第122話 思い出の場所(のような丘)へのドライブ
休日の夕方。
私は、愛するクライス様――現代名で言えば九条柊介さんの運転する、高級セダンの助手席で、たいへん静かに、そして厳かに硬直していた。
理由は、火を見るよりも単純である。
「……あの、九条さん。不躾ながらお尋ねしますが、私たちは今、どちらへ向かっておりますの?」
私が恐る恐る尋ねると、ハンドルを握るクライス様は、前方を見据えたまま、いかにも「最高に格好いい俺」といった風な静かな声音で答えた。
「着けば分かる」
「…………」
出ましたわね。
その、オタクの情緒を完膚なきまでに破壊する神セリフ。
私は、膝の上で組んだ両手を、震えを止めるようにギュッときつく握りしめた。
「クライス様」
「何だ」
「そのお言葉、前世でも全く同じシチュエーションで聞きましたわ」
「そうだったな」
「しかも、私の人生において最も重要な、あの『プロポーズの日』に!」
「ああ」
「よりによって、その全く同じ返しを、記憶を取り戻した直後のこの現代日本でなさるのは……控えめに言って私の心臓への殺傷能力が強すぎますわ。供給の過剰摂取で死にます」
「そうか」
「そうですわ」
「なら、目的地まであと少しだ。それまで我慢しろ」
「……」
ああもう!!
その“もう少しだけ”という不器用な甘やかしも、耳にタコができるほど聞き覚えがございますのよ!
車は都心のコンクリートジャングルを抜け、少しずつ建物の密度が薄くなっていく。
窓の外には、燃えるような夕暮れの光が流れていた。
立ち並ぶ高層ビルのガラスに反射する、鮮やかな茜色。
やがて広がる閑静な住宅街。
そして、視界の端々に少しずつ増えていく、深い緑。
その移り変わる情景は、まるで前世で王都の中心街の石畳を馬車で外れ、あの懐かしい小高い丘へ向かった時のようだった。
前世。あの日。
最高級レストランでの昼食を終え、あまりの尊さに既に私の精神的HPが赤ゲージで点滅していたところを、クライス様は何の説明もせず私をあの丘へ連れて行った。
黄金色の夕暮れ。
空に輝き始めた一番星。
眼下に広がる王都の灯り。
夜風に揺れる、名もなき草。
そして、跪いた彼が口にした、あの誓い。
――俺の妻として、一生、俺の隣にいてほしい。
「っ……!」
私はその光景を鮮明に思い出した瞬間、反射的に胸元を強く押さえた。
駄目ですわね。
何十年分もの濃密な人生を経て、さらに転生して現代日本にいるというのに。あの時の、彼の震える指先と真っ直ぐな瞳の破壊力は、今でも余裕で私に致命傷を与えてきますわ。
「ルシア」
運転席から、耳に心地よい低い声が落ちる。
「……はい」
「顔が、夕陽より赤いぞ」
「……思い出し赤面ですわ」
「何を思い出した」
「分かっていてお聞きですわね? 意地悪ですわ、クライス様」
「少しな」
「本当に、お性格が変わっていらっしゃらなくて安心しますわ」
「今さらだろう」
クライス様の口元が、楽しそうにほんの少しだけ緩む。
ああ。
真剣な顔で運転するその横顔。
現代文明の粋を集めた高級車。
仕立ての良い黒いシャツ。
大きな手で、軽やかにハンドルを扱うその仕草。
前世の馬車を御す姿や、荒々しく騎馬を操る姿とは違う。
違うのに、その身から放たれる圧倒的な覇気とやさしさは、どこまでも私の愛したあの人そのままだ。
私の推しが、現代文明のハンドルを操り、私をエスコートしている。
それだけで、本日のオタクへの公式供給は、もう十分すぎるほどに強すぎます。
◇ ◇ ◇
やがて車は、街の喧騒を完全に離れ、緩やかな山道へと入った。
街灯はまばらになり、窓の外には濃い緑の影と、遠くに海のように滲む街の灯りが見え始める。
