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婚約破棄の瞬間に「前世の記憶」が戻りまして。〜ヒロインの座は譲りますので、私は推しキャラの側仕えを目指します!〜  作者: 綾瀬蒼


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第11話 推しの手料理(まかない)で昇天

 その日の第一騎士団本部は、朝から晩まで修羅場だった。


 バシュレル伯爵一派を帳簿と証拠(物理)で黙らせた余波により、各部署から確認と再照会が殺到したのである。

 予算の組み直し、物資の再発注、補修費の見直し、ついでに「ルシア様、これも見てもらえますか」と持ち込まれる怪しい古い請求書の山。


「ルシア様、こちらの保存食在庫表なのですが」

「書式が古すぎますわね。新しいフォーマットへ転記を」

「ルシア様、この補修費の端数が合わなくて」

「前任者の計算の癖ですわ。ここの経費を切って、こちらへ寄せれば1ルピアの狂いもなく整います」

「ルシア様、相談が」

「順番にどうぞ」


 私は今日も今日とて、騎士団の書類と数字と悲鳴を高速で捌いていた。


(ふふ……皆様、私を『全自動処理サーバー』か何かだと思っていらっしゃいますわね……)


 いや、実際便利ではある。

 あるのだけれど、そろそろ「副団長付き側仕え」ではなく「騎士団の裏方を一人で三割ほど回す謎の特級公爵令嬢」みたいな立ち位置になっている気がする。


 だが、構わない。

 何しろ私は今、『推しの職場環境改善』という極めて尊い聖戦の真っ最中なのだ。

 多少の雑務増加など、前世の月末サビ残地獄に比べれば春のそよ風のようなものである。


 ……などと余裕の笑みを浮かべていたのだが。

 夕刻になって、騎士団本部の空気がガラリと変わった。


「副団長! 南区画で不審な魔力反応です!」

「数は?」

「現時点で三! ですが、散って動いています!」


 訓練場の方から駆け込んできた伝令の声に、室内の空気が一気に張りつめる。


 魔力反応。それも夜に入る前の南区画。

 王都の外縁に近い区域で、時折、凶悪な魔物が紛れ込むことがある場所だ。


 クライスは一瞬で立ち上がった。


「ローデン」

「了解! 第三隊、第四隊、夜間装備で出る!」

「捕縛より排除優先。住民避難は先に回せ」

「はッ!」


 騎士たちが一斉に動き出す。剣を取り、外套を掴み、伝令が走る。

 そして当然、私の視線はその中央で指揮を執るクライスへ吸い寄せられていた。


 夜間任務へ向かう前の推し。

 真剣な横顔。短く、必要な命令だけを的確に飛ばす低い声。

 いつもより一段冷えた殺気をまとって、無駄なく動く姿。


(……格好よすぎますわね……国宝では?)


 見惚れている場合ではない。いや、見惚れてはいるのだが、それはそれとして仕事だ。


「副団長」

「何だ」

「南区画なら、今夜は急激に気温が下がりますわ。帰還後すぐ、温かいものが必要になります」

「……そうだな」

「補給用の湯と簡易食まかないの手配をしておきます」

「頼む」


 その一言に、私はコクリと頷いた。

 頼む。今日も推しに頼りにしていただけた。尊い。

 だが今は噛み締めている場合ではない。


 私はすぐに事務室を出て、炊事場と備蓄庫へ向かった。


 ◇ ◇ ◇


 夜は、思った以上に長引いた。


 第一騎士団が出動してから、すでに三時間。

 本部には伝令が数度戻り、南区画の路地裏に潜伏していた中型魔物の群れを排除中との報告が入っている。


 大規模な討伐ではない。だが、だからといって気が抜ける類いでもない。

 夜の市街地は視界が悪く、足場も複雑だ。不意打ちも起こりやすい。


 私は副団長室の机へ向かいながら、何度も窓の外を見ていた。


(まだかしら……)


 気になって仕方がない。

 無論、クライス様がその程度の任務で後れを取るとは微塵も思っていない。思ってはいないけれど、心配なものは心配なのだ。オタクとはそういう生き物である。


 前世でゲームをやっていた頃は、イベントの先を知っていた。

 だが今は違う。この世界は、もう“知っているシナリオ”の上をそのまま動いているわけではない。だからこそ、少し怖い。


 私は気を紛らわせるように、帰還後すぐ処理できるよう報告書の下準備をしていた。出動時刻、部隊編成、想定被害欄。後で埋める部分だけ空け、推しが使いやすいよう整理しておく。


