第16話 痛快なる決別
「殿下がそこまでおっしゃるのなら――すべて、この場で申し上げますわ」
私がそう告げた瞬間、第一騎士団本部前の空気は、ピタリと凍りついた。
風の音すら遠い。
数えきれないほどの視線が、私と、アーサーと、そして私の隣に立つクライスへ注がれている。
本来であれば、公の場で王太子の非を糾弾するなど、貴族令嬢としては到底許される振る舞いではない。不敬罪ものだ。ましてや、相手はかつての婚約者。沈黙と忍耐こそが美徳とされてきた立場である。
……けれど。
そんなクソみたいな美徳は、理不尽な婚約破棄の瞬間に夜会用ドレスと一緒に引き裂いて捨てた。
それに今さら、何を遠慮する必要があるというのだろう。
私はもう、この無能な男の顔色ひとつで自分の人生をすり減らす哀れな小間使いではない。
「まず確認いたしますわ、殿下」
私はゆっくりと、冷ややかな慈悲を含んだ目でアーサーを見上げた。
「殿下は先ほど、“私がいないせいで王宮が迷惑している”とおっしゃいましたね」
「……ッ」
「それはつまり、殿下ご自身が、ご自分の政務の多くを『私に完全依存していた』と認めるお言葉でよろしいのですね?」
ザワワ……と、騎士たちの間にどよめきが走る。
アーサーの顔がヒクッと引きつった。
「言葉尻を拾うな! 私はそういう意味で――」
「では、どういう意味で?」
「お前が勝手に持ち場を放棄したせいで、混乱が出ていると言っているんだ!」
「まあ」
私は小さく、優雅に首を傾げた。
「“持ち場”と、おっしゃいましたの?」
「何がおかしい」
「だって、殿下の今のお言葉では。王宮の政務整理、外交文書の事前照合と修正、会議資料の要点抽出、国家予算案の優先順位付け、各省庁への根回し、祭礼警備の調整、王都補修案件の差し戻し判断……それら『国政の根幹』すべてが、単なる婚約者候補である私の“持ち場”だったように聞こえますもの」
「…………」
沈黙。
今度は、本部前にいた騎士たちの方が驚愕に目を見開いた。
当然だろう。私があまりにもサラリと並べたその仕事量が、王太子一人のキャパシティを遥かに超えた異常なものだと、現場を知る彼らには瞬時に分かったはずだ。
アーサーはギリッと歯噛みする。
「そ、そんなもの、婚約者として当然の『補佐』だろう!」
「補佐」
私はフッと、嘲るように笑った。
「殿下は、ご自分の仕事の九割を他人に丸投げしておきながら、それを“補佐”とお呼びになるのですね。随分と都合の良い辞書をお持ちで」
「き、貴様……ッ!」
アーサーの顔が朱に染まる。
だが、私は止めない。ここで止めてやるほど、私はもう優しくない。
「十歳の頃からでしたわね」
私の声は静かで、よく通った。
「殿下は御前会議の予習を嫌がり、資料に目を通さず、直前になって私へ“分かりやすく三行にまとめておいてくれ”と丸投げなさいました」
「……」
「十二歳の頃には、地方視察の報告書へろくに目も通さず、“大体問題ないのだろう”と決裁印を押しかけましたわね。あの時、南方の水利権争いがどれほど一触即発の危うい段階にあったか、ご存知でした?」
「そ、それは……」
「十四歳の時には、隣国との食糧交換の覚書を、正文も読まずに“まあいいだろう”と通そうとなさいましたわ。単位表記が一箇所違っていて、王国側が飢える寸前だったことに、私が夜中に気づいて書き直しましたのよ」
「黙れ!」
「十六歳では?」
私は一切の容赦なく続ける。
「王都北門の防壁補修予算を、くだらない祭礼用の花火費用へ回そうとしましたわよね。“見栄えがいい方が民も喜ぶ”と」
「ッ……!」
騎士たちの間から、低く押し殺したような怒りの息が漏れる。
ローデン隊長など、もはや頭を抱えて天を仰いでいた。
「やめろ、ルシア」
アーサーが呻くように言う。
「そのような些事を、こんな場所で――」
「些事?」
私はピシャリと問い返した。