夕暮れはとうに深まり、空は深い群青色へと溶け込んでいた。
カーナビの目的地表示を見る限り、目指しているのは山頂付近にある有名な展望台らしい。
「……本当に」
私は窓に映る、自分と彼の影を見つめながら小さく呟いた。
「似ていますわね」
「何にだ」
「前世の、あの星降る丘に」
「ああ」
クライス様は、懐かしむように短く頷いた。
「……わざわざ、あの場所に似ている地形をこの近辺で探したんだ」
「探した? 秘書である私の知らないところで?」
「前に……記憶が完全に戻る前から、だ」
「……え?」
「夢で何度も見たんだ。王都の街明かりと、降るような星空と。……そして、そこにお前が、今にも泣きそうな顔で立っている光景を」
「っ……」
私は、思わず言葉を失い、喉の奥が熱くなった。
記憶が完全に戻る前。現代の『九条柊介』として冷酷に生きていた頃から、彼は魂の深いところで、ずっとあの場所を、私を、見ていたのだ。
長い銀髪の、泣き虫な女。
風の吹く丘。
誓いの星。
交わした約束。
それを思うと、胸の奥がジンワリと熱い何かに満たされていく。
「それで……現代日本でも、あの時の約束を果たすために、似た場所を必死に探してくださったのですか?」
「ああ。……九条としての夢が、確信に変わり始めた頃からだ」
「……」
「当時は、なぜ自分がこんな場所に執着するのか、自分でも理由が分からなかった」
「……」
「ただ、行けば何かが分かる気がしたんだ。……いや、違うな」
「?」
「今ははっきりと分かる。俺は……あの日と同じように、もう一度お前をあの景色の中に連れて行きたかったんだ」
「っ……!!!!」
ああもう!!
どうしてこの方は、運転中という逃げ場のない空間で、さらっと致死量の殺し文句を平然とおっしゃるのか!!
危ないでしょう!! 主に私の心臓と、この世界の理性が!!
「……クライス様。……一刻も早く、一度車を停めていただいても?」
「なぜだ。まだ山頂ではないぞ」
「供給を処理します! 今すぐ脳内で額装しないと、溢れてしまいます!」
「……着いてからにしろ」
「着くまでに追加の爆弾を落とされる可能性が高いのです!」
「……ふっ、否定はしないな」
「否定してくださいまし!!」
クライス様は、愉快そうに肩を揺らして低く笑った。
その低音の笑い声だけで、車内の温度が数度上がった気がした。
◇ ◇ ◇
展望台の駐車場へ着く頃には、世界はすっかり夜の帳に包まれていた。
駐車場には数台の車があるだけで、人影は驚くほど少ない。
休日とはいえ、夜のこの時間は少しばかり穴場なのだろう。
ドアを開けて外へ踏み出すと、山の上の空気はひんやりと鋭く、都会の熱を帯びた風よりずっと澄み切っていた。
車を降りた瞬間、夜風が私の頬を優しく撫でる。
「……まあ」
思わず、感嘆の声が漏れた。
目の前には、圧倒的な光の海――夜景が広がっていた。
地平線の彼方まで続く、宝石を散りばめたような街の灯り。
大動脈のように流れる、車のライトの光の筋。
林立するビルの明かりが、まるで星屑みたいに地上の銀河となって瞬いていて。さらにその上空には、本物の、吸い込まれそうな星空が広がっている。
そこは、前世の王都ではない。
ここは魔法も騎士もいない、現代日本だ。
重厚な石造りの街並みも、天を突く王宮の尖塔も、ノスタルジックなガス灯の揺らぎもない。
でも。
「似ていますわね……」
私は、震える声で空を仰いだ。
「本当に。……あの日の丘に、そっくりですわ」
クライス様は、何も言わずに私の隣へ歩み寄った。
前世のあの日と同じように。
ちゃんと肩が触れそうな、愛する者の『隣』に。
