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婚約破棄の瞬間に「前世の記憶」が戻りまして。〜ヒロインの座は譲りますので、私は推しキャラの側仕えを目指します!〜  作者: 綾瀬蒼


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第14話 ポンコツヒロインの限界と王太子の焦燥

 王宮というものは、一度ほころび始めると、驚くほど早く崩壊が広がる。


 それはある日いきなり天井が落ちてくるようなものではない。

 もっとこう、じわじわと、しかし確実に。気づけば床板が軋み、柱にひびが入り、使用人たちの顔色が悪くなり、文官たちの声が乾いて死んでいくような壊れ方をする。


 そして今の王太子執務室は、まさにそういう“完全崩壊三秒前”の音に満ちていた。


「……まだ終わらんのか」


 アーサーは机へ両肘をつき、目の前の文官を睨みつけた。


 だが、睨まれた文官の方はもはや驚きもしない。ここ数日で、彼らは十分すぎるほど悟っていた。

 王太子殿下の機嫌は、執務の停滞量に比例して悪くなる。そして、その執務量を裏で完璧に捌いていた『全自動処理サーバー』は、もうここにはいない。


「恐れながら、終わりません」

 年配の文官は、一切の感情を排した声できっぱりと言った。

「本日の午後には、隣国エルトラーデよりの使節をお迎えする準備もございます。そちらの最終確認だけでも――」

「それならそちらを優先しろ!」

「既に最優先で進めております」

「ならなぜ、まだこんなに未決裁の山が残っている!?」


 ドンッ! とアーサーが机を叩く。

 その拍子に、端へ無造作に積み上げられていた書類のタワーが崩れ、数枚が床へ滑り落ちた。


 ……以前なら、こういう時には何も言わず、白い手がスッと伸びていたはずだった。

 机上を乱れなく整え、必要なものと不要なものを瞬時に分け、アーサーの気が散らないよう自然に片づける、銀髪の婚約者が。


 だが今は違う。

 落ちた書類を拾う者もいなければ、王太子の怒声で固まった空気を和らげる者もいない。

 ただ、過労で顔色の悪い文官たちが、心の底から「面倒くさい(自分で拾えよ)」と思いながら立ち尽くしているだけだ。


「アーサー様……」


 そこで、執務室の隅から甘ったるい声がした。ミレーヌである。


 淡い桃色のドレスに、ふんわりと巻いた髪。見た目だけなら確かに庇護欲をそそる愛らしさだ。

 だが今の王太子執務室に必要なのは、愛らしさではなく『圧倒的な事務処理能力』だった。


「そんなにお疲れなら、私が何かお手伝いを……」

「……何をするつもりだ」

「今日はエルトラーデの使節が来るのでしょう? お茶会のお菓子の手配とか、歓迎の飾りつけとか……」

「それは侍女の仕事だ」

「で、でも! 私、光の聖女としてお部屋に祝福を――」

「ミレーヌ」


 アーサーは珍しく、苛立ちを隠せないきつい声を出していた。

 ミレーヌがビクゥッと肩を震わせる。アーサー自身、すぐにしまったと思ったが、今は彼女のご機嫌を取る余裕すら残っていなかった。


 隣国エルトラーデ。

 王国との『不可侵条約更新』を控えた、極めて重要な相手国だ。

 本来なら、数日前には提出文書の整備と、来訪使節への応対マニュアル、贈答品の確認まで全て終わっているはずだった。


 だが今は、そのどれもが致命的に遅れている。


 条約更新草案は、先日の『ミレーヌ激甘紅茶ぶちまけ事件』で一度完全に滲み、現在の清書版にはルシアが残していたはずの繊細な注記ニュアンスが欠落している。

 来訪使節への席順案は、祭礼警備案との兼ね合いでまだ二転三転している。

 贈答品目録に至っては、王宮倉庫の在庫確認すら間に合っていない。


 何もかもが、綱渡り以下の状態だった。

 そしてギリギリであると同時に、アーサーは薄々、しかし確実な恐怖と共に気づき始めていた。


 ――自分一人では、全体がまったく見えない。


 どの書類が重要かは分かる。だが、どれから手をつければ一番効率がいいのかが分からない。どこへ先に指示を飛ばせば連鎖的に他省庁が動くのかが分からない。

 結果、目の前の案件へその場しのぎで手を出し、後から別件が大炎上する。


 まるで、自分が政務を回しているというより、政務という巨大な濁流に呑み込まれ、溺れかけているみたいだった。


(……そんなはずはない)