「王都の防壁が崩れれば民が死に、条約文の不備ひとつで戦争が起き、予算の優先順位を誤れば現場が血を流す。それを『些事』とおっしゃるのですか、次期国王殿下」
「……ッ」
アーサーが完全に言葉に詰まる。
私は静かに息を吸った。
「私は、殿下の婚約者として、必要だと思ったから泥を被ってやっておりました」
「ならば今さら何が不満だ!」
アーサーが余裕のない声で叫ぶ。
「お前はずっと私のためにそうしてきたではないか! 戻ってくればいいものを!」
「ええ。そうですわね」
私はあっさり認めた。
その上で、ハッキリと叩きつける。
「ですが、それは“私が望んで殿下に尽くしていた”わけではありません」
「……何?」
「王族としての『義務』だったからです。責任だったからです。無能なあなたを放っておけば国家規模の被害が広がると分かっていたから、私が裏で徹夜して潰して回っていただけですわ」
「ふざけるな! お前はいつも、私の愛を得るために――」
「違います」
キッパリと、私は遮った。
「私が守っていたのは、民と国ですわ。あなたのためではありません」
その一言は、あまりにも静かで、残酷な真実だった。
だからこそ、本部前の張り詰めた空気の中へ、深く深く落ちた。
アーサーの顔から、みるみる血の気が引いていく。
「お前、は……」
「勘違いなさらないでくださいまし」
私は極上の笑みを浮かべた。
「私、殿下の尻拭いを“愛ゆえに”していたのではありませんのよ。ただのサビ残ですわ」
騎士たちのざわめきが、ひときわ大きくなる。
そりゃあそうだろう。今のはほぼ、王太子へ真正面から「お前に価値はない」と言い切ったに等しい。普通の貴族なら卒倒ものだ。
だが、それでもまだ足りない。
なぜなら、この愚かな男はまだ、“自分が命令すれば戻る”と勘違いしているからだ。
「それと」
私は扇もないのに、扇を持っている時の癖で指先を優雅に揃えた。
「もう一つ、ハッキリさせておきますわ」
「……まだ何かあるのか」
「ございますとも」
私はアーサーと、その背後で青ざめている近衛騎士たち、そしてさらにその向こうで息を潜める第一騎士団の面々を見回した。
「殿下は私へ、“ミレーヌ様へ陰湿な嫌がらせをした”という冤罪をお着せになりました」
「冤罪ではない! 事実だ!」
「では、具体的に伺いますわ」
私はニッコリと微笑む。
「いつ?」
「何だと」
「私は『いつ』『どの時間帯に』、ミレーヌ様の教科書を破り、ドレスに泥をかけ、階段から突き落とそうとしたのか――具体的に、矛盾なくお答えくださいまし」
「そ、それは……目撃証言が」
「証言?」
私は一歩前へ出た。
「私が夜中の三時まで殿下の会議資料を要約し、各省庁の提出文を整理し、翌朝の視察資料へ注記を入れていた、あの地獄のような日にも?」
「……」
「私が学園へ出る前に王宮の文官から急ぎの照会を受け、昼休みの食事も取らずに帳簿の差分を確認していた日にも?」
「……ッ」
「私が夜会の裏で、殿下の失念なさった他国への返信書簡を急いで偽筆で清書していた日にも?」
アーサーは、何も答えられない。
答えられるはずがない。そんな暇など、私のスケジュールのどこにも一秒たりとも存在しなかったのだから。
私は淡々と続ける。
「殿下は、私が過労死寸前であることをご存知でしたでしょう?」
「それは……王太子妃候補として当然の――」
「ええ、当然ですわね」
私はサラリと頷いた。
「では、その“当然の激務”の中で、どの隙間に『ヒロインへの嫌がらせ』などという暇な真似を差し込めたのか、ぜひご説明を」
「……ッ」
騎士たちの中から、今度こそハッキリとした失笑が漏れた。
ああ、もう完全に流れは変わった。
アーサーの主張には、最初から穴(矛盾)しかなかったのだ。ただ私が、国のために今まで黙って耐えていただけだ。
「殿下は私を有罪にしたかった」
私は静かに、真実を突きつける。
「なぜなら、平民上がりのミレーヌ様を本妻に迎えるために、邪魔な私を切り捨てる『正当な理由』が必要だったから」