その、当たり前のように並ぶ距離感だけで、私の胸はいっぱいになる。
前世の私は、彼に仕える側仕えとして、その背中を半歩後ろから見守ることを、オタクとして至上の幸せだと思っていた。
でも、あの丘で、彼は私に「妻として隣にいてほしい」と、対等の未来を望んでくれたのだ。
そして婚礼の日、私は「この特等席で一生推しを愛で続ける」と、大勢の参列者の前で高らかに宣言した。
そして今世。三周目の人生。
またこうして、私は彼の隣に、同じ体温を感じて立っている。
住む世界が違い。
呼ばれる名前が違い。
積み上げてきた人生が違っても。
それでも。私たちの魂が選ぶ『立つべき場所』は、あの日からずっと同じなのだ。
「ルシア」
「……はい」
「寒くないか。震えているぞ」
「大丈夫です。……少し、武者震い(興奮)が止まらないだけですわ」
「強がるな。……手はこんなに冷えている」
「……っ。……よく分かりますわね」
「当たり前だ」
クライス様は、極めて当然のような所作で、私の冷えた手を大きな手で包み込んだ。
「……昔から、お前のことは手に取るように分かる」
「っ……」
その、慈しむような一言だけで、また涙腺が危うい。
彼の手は、火傷しそうなほどあたたかかった。
現代を生きる、九条柊介としての手。
けれど、握る力強さと安心感は、やっぱり私の愛したクライス様の手。
前世で何度も剣を握り、私を幾多の死地から守り、私の我儘な涙を何度も拭ってくれた、あの手と同じ、愛おしい温度。
「……ずるいですわね、クライス様」
「何がだ」
「こんな完璧な場所で。……そのあたたかい手で」
「……」
「“昔から”なんて、私たちの積み重ねた時間を全肯定するようなセリフを、さらっとおっしゃるところが」
「事実だ。俺の魂に刻まれている」
「事実でも、限界オタクの心臓にはダイレクトに刺さりますわ!」
「なら、そのまま刺さっていろ。抜くつもりはない」
「ひどいですわね……!」
「……離す気もないからな」
「っ……!!」
もう駄目ですわ。
このお方、今世でも「火力調整」という語彙を、どこか異世界に置き忘れていらっしゃいますわ。
◇ ◇ ◇
展望台の端にある、古びたベンチへ二人で腰を下ろした。
足元には煌めく現代の街。
頭上には永遠を刻む星。
そしてすぐ隣には、世界で一番愛するクライス様。
我ながら、完璧すぎる布陣である。
私は煌々と輝く夜景を見下ろしながら、ポツリと、心の奥に溜まっていた想いを口にした。
「……あの日も、こんなふうに、景色が信じられないほど綺麗でしたわ」
「ああ」
「私はあの時、心臓が限界で死ぬかと思っていて。……でもあなたは、『全部このためだった』とおっしゃって」
「そうだったな。お前を驚かせるための準備に、随分と手間取った」
「私を妻にしたいと……あの方位磁石すら狂うほど無敵だったあなたが、私の前で跪いて」
「……」
「そして私は、あまりの尊さと幸福に」
「……大声で泣いたな」
「言い方! ……まあ、泣きましたけれど」
「かなり派手にな。あの時は焦ったぞ」
「……詳細に、昨日のことのように覚えていらっしゃいますわね」
「当然だ」
クライス様は、夜景を見つめたまま、祈るように静かに言った。
「……俺にとっても。あの日、お前を隣に迎えた瞬間は、魂が救われたような……一生、忘れられる日ではないんだ」
「……」
その声が、あまりにも静かで。
あまりにも深い慈愛に満ちていて。
私は、ただ彼を見つめることしかできなくなった。
「……俺は、不器用だった」
「え?」
「前世の俺は、今思い返しても、随分と回りくどくて可愛げがなかった。……もっと早く、素直に言えばよかったんだ」