 アーサーは苛立ちを押し殺し、椅子の背へもたれた。

 自分は優秀な王太子だ。幼い頃から帝王学を学んできた。多少、裏方の小間使いが一人抜けた程度でここまで国政が混乱するなど、絶対に認められるはずがない。


 だが、その“多少”があまりにも巨大な『国家の致命傷』になりつつあることも、もはや否定しきれなくなっていた。


 ◇ ◇ ◇


 決定的な問題は、その日の午後に起きた。


 エルトラーデからの使節を迎える小広間。

 外交儀礼としては中規模だが、条約更新の事前確認という重要度は極めて高い。王太子が直接応対するには十分すぎる場だ。


 本来なら、こうした場では席順、飲み物の温度、話題の誘導、退出の順序に至るまで、ルシアによる完璧な台本シナリオが用意されていた。


 そして、本来ならミレーヌはここにいるべきではなかった。


「アーサー様! 私、お口にチャックをして端っこで大人しくしておりますから!」


 今さらになってアーサーは、なぜあの時、涙目で懇願する彼女を断りきれなかったのかと深く後悔した。


 最近、ミレーヌは明らかに王宮内で孤立し、焦っていた。

 執務では一切役に立たない。書類を任せれば事故テロを起こす。文官や侍女たちの視線も、以前の「可愛らしい聖女様」から「足手まといの疫病神」へと変わりつつある。

 だからこそ、“せめて外交の場では王太子の隣にいたい”と強く願ったのだろう。


 アーサーもまた、そんな彼女を邪険にはできなかった。何しろミレーヌは、自分がルシアを捨ててまで選んだ“真実の愛”の相手なのだから。


(ただ座っているだけなら、問題ないだろう)


 そう甘く判断した。

 それが、取り返しのつかない間違いだった。


 エルトラーデの使節は、四十代半ばほどの外務卿補佐官と、その随員二名。

 一見して穏やかな笑みを浮かべていたが、言葉遣いも所作も、一流の外交官らしい食えない隙のなさがあった。


「本日はお招きいただき、感謝いたします、アーサー殿下」

「こちらこそ、ようこそお越しくださいました」


 表面上の挨拶は恙ない。問題はここからだ。

 エルトラーデ側が、今回の来訪目的として『不可侵条約更新の確認』と、あわせて『国境沿い通商路の安全協議』に触れた時。

 アーサーは一瞬だけ、机上の資料へ視線を落とした。


 そこには、文官が徹夜で作った要点整理の紙がある。だが、読めるようでいて、どこか要領を得ない。

 以前なら、こんな曖昧なまとめではなかったはずだ。もっと端的で、相手の要求の裏の裏まで言語化され、どのカードをどの順序で切ればいいかまで、ルシアの手によって完璧に視覚化されていた。


 その一瞬の『王太子の迷い(沈黙)』を、ミレーヌはあろうことか“気遣いをアピールする絶好のチャンス”だと判断してしまったらしい。


「アーサー様、きっとお疲れですわね」


 張り詰めた外交の場に、そぐわぬ甘い声が響いた。

 使節も、文官も、侍従も、ピタリと動きを止める。


 ミレーヌは無邪気な笑顔のまま、応接卓の方へ一歩進み出た。


「最近ずっと書類仕事がお忙しくて、大変なのです。でも、アーサー様ならきっと大丈夫ですわ。だって、今までは全部ルシア様が裏でやっていたような難しいお仕事も、これからはちゃんとご自分でなさるって決めたんですもの! えらいです!」


