。ただし火は低く。飛行型を寄せないよう、光の漏れない魔石灯を主体に」
「頼む」
「はい」
会話そのものは、いつも通りだ。任務の確認、必要なことだけ。
けれど、その静かで穏やかな時間が私は好きだった。
焚き火の光で少しだけやわらぐ、彫刻のような横顔。器を持つ大きな手。短い返事。
全部が、野営地の夜に妙に似合う。
(はあ……推しと野営地で、二人きりで同じ火を囲んでおりますわ……これがキャンプ……)
落ち着け私。限界オタクの顔を出すな。今はただ、普通に食事を味わいなさい。
だが、そんな私の努力を無にするように。
少し離れたところから、若い騎士たちの明るい笑い声が聞こえてきた。
「ルシア様、あっちでも大人気ですね」
「さっきもうちの隊の寝具の並び、丁寧に見てくれたし」
「俺、あの人に“よろしいですわ”って微笑まれただけで、明日も死ぬ気で頑張れるわ」
「分かる」
「超分かる」
……何ですの、その会話。
恥ずかしいからやめていただきたい。そう思ってそちらを見ると、視線に気づいたらしい若い騎士が大きく手を振ってきた。
私は反射で、ニッコリと小さく手を振り返した。
「…………」
その瞬間、隣の空気が急激に、スッと冷え込んだ気がした。
え? と私はクライスを見る。
彼は器を持ったまま、焚き火の向こうの若い騎士たちをジッと見ていた。
表情はいつも通りだ。だが、口を開くまでの間が妙に長く、重い。
やがて、地を這うような低い声が落ちる。
「……随分と懐かれているな」
「え?」
「あの騎士たちだ」
「ああ」
私は少し笑った。
「最近、補給や整理の大事さが浸透してきたからかもしれませんわね」
「そうか」
「ええ。皆様、素直で可愛らしいですもの」
「……可愛らしい?」
あら。
言い方がまずかったかしら。
「もちろん『後輩の騎士として』、ですわ」
私は慌てて補足する。
「私が組んだシステムで、ちゃんと育っていく現場を見るのは楽しい、という意味で」
「……」
「副団長?」
「いや」
クライスはそこでピシャリと会話を切った。
だが、何だか微妙に不機嫌そうにも見える。気のせいかしら。やはり相当お疲れなのかもしれない。
その時、また別方向から声が飛んできた。
「ルシア様ー! 食後の湯、こちらにも回していいですか!」
「ええ、どうぞ! ただし医療班を優先で!」
「了解です、女神様!」
私がそちらへ返事をした瞬間。
隣で、クライスの器がコトリと置かれた。
「食べ終えた」
「まあ、早いですわね。もう少しゆっくり召し上がっても」
「見回る」
「はい。お気をつけて」
「……ああ」
クライスは立ち上がる。
そして、数歩進んだところで、不意に足を止めた。
振り返らずに、ただ背中越しに一言。
「ルシア」
「はい?」
「一人で動き回るな」
「え?」
「夜だ。危ない」
「……承知いたしましたわ」
それだけ言うと、彼はそのまま足早に暗がりへ消えていった。
私はしばらく、その広い背を見送っていた。
一人で動き回るな。
それはまあ、もっともな注意だ。夜の野営地では小さな事故も起きやすい。だから理屈は分かる。
分かるのだけれど。
(何だか……少しだけ、言い方が変でしたわね)
“危ないから気をつけろ”ではなく、“一人で動き回るな”。
まるで、私があちこちの隊に顔を出すのを、牽制しているみたいではないか。
……考えすぎかしら。限界オタクの都合の良い深読み(幻覚)ね。
私は首を傾げ、それから小さく息を吐いた。
ともかく、今は野営地全体のシステムが正常に稼働しているかを見守ることが先だ。気になることがあるなら、明日また自然に確かめればいい。
◇ ◇ ◇
一方、その頃。
夜の見回りへ入ったクライスは、普段よりもわずかに足取りが荒かった。
自分でも分かっている。
苛立っているのだと。
だが、何に対してかはっきり言語化するのは、どうにも癪だった。
野営地は完璧によく整っていた。
補給も、火の位置も、寝区画も、何もかも理想的だ。ルシアがいるだけで、これほど戦力が底上げされるのかと驚愕するほどに。
そして、若い騎士たちが彼女を称賛し、慕う理由も痛いほど理解できる。
役に立っているからだ。助けられているからだ。そして何より、彼女が美しいからだ。
――分かっている。
分かっている、のに。
誰かが彼女へ笑いかけるたび。
彼女がそれへ柔らかく応じ、優雅に微笑むたび。
胸の奥で、妙にザラつく、どす黒いものがあった。
特に、“皆様、素直で可愛らしいですもの”などと聞いた時には。
自分でも驚くほど、理性が吹き飛びそうになるほど気分が悪くなった。
可愛らしい。
あの女は、俺以外の他の男へもあんな風に心を開いて笑うのか。
いや、実際笑っていた。
若い騎士たちへ、褒め、頷き、礼を言い、親しげに手まで振っていた。
それが何だというのか。ただの業務上のやり取りだ。分かっている。
なのに。
「……ひどく、苛立つ」
誰にも聞こえない低い声で、氷の騎士は吐き捨てた。
理由は分からない。
ただ一つ、はっきりしているのは。
今夜の焚き火の向こうで、俺以外の男たちに無防備に笑いかけるルシアの顔が。
どうしようもなく、気に入らなかったということだけだった。