「違う!」
「違いませんわ」
「私は、ただミレーヌを守るために……!」
「その結果、裏付け調査もせず、国政を回していた私へ冤罪を着せ、公衆の面前で婚約を破棄し、しかも今さら“回らなくなったから戻れ”と命じているのですか?」
私は呆れたように首を傾げた。
「筋が通りませんわね、アーサー殿下」
アーサーが、目に見えてグラついた。
怒りではない。焦りだ。足元が崩れ落ちていく者の目だ。
彼は今、ようやく分かり始めているのだろう。ここにいる全騎士の前で、自分の言い分が完全に論破され、王太子としての威信が地に落ちたことに。
「……ルシア」
アーサーは、掠れた声で言った。
「お前は昔から、言葉だけは立つ」
「お褒めいただき光栄ですわ」
「屁理屈で誤魔化せると思うな!」
「誤魔化しているのは、どちらですの?」
私はスッと表情の温度を消した。
「殿下。ではお伺いしますわ」
「な、何を」
「隣国エルトラーデとの不可侵条約、第三項の通商路警備分担に関する文言差異は、どの時点で誰が照合すべきでした?」
「……」
「王都北門補修と祭礼費用の優先順位、どちらが先であるべきでした?」
「……」
「先月、第一騎士団から上がっていた追加予算申請。不当な差し戻し理由は何でした?」
「……ッ」
アーサーの顔から、みるみる血の気が引いていく。
何も答えられない。一つも。
本部前にいた騎士たちは、その無能な姿を黙って冷酷に見つめていた。
声を上げる者は誰もいない。だがその冷え切った沈黙こそが、彼にとって何よりの断罪だった。
「お分かりですかしら、殿下」
私は一歩、さらに踏み込んだ。
「これが現実です」
「……」
「殿下は、ご自分が何を把握し、何を判断し、何を他人に委ねていたのか、まったく理解なさっていない」
「黙れ……」
「そして、その殿下の致命的な理解のなさを埋めていたのが、私でした」
「黙れと言っているだろうが!!」
アーサーがヒステリックに怒鳴った。
だが、怒鳴ったところで事実は一ミリも変わらない。
「ですから」
私は静かに、決定的な決別を告げた。
「私は二度と戻りません」
「……ッ」
「殿下の失敗を、裏で黙って片づけ続ける奴隷のような生活には」
「ルシア!!」
「王宮で見えないサビ残を背負い、感謝もされず、挙げ句に冤罪まで着せられる掃き溜めには!」
「ルシアァァッ!!」
アーサーが、逆上して堪えきれずに一歩踏み出した。
その手が、乱暴に私の腕へ伸びる。
――次の瞬間だった。
ギィン、と。
鋼が鳴く寸前の、恐ろしく冷たい音がした。
気づけば、クライスが私の前へ完全に立ちはだかっていた。
片手は腰の剣へかかり、ほんのわずかに鞘から白刃を覗かせている。
その大きな背中から放たれる圧倒的な殺気が、冬の吹雪のように場を切り裂いた。
「触れるな」
たった一言。絶対零度の宣告。
それだけで、空気が完全に凍りつく。
アーサーが、文字通り恐怖で足を止めた。
近衛騎士たちも息を呑み、第一騎士団の騎士たちは一斉に戦闘態勢へ入る。誰かが命じたわけではない。ただ自然に、“ここから先は一歩も越えさせない”という鉄壁の陣形ができあがった。
クライスの蒼い瞳は、真っ直ぐにアーサーだけを射抜いていた。
「次に一歩でも彼女に近づけば」
その声は低く、静かで、恐ろしく澄んでいた。
「王太子であっても、容赦はしない」
本気だ、と。
その場の全員が本能で理解した。
これは脅しではない。牽制でもない。
氷の凄腕騎士クライス・フェルドという男が、本当にこの一線を越えた者を躊躇なく叩き斬る人間だと、誰もが知っているからだ。
アーサーの喉が、ヒクリと鳴る。
「き、貴様……次期国王たる私に、剣を向けるつもりか……!」
「向けさせるな」
クライスは一歩も引かない。
「ルシアは第一騎士団の一員だ」
「一員、だと……?」
「俺付きだ。誰にも渡さん」
「……ッ」
(――――ッッ!?)