「…………」


 死のような静寂が落ちた。

 あまりにも。あまりにも最悪の、国益を損なう一言だった。


 王太子が政務を他者へ完全依存していたこと。

 しかも、その“他者”は今や婚約破棄された元婚約者であること。

 さらに、その有能なブレインの不在により、現在王太子の政務が致命的に滞っていること。


 その国家の恥部すべてを、隣国の外交官の目の前で、明るく無邪気に暴露したのである。


 アーサーの顔が、みるみる土気色に引きつった。


「ミレーヌ」

「はい?」

「黙れ」

「えッ……」


 その低く絞り出した声には、隠しきれない殺気が滲んでいた。

 ミレーヌの笑顔が凍りつく。

 だが、外交的敗北はそれで終わりではなかった。


 エルトラーデの補佐官が、極めて穏やかに、腹の底を見せない笑顔で口を開く。


「失礼ながら、今のお話は……」

「気にされる必要はない」

 アーサーは即座に遮った。

「つまらぬ内輪話だ。忘れてくれ」

「なるほど。では、現在の条約更新草案に関して、王国側の『実務上の確認体制』には、何ら問題がないと理解してよろしいでしょうか」

「当然だ」


 アーサーは虚勢を張って答えた。答えたのだが。

 その瞬間、背後に控えていた王宮文官の一人が、絶望でほんのわずかに顔をしかめたのを、補佐官は見逃さなかった。


 外交官というものは恐ろしい。彼らは言葉だけでなく、沈黙と、その場にいる下っ端の表情の揺れから『真実』を正確に読み取る。


 補佐官は、より一層にこやかに続ける。


「さようでございますか。実は、こちらへ先日お送りいただいた仮草案ですが。一部、第三項と附則の整合性に『致命的な齟齬』がありまして」

「……齟齬?」

 アーサーが冷や汗をかきながら眉をひそめる。

「ええ。通商路の警備分担に関する文言と予算負担割合が、前回会談の合意内容と微妙に、かつ王国側に不利な形で異なっておりました」

「そ、そんなはずは……」

「ございますよ」


 補佐官は懐から写しを取り出し、静かに机上へ置いた。

 文官たちの間に、ヒュッと息を呑む音が響く。


 アーサーはそれを見て、一気に全身から嫌な汗が噴き出すのを感じた。

 その文言は、本来ならルシアのチェックによって完璧に修正済みであるはずの部分だった。ミレーヌが紅茶をぶちまけ、文官が徹夜で『文脈から推測して』復元した、あの箇所だ。


「こ、これは最終稿ではない。手違いだ」

「左様でございますか」

 補佐官の笑みは崩れない。

「では、どれが最新の正しい草案か、今この場でご確認いただけますかな?」

「それは……」


 できない。

 なぜなら、最新稿の差し込み指示がどこまで反映されていたか、アーサー自身がまったく把握していないからだ。


 以前なら、ルシアが必ず斜め後ろに立っていた。

「こちらが最新です」

「その条文はすでに当方で修正を終えております」

「この話題は今は触れない方がよろしいでしょう。別の切り口をご提案します」

 そうやって、阿吽の呼吸で完璧なフォローを入れていた。


 だが今、斜め後ろを見てもいるのは。

 空気を読めずにオロオロと青ざめているミレーヌだけだった。


「アーサー様……私、何かまずいことを……?」

「黙っていろと言っただろうが!!」


 思わず怒鳴った声が、小広間へ響いた。


 ミレーヌがビクゥッと肩を震わせ、大きな瞳からポロポロと涙をこぼす。

 使節側の随員が、哀れなものを見るように視線を交わした。

 完全に、底の底まで最悪だ。


 外交の場で感情をコントロールできず、しかも同席させた女性へ怒声を飛ばす。それだけでも王太子としての器(印象)は致命的なのに、今の一連の流れで「王国の実務能力は現在完全に崩壊している」という確信まで与えてしまった。