「そうですか? 私は、あの日のあなたの不器用なエスコートのすべてが、一生の宝物ですわ」
「そうか」
「ええ。慣れない街へ二人で出て。……私のために、必死に似合う服を選んでいただいて」
「……」
「可愛い、と言って。……あの綺麗な髪飾りを贈ってくださって」
「……」
「わざわざこの丘へ連れて行って。……『俺の妻になってくれ』と言ってくださって」
私は、涙の奥で少しだけ悪戯っぽく笑った。
「……今でも、あのスチルを思い出すだけで心臓が止まって死にそうになります」
「死ぬな。……頼むから、俺の隣で生きろ」
「努力しますわ」
「努力ではなく、『守れ』と言ったはずだ」
「……ふふ。またそれ(名言)ですわね」
彼が、喉を鳴らして低く笑う。
ああ。この心地よいやり取り。
何度繰り返しても、胸の奥がじんわりとあたたかく満たされる。
「ルシア。お前は、あの日のあの場所で」
「はい」
「『俺の妻になる』とはっきりと言った」
「……言いましたわね」
「そして婚礼の日には、『俺を愛し続ける』と宣言した」
「……そんな、全世界に公開処刑された恥ずかしいセリフ、今この場で思い出させないでくださいまし!」
「なぜだ。俺は嬉しかったぞ」
「今になって少々、乙女としての羞恥心が限界値を突破しておりますの!」
「……ははっ。今さらだろう」
「本当に。今さらですわね」
私は真っ赤になって、両手で顔を覆い隠そうとした。
でも、彼の大きな手が私の右手をしっかりと握っているので、左手しか上がらない。
不自由で。……でも、それがまた、妙に誇らしくて幸せだった。
「でも。……あれは、私の魂からの本心でしたのよ」
私は、左手で少しだけ顔を隠しながら、小さく続ける。
「知っている」
「……私は本当に、前世のあの時から。一生あなたの『特等席』で、あなたを誰よりも愛で続ける(推す)つもりでした」
「ああ」
「……老いて、髪が真っ白になっても。……死が二人を分かつまで、あなたの隣にいられることが、私の人生の一番の幸福でしたの」
「……」
クライス様の、私を握る手に、少しだけ熱い力がこもった。
「……俺もだ、ルシア」
低い、地を這うような深い声。
けれど、夜風よりもずっと、ずっと温かい。
「……お前が俺の隣に立って、俺を見て笑っている。それだけで、俺の人生は十分に報われていた」
「……」
「それが、どれほど当たり前ではなく、尊いことだったか。……今世で、記憶を取り戻すまでの三十年間。……俺は、ずっと何か大切なものが足りないまま、空虚に生きていた」
「……」
「記憶が戻って、ようやく全てが繋がった。……俺の人生(魂)を完成させるには、お前という存在が絶対に必要なんだ」
「っ……」
私は、キラキラと輝く夜景を見ていたはずなのに。
視界が、瞬く間に溢れる涙でボロボロと滲んだ。
まったく。私の最推しは、またこうやって私を泣かせるではありませんか。
◇ ◇ ◇
「……クライス様」
「何だ」
「私……正直に申し上げますと、少しだけ、不安でしたの」
「不安? 何がだ」
「今世のあなたは、前世の記憶を失ったまま、三十年も『九条柊介』という一人の日本人として生きてこられたでしょう?」
「ああ」
「だから……もし前世の記憶が戻っても。私が心底愛したあの『クライス様』と、今世の冷徹な『九条さん』は、同じ魂でありながら、どこか違う人になってしまうのではないかと……思っていましたの」
「……」
「だから」
私は、胸の奥で澱のように溜まっていた、一番重い恐怖をそっと吐露する。
「……どちらのあなたも、私は前世と同じ熱量で愛せるのか。そして、どちらのあなたからも……私はもう一度、『ルシア』として選ばれていいのか。……少しだけ、怖かったのですわ」