その言葉に、私の心臓がまた大気圏を突破しそうになった。
いや今はそういう場合ではない。場合ではないのだけれど。こんな極限状況でそんな独占欲丸出しの断言をされれば、限界オタクの精神が崩壊する。
アーサーは完全に気圧されていた。
怒りと屈辱と、底知れぬ恐怖がないまぜになった顔で、何度も口を開きかけては閉じる。
その時、私はクライスの背中越しに、最後の一言を投げた。
「殿下」
アーサーがビクゥッと顔を上げる。
「私、もう殿下の婚約者でも、雑務係でも、尻拭い役でもございません」
「……」
「王太子妃の座も、面倒な王宮の仕事も、ミレーヌ様との真実の愛も」
私は、心からの笑顔で笑った。
「どうぞ、今後はご自分たちだけで、地獄の底までお楽しみくださいまし」
数瞬の沈黙。
それから、どこかでローデン隊長が「ふぅ」と深く息を吐いた。
我慢していたものがほどけるような、そんな音だった。
アーサーの顔が、怒りと恥辱でどす黒く染まる。
「……後悔するぞ」
掠れた声で、彼は負け犬のように言った。
「私に逆らって、ただで済むと思うな」
「もう十分後悔しておりますわ」
私は即座に返した。
「殿下と婚約していた年月ほど、無駄で理不尽な時間は、私の人生にそうそうございませんもの」
「ッ!!」
アーサーの顔が、ついに限界を超えた。
だが、それ以上何か言い返す前に、クライスの殺気が、さらに一段深く落ちた。
近衛騎士たちが顔を青ざめさせ、慌てて王太子の前へ出る。第一騎士団の面々もまた、一歩も引かずに睨み返す。
もはや、勝負は完全に決していた。
アーサーは歯を食いしばり、私とクライスを交互に睨みつける。けれど、その視線に先ほどまでの傲慢な余裕は欠片もない。
やがて、彼は吐き捨てるように言った。
「……行くぞ!」
王家の馬車へ向かって逃げるように踵を返す。近衛たちも慌てて続く。
その無様な背中が本部前から遠ざかっていくまで、誰も動かなかった。
やがて馬車の音が完全に消えた、その瞬間。
「――ッ、はあぁぁぁぁ……!」
誰かが盛大に息を吐いた。
それを合図にしたかのように、本部前の空気が一気に爆発する。
「今の見たか!?」
「見たに決まってるだろ! 最高かよ!」
「ルシア様、すげえ……完全に論破した……!」
「副団長、あの殺気マジで本気すぎたぞ……!」
熱狂的なざわめきが広がる。
ローデン隊長は額を押さえながら、半ば呆れ、半ば笑った顔で言った。
「いやあ……痛快だったな」
「ええ、とても」
私は素直に答えた。
本当に、胸がスッキリしていた。
長年喉に刺さっていたサビ残という名の棘を、ようやく綺麗に引っこ抜いたような気分だった。
その時。
私の目の前で、クライスがようやく剣から手を離した。
「副団長」
「……無事か」
「はい」
そう答えた途端、今度は別の意味で心臓が忙しくなった。
『無事か』。
この人は、今、真っ先にそれを聞いたのだ。
王太子との政治的やり取りがどうとか、今後の騎士団の立場がどうとかではなく。
まず、私の無事。
「ご心配をおかけいたしましたわ」
「問題ない」
そう言いながらも、クライスの視線はまだ冷えたままだった。多分、完全にはアーサーへの怒りが引いていないのだろう。
そのことに、胸の奥がジワリと熱くなる。
……推しが。
私のために。
抜剣寸前の殺気を出して、庇ってくれた。
(だめだ。今それを反芻すると、さっきまでの爽快感とは別の意味でショートして死ぬ)
「ルシア様!」
「ご無事でよかった……!」
「副団長が止めなかったら、あのバカ王子ほんとに……」
若い騎士たちが次々に駆け寄ってくる。その顔には怒りも残っていたが、それ以上に、私への気遣いと「よくやった」という興奮が浮かんでいた。
「皆様、ありがとうございます」
私は優雅に微笑んだ。
「ですが、もう大丈夫ですわ」
「本当に?」
「ええ」
本当に、大丈夫だった。
なぜなら。私の中の何かが、あの男の無様な背中が遠ざかった瞬間に、完全に終わったからだ。
未練も。義務感も。過去のしがらみも。
全部、綺麗に断ち切れた。
そして、その代わりのように。
今ここにあるのは、第一騎士団のあたたかい熱と、私を絶対に守るように立つクライスの大きな背中。
それが、どうしようもなく嬉しかった。
「……戻るぞ」
クライスが短く言う。
「はい」
私は素直に頷いた。
そのまま彼の後を追って歩き出す。半歩後ろ、いつもの位置。
けれど今日は、いつもよりその背中がとても大きく、頼もしく見えた。
その頃、第一騎士団の面々の間では。
「副団長、完全に本気だったな」
「本気どころじゃなかっただろ。あれちょっとでも触れてたら絶対腕斬り落としてたぞ」
「王太子相手にあの殺気って……」
「ルシア様、完全に守られてたよな……?」
「いやもう、あれ完全に『俺の女に触るな』の圧だったぞ」
などという、大変よろしくない(しかし的確な)囁きが一気に広がり始めていた。
一方その中心で、私はというと。
(推しが、私を、物理的に、守って、くださった……!)
脳内でその事実を再生しかけては、「いや駄目今は正気を保ちなさい」と全力で押し留めるという、別方向の激しい戦いへ突入していた。
そして当然ながら。
そんな私の限界パニックなど知る由もないクライスは、前だけを見たまま、ただ一度だけ。
ほんのわずかに、歩幅を緩めた。
まるで、私が隣へ並びやすいように。
その無自覚でささやかな変化が、今の限界オタクの私には。
どんな甘い言葉よりも、よほど心臓に危険だったのである。
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