 補佐官は、極めて丁寧な、しかし冷ややかな声音で言った。


「本件、急ぎません。改めて、王国側で『体制が整った形』でご確認いただければ結構」

「……ああ」

「ただし、条約更新期限はあと五日と近うございます。こちらとしても、これ以上の遅延は望みませぬので」

「分かっている……!」


 会談はそのまま、形式上は穏便に終わった。

 だが、これが『王国の完全敗北』であることを、その場にいた全員が理解していた。


 ◇ ◇ ◇


 使節が帰った後の小広間は、地獄だった。


「なぜだ!!」

 アーサーの怒声が、壁へぶつかる。

「なぜ、あんな初歩的な齟齬が残っているんだ! お前たちは節穴か!?」


 文官たちは誰も口を開けなかった。いや、開けば「お前が紅茶塗れにした書類を無理やり復元させろと命じたからだろうが」という正論が出てしまい、余計燃えると分かっていたからだ。


 ようやく年配の文官が、寿命が十年縮んだような疲れた声音で言う。


「……本来なら、ルシア様が隣国大使と直接照合し、文言の機微を調整なさっていた部分でございます」

「またルシアか!! いい加減にしろ!!」


 アーサーが机を蹴り飛ばす。


 ミレーヌは部屋の隅でヒックヒックと泣きじゃくっている。侍女が必死に慰めているが、今の殺伐とした空気では焼け石に水だ。


「私、そんなつもりじゃ……ッ」

「つもりの話ではない!」

 アーサーが血走った目で振り返る。

「神聖な外交の場で、なぜあんな底抜けに馬鹿な余計なことを言った!」

「だ、だって……アーサー様を励ましたくて……ルシア様がいなくても大丈夫だって……」

「お前のその口が、王国を危機に晒したんだぞ!」


 ミレーヌがワァッと泣き崩れる。


 ああもう、とアーサーは頭を抱えてしゃがみ込みたくなった。

 怒鳴りたい。だが怒鳴れば泣く。泣けば話し合いにならない。そうしている間にも、条約更新の期限は無情にも近づく。


(最悪だ……)


 もしエルトラーデ側が“王太子は無能、王宮内政は現在崩壊中”と判断すれば、条約更新で確実に足元を見てくる。通商路の関税条件を不当に釣り上げられるかもしれない。

 それだけは、絶対に避けねばならない。


 だが、どうする? 誰が整える?

 誰があの条文の差異を洗い直し、エルトラーデ側の真の意図を汲み取り、完璧な修正版を五日以内に作れる?


 答えは、あまりにも明白だった。


「……ッ」


 アーサーはギリッと奥歯を噛みしめる。

 認めたくない。認めたくはない。だが、自分では絶対に無理だ。


 そして、そんな絶望的な状況に追い打ちをかけるように。

 最近、王宮内でまことしやかに囁かれている『噂』があった。


「……第一騎士団では、元婚約者殿下のルシア様が、すっかり重用されているそうで」


 誰かが、ポツリと漏らした。

 アーサーの顔が跳ね上がる。


「何だと?」


 その声に、室内の空気がまた凍る。だが、いったん出た話はもう止まらない。


 若い書記官が、おそるおそる口を開いた。


「い、いえ。王宮内でもかなり噂になっておりまして。悪徳業者の不正を暴いたとか、騎士団の補給を一新して討伐効率を劇的に上げたとか……」

「……」

「その、第一騎士団の屈強な騎士たちからは、『女神』のようにかなり慕われているようでして」

「慕われている、だと?」


 胸の奥で、ドロドロとした黒い感情が広がった。


 慕われている。あのルシアが。

 あの、いつも自分の斜め後ろで、自分の影として当然のように働いていた女が。

 今は騎士団で、感謝され、頼られ、重用されている?


 意味が分からない。

 いや、理屈の上では分かる。ルシアは有能だった。その有能さが他所で使われれば、評価されるのも当然だ。


 だが、感情が絶対に納得しなかった。


(なぜだ)


 なぜ、あいつが。

 なぜ、むさ苦しい騎士団で。

 なぜ、そんなに楽しそうにやれている?