言い終わった瞬間、私は自分の指先が、夜風のせいではなく激しく震えていることに気づいた。
前世の、私の大好きな旦那様の記憶が戻って、本当に嬉しかった。
嬉しくて、幸せで、奇跡だと思った。
でも同時に、彼が『九条柊介』として積み上げてきた、今世の貴重な三十年という時間を、私が『前世の思い出』という色眼鏡で、勝手に塗り潰してしまわないかが、怖かったのだ。
だって私は、あの不器用なクライス様を死ぬほど愛している。
でも。今世で私を秘書として見つけ出し、不器用に口説き、私を『恋人』として選んでくれた、あの孤独だった九条さんのことも。
同じくらい、狂おしいほど愛してしまったのだから。
クライス様は、私の震える告白を、黙って最後まで聞いていた。
やがて。……彼はゆっくりと、私を抱きしめるように引き寄せて口を開く。
「……ルシア。俺は、現代の『九条柊介』として、お前に惹かれた」
「……」
「前世の記憶なんて一片もなかったあの時、俺は俺の意志で、お前を秘書に選び、お前を隣に置きたいと願ったんだ」
「……」
「そして、今……『クライス』として全ての記憶を取り戻しても。お前を愛おしいと思うその重さは、何一つ変わらなかった。……いや」
彼は私の手を、指を絡めて、骨が軋むほどしっかり握り締める。
「……むしろ、全てのピースがはまって、お前への執着が数倍に膨れ上がったくらいだ」
「……!」
「だから、もう迷うな。俺は、俺だ」
「……」
「九条としての俺も、クライスとしての俺も。……どちらも、時と世界を越えて、お前だけを愛している俺なんだ」
「っ……!!(限界)」
ああ。もう。
本当に。本当にこの人は。私の心の不安を、剣で斬り裂くのが上手すぎますわ。
現代のビジネスの世界なら、その鋭い言葉で。
前世の魔法の世界なら、その誇り高き剣で。
どちらの時代においても。彼はいつだって真っ直ぐに、私の心の闇の一番深いところを、一刀両断に断ち切って光をくれる。
「……ズルいですわ、クライス様」
「またか。……何がだ」
「そんな、私が一番欲しかった『正解』の答えを。……迷いもなく、不意打ちでくださるところが」
「当然だ。俺とお前のことだろう」
「当然、ですの?」
「ああ。……お前の不安を全て斬り伏せて、お前を笑顔にするのは、前世からずっと俺の役目だ」
「っ……」
だめです。本当に。
今夜の、宝石を散りばめたような夜景よりも。隣で笑う、私の推しの方が何万倍も眩しくて尊いですわ。
「……では。私も、逃げずに申し上げますわ」
私は涙をハンカチで押さえながら、幸せに満ちた最高の笑顔で彼を見つめ返した。
「九条柊介さんも。……クライス・フェルド様も」
「……」
「どちらも、私の宇宙で一番の『最推し』ですわ!」
「……」
「そして、どちらのあなたも。……魂の底から、死ぬほど愛しております!」
「……」
クライス様が、その私の真っ直ぐな「告白」に、ほんの少しだけ驚いたように目を見開いた。
珍しい。……こういう時、あの完全無敵の彼も、ちゃんと私の一言で揺れてくれるのだ。
それが分かって。私は少しだけ、妻としての勝利を確信して嬉しくなる。
「……そうか。……それは、随分と愛が重いな」
「今さらですわ。ずっと重いですのよ」
「ふ……そうだったな。お前はそういう女だった」
「そうですわ。愛が私の魔力ですもの」
「……だが」
彼は、愛おしそうに私の頬を撫で、静かに笑った。
「……悪くない」
「『悪くない』、だけで済ませますの?」
「……最高だ、ルシア。お前以外の女は、もう愛せん」
「っ……!!!!」
やめてくださいまし!!
重さと火力が、明らかに私の生存限界を超えておりますわ!!
◇ ◇ ◇
しばらくの間。私たちは、肩を並べて静かに夜景を見つめていた。
会話は、多くはない。
でも、流れる沈黙は、かつてないほど心地よく、二人の魂を繋いでいた。
前世のあの星降る丘では、私たちの物語の『始まり』が刻まれた。
お互いのすれ違う恋慕が終わり、妻として隣に立つ、輝かしい未来が始まった。
そして。今世のこの夜景の丘では。私たちは、時を越えた『答え合わせ』をしているのかもしれない。
本当に、また出会えた。
本当に、また愛し合えた。
本当に、こうして隣にいる。
その奇跡の一つ一つを。……噛みしめるように。
「ルシア。前世のあの日、俺はお前に言ったな」
「……ええ。何をですの?」
「『半歩後ろではなく、俺の隣へ来い』と」
「……」
「今世でも、それは同じだ」
「……」
「秘書として、俺の隣で俺を支えろとは言わない。……だが」
彼は私を、射抜くような蒼い目で見つめる。
「俺の人生という名の戦場では……遠慮せず、ずっと俺の隣に立って笑っていろ」
「……っ」
その力強い言葉に、また胸の奥がギュゥッと熱くなる。
「……はい」
私は、ゆっくりと、深く深く頷いた。
「今世の人生では、最初から……あなたの隣に並んで立つ努力をいたしますわ」
「……努力、ではないだろう?」
「……ええ。『守れ』、でしょう?」
「ああ。……よく覚えているな」
「本当に。……本当にお好きですわね、あなた。その支配欲の強い言い回し」
「お前に言う機会が、あまりにも多いからだ。……自覚はないのか?」
「……それは、私が暴走しがちなのが悪いのでしょうか?」
「半分はな。……残りの半分は」
「?」
「……ただ、俺がお前に、独占欲を込めて言いたいだけだ」
「……正直すぎますわね、クライス様」
二人で、夜の山頂に響くほど、小さくクスクスと笑い合った。
その幸せな笑い声が、冷たい夜風の中へ、キラキラとした光の粒となって溶けていく。
◇ ◇ ◇
車へ戻る直前。クライス様は、展望台の柵のそばで、ふと立ち止まった。
「ルシア」
「はい」
「今日は、ここをお前に見せたかったんだ」
「……」
「前世のあの丘と、全く同じではない。……ここは魔法のない、鉄と電気の世界だからな」
「ええ。そうですね」
「だが……この新しい世界で、お前ともう一度、あの日に近い景色を一緒に見たかった」
「……」
「俺が全てを思い出したことを。……そして、今世でもお前への気持ちが、前世と同じ……いや、それ以上に強いことを。……言葉だけではなく、行動でちゃんと、お前へ示したかったんだ」
「……クライス様」
彼の言葉が、私の胸の奥の一番やわらかい場所へ、静かに沈み込んで満たしていく。
派手な愛の告白ではない。……正式なプロポーズでもない。
けれど。……私には、その一言一言が、どんな宝石よりも重く、価値のあるものだった。
あの星降る丘の尊い記憶を、現代の夜景で塗り潰して上書きするのではない。
『前世』も、『今世』も。
どちらも私たちの大切な、かけがえのない思い出として、等しく並べて大切にするのだ。
私は、彼の隣へ一歩進んで並んだ。
半歩後ろではなく。
ちゃんと、肘が触れ合う、対等な隣の位置に。
「クライス様」
「何だ」
「……私は今、宇宙で一番幸せですわ」
「……」
「前世のあの星降る丘も。……今世のこの煌めく夜景も。……どちらも、私の魂に刻まれる最高の宝物になりました」
「そうか。……なら、俺の勝ちだな」
「何がですの?」
「お前を喜ばせるという、俺の目的が、だ」
「……ふふ。はい。完敗ですわ。降参いたします」
彼の手が、私の手を優しく、けれど離さない強さで包み込む。
「……ルシア。また来よう」
「……」
「今日だけで終わりではなく。……この先の長い人生、何度でも」
「……」
「二人で、この景色を見よう」
「っ……」
ああ。……駄目ですわね。
“二人で”という、その何気ない言葉が。
こんなにも、泣きたくなるほどあたたかく響く。
「……はい」
私は、涙の奥で満面の笑みを見せた。
「何度でも。何度だって参りましょう」
「……」
「そして、そのたびに私は……『今日のあなたも、世界一尊くて格好よろしいですわ!』と、全力で愛(萌え)を申し上げますわね」
「……そこだけは、転生しても全く変わらないんだな」
「変わりません! 私のアイデンティティですから!」
「……そうか。……なら、俺も一生、お前のその愛の重さを正面から受け止める『覚悟』をしておく」