 本来、ルシアは自分の隣にいるべきだった。自分を支え、王太子妃として裏で泥を被り、自分のために必要なものを整えるべき“便利な道具”だった。

 それを、勝手に飛び出して。勝手に他所で役に立って。勝手に感謝されている。


 しかも、そのせいで。

 自分の周囲だけが、目に見えて悲惨なほど回らなくなっている。


「ふざけるな……ッ」


 気づけば、そんな言葉が零れていた。

 ミレーヌがビクゥッとする。文官たちも息を止める。


 だがアーサーはもう、完全に思考が歪み始めていた。


 これはルシアの当てつけだ。そうに違いない。

 自分が困ると分かっていて、わざと騎士団などへ行ったのだ。わざと有能さをアピールする噂を流し、自分へ“ほら、私が必要でしょう? 早く迎えに来てください”と見せつけているのだ。


 そう考えれば、すべての辻褄が合う。そして、妙に腹の底が煮えた。


(あいつ……私の気を引くために、ここまで国政を混乱させるとは……)


 戻ってくればいいものを。泣いて足元にすがりつけば、許してやったかもしれないのに。それを、騎士団で男どもにちやほやされているだと?


 アーサーの中で、焦燥と苛立ちと、肥大化した自己愛がぐしゃぐしゃに混ざって膨れ上がっていく。


 ◇ ◇ ◇


 その夜。

 王太子執務室では、日付が変わっても灯りが消えなかった。


 条約更新草案の再点検。前回会談記録との照合。エルトラーデ側へ返す補足文面の作成。やるべきことは山ほどある。

 だが、アーサーの頭は何度も別の方向へ逸れた。


 第一騎士団。ルシア。重用。慕われている。


 耳につく。妙に、腹立たしいほど耳につく。


「殿下」

 年配文官が、死にそうな声で恐る恐る声をかける。

「本件、明日には修正版の骨子を固めませんと間に合いません」

「分かっている!」

「ただ、その……前回会談時の非公開の補足ニュアンスに関しては、ルシア様が個別に記憶し、整理されていたはずで……我々ではどうしても……」

「……」


 まただ。また、ルシア。ルシア、ルシア、ルシア。


 アーサーは、じわじわと募る怒りの中に、どうしようもなく別の感情が混じっていることを自覚していた。


 焦りだ。

 自分の手元に『便利な所有物』がないことへの、焦り。

 自分の知らない場所で、あいつが“自分なしで生き生きとやれている”ことへの、強烈な焦り。


 そして。

 その焦りはいつしか、ひどく歪んだ形で自分を納得させ始める。


 そうだ。あいつはまだ、自分を見ているはずだ。

 だからこそ騎士団などにいる。当てつけで、気を引きたくて、嫉妬させたくてそんなことをしているに違いない。でなければ説明がつかない。

 あの高慢なルシアが、自分へ何の未練もなく離れていけるはずがないのだから。


「……探らせろ」


 ポツリと、アーサーは言った。

 文官が顔を上げる。

「は?」

「第一騎士団だ。ルシアが何をしているか、誰と親しくしているか、詳しくだ」

「殿下、今はそんなことをしている場合では――」

「命令だ!!」


 文官は一瞬だけ絶望に口を閉ざし、それから深く、深く頭を下げた。


「……承知いたしました」


 アーサーは椅子へ深く座り直した。

 机の上には、未整理の条約草案。隣には、返答待ちの補足文案。そのどれもがまったく片づいていない。

 なのに彼の頭の中にあるのは、傾きかけた国政のことではなく。

 第一騎士団で働く、銀髪の令嬢のことばかりだった。


 ルシア。

 あいつは今、どんな顔でいるのか。誰の隣に立ち、誰に感謝され、何を得意げにこなしているのか。


 そして何より。

 そこへ王太子たる自分が直々に迎えに現れた時、どんなに嬉しそうな、泣きそうな顔でひれ伏すのか。


(……戻ってこいと命令してやれば、喜んで尻尾を振るだろう)


 そんな発想が、極めて自然に浮かんでくる。恐ろしいほど、自然に。


 だがアーサーはまだ知らない。

 その考えが、どれほど愚かで。どれほど自分本位で。

 そしてどれほど『盛大で滑稽な勘違い』の上に成り立っているかを。


 その致死的な事実を、彼はもう少し先で。

 よりにもよって、最強の武闘派集団である第一騎士団のど真ん中で、嫌というほど思い知ることになるのである。



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