「ぜひ! 覚悟しておいてくださいまし!」
煌めく夜景の下で、私たちは二人で、幸せを噛み締めるように笑い合った。
私は思った。
前世のあの丘で、私は『妻』として隣に立つ未来を手に入れた。
そして。今世のこの丘で、私はもう一度、この人と人生を歩み、愛し抜くための、新しい『覚悟』を手に入れたのだ。
そして、きっと次に来る時も。……十年後も、二十年後も。
何度でも、今日と同じように、いや今日以上に思うのだろう。
この人の隣という『特等席』こそが。……私の、全宇宙で唯一無二の居場所なのだと。
◇ ◇ ◇
帰りの、静かな車内。
私は助手席のリクライニングを少し倒して、ぼんやりと流れる夜の街灯を眺めていた。
幸せが飽和状態(供給過多)になると、人間はむしろ、何も喋れず静かになるらしい。
いえ。私の場合は、尊さが臨界点を超えて脳内の情報処理が完全に止まった(フリーズした)だけかもしれませんけれど。
「……疲れたか、ルシア」
ハンドルを握るクライス様が、信号待ちで優しく聞いてくる。
「いいえ。……精神的には、みなぎっておりますわ」
「だが、さっきから随分と静かだぞ。大人しすぎて不気味だ」
「今日の出来事の一つ一つを、細胞に刻んで噛みしめておりますの。……反芻作業ですわ」
「……ふっ。相変わらず、やはり少し疲れているようだな」
「幸せ疲れですわ。……最高の疲労感ですわね」
「ならいい」
都心へ戻るにつれ、窓の外の人工的な明かりがどんどん増えていく。
静寂な山の空気から、現代の喧騒を帯びた街の夜へ。
でも、私の隣に座っている、この人の体温だけは。前世から何一つ変わらない。
「……あの、クライス様」
「何だ」
「今日は……本当に、本当に、ありがとうございました」
「……改めて礼を言われるようなことではない」
「いえ、言わせてくださいまし。……私のわがままですわ」
「……」
「私を……あの丘に似た場所へ連れて行ってくださって。……前世の私も、今の私も。……どちらも大切にしてくださって。……本当に、嬉しかったですわ」
クライス様は、しばらく無言で正面の道路を見つめていた。
やがて。……彼は静かに、けれど逃げ場のない声で言った。
「ルシア」
「はい」
「次は、もっと……お前を驚かせる」
「……?」
私は、彼の言葉にパチクリとゆっくり瞬きをした。
「……今、何とおっしゃいました? 次?」
「……何でもない。独り言だ」
「いえ、はっきり聞きましたわよ! 驚かせる、と!」
「聞き流せ。……サプライズの意味がなくなる」
「無理です! 気になって夜しか眠れませんわ!」
「なら忘れろ。……当日までな」
「もっと無理です! 期待値がカンストしてしまいます!」
「……ふ。そうか」
「そうですわ!」
「では」
クライス様は、バックミラー越しに、悪魔のように美しく、不敵に笑った。
「……楽しみにしていろ」
「…………」
私は、助手席で彫像のように固まった。
何でしょう。
何ですの、今の意味深で、圧倒的な自信に満ちた一言。
星屑のような夜景の丘。
前世の、あの涙のプロポーズの記憶。
そして帰り道の、“次はもっと驚かせる”。
これは。……これは、もしかしなくても。……いえ、間違いなく。
「……クライス様。……今後の私の心臓の寿命のために。……次回予告の『火力』を、もう少しだけ控えめにしてはいただけませんこと……?」
「無理だ。断る」
「即答ですのね!?」
「俺はお前を、世界で一番驚かせたい。……そして、世界で一番喜ばせたいんだ」
「……」
「これは俺の、愛する女に対する『わがまま』だ」
「っ……!!(尊死)」
私は、助手席でそっと両手で顔を覆った。
ああ。……もう、本当に。本当に。
前世でも、今世でも。……この人はいつだって、私のちっぽけな想像を遥かに超える形で、強引に、そして最高に幸せにしてくれるのだ。
だからきっと。……次に待っている『イベント』でも、私はまた、語彙力を失って処理落ちするのだろう。
でも。……それでいい。それがいい。
何度、自分のキャパシティを超えてパンクしても。
何度、嬉しくて泣いて、笑って、顔を真っ赤にして限界を迎えても。
私はこの人の隣という『特等席』で。……その愛の重さの全部を、一生かけて受け止めていきたい。
前世のあの、星降る丘の景色も。
今世のこの、宝石箱のような夜景の丘も。
そして。……これから二人で見ていく、まだ誰も知らない、新しい景色の全部を。
――全部、クライス様と一緒に。