 その途中で、扉が控えめに叩かれた。


「ルシア様」

「どうなさいました?」

 入ってきたのは、若い騎士だった。

「炊事場なのですが……」

「はい」

「簡易食の仕込み、火加減だけ見ていただけますか? どうも焦がしそうで……」

「まあ」


 私は立ち上がった。

 もちろん見る。なぜなら、帰ってきた推しへ出すものが消し炭であってはならないからだ。


 炊事場へ入ると、大鍋で温めていた塩スープから、すでに若干の不穏な香りが漂っていた。見れば、薪の入れ方が雑で火力がまったく安定していない。


「これはいけませんわ」

「す、すみません!」

「謝る暇があるなら薪を整えてくださいまし。あと、乾燥肉は先に一度湯へ通して、余分な塩を抜いてから入れるべきでしたわね」

「えっ、そうなんですか?」

「そのまま入れると出汁より塩気が勝ちますもの」


 私は袖を軽く押さえ、鍋の前へ立った。

 火を落としすぎず、だが表面だけ沸かさない。乾燥野菜を戻し、香草を少量。胡椒は最後。夜間任務後の疲弊した胃腸へ負担が少ないよう、脂は控えめに。


 本来なら、これくらい誰かに任せてもいい。

 けれど、任せきれなかった。


 推しが戻る。冷えた身体で戻る。ならば、一番いい状態のものを用意したい。

 それはもう、理屈ではなくオタクの本能だった。


 ◇ ◇ ◇


 結局、騎士団が戻ってきたのは、夜もかなり更けてからだった。


 本部の正面扉が開き、外気と一緒に土と鉄の匂いが流れ込んでくる。

 疲労の滲んだ足音。鎧の擦れる音。短い報告の声。


 私は副団長室を飛び出しかけて、ギリギリで踏みとどまった。

 落ち着きなさい、ルシア。ここで真っ先に廊下へ駆け出せば、ただの忠犬である。私は有能な副団長付き側仕え。出迎えも、補助も、あくまでエレガントに。


 ……その結果、私は扉の前で直立不動の姿勢で待ち構えることになったのだが、それはそれだ。


 やがて、廊下の向こうにクライスの姿が見えた。


(……ッ)


 思わず、息が詰まる。

 無事だ。その事実だけで、まず胸がスッと軽くなる。


 外套には土埃がつき、剣帯の位置もわずかに乱れている。戦闘の痕跡はある。けれど歩き方はブレていないし、目も冴えている。大きな怪我はなさそうだ。


「お帰りなさいませ、副団長」

「……ああ」


 短い返答。だが、その声にはいつもよりわずかに深い疲労が混じっていた。


「負傷者は?」

「軽傷が二名。致命傷はない」

「よろしゅうございました」

「報告書は」

「下準備済みですわ。すぐに書き始められます」

「そうか」


 クライスは副団長室へ入る。私もその後へ続く。


 室内へ入った瞬間、彼の肩からピリッとした緊張がほんの少しだけ落ちたのが分かった。外では絶対に見せない疲れが、扉一枚隔てた途端に少しだけ滲む。


 私はすぐに上着を受け取り、机の上へ温かいお茶ではなく、まずは常温に近い水を置いた。戦闘直後に熱い茶は胃に重い。今は先に水分だ。


 クライスは黙ってそれを飲み干し、それから報告書へ手を伸ばす。


「副団長」

「何だ」

「先に、何か召し上がってくださいまし」

「後でいい」

「後では遅くなります」

「報告が先だ」

「報告は五分後でも逃げません」

「……」


 私はニコヤカに言い切った。


「ですが空腹は、確実に明日の体調へ響きますわ」


 クライスはしばらく私を見ていたが、やがて小さく息を吐いた。


「簡単なものでいい」

「もちろんですわ」


 私はホッと息をつき、すぐに炊事場へ向かおうとして――ピタリと止まる。


 ……しまった。

 鍋の方は、先ほど帰還した騎士たち全体へ配る分でかなり減っていた。副団長室へ運ぶには、もう見映えがよろしくない。

 温かいものはある。だが、“推しへお出しするもの”としては、今一歩クオリティが足りない。


 私は思わず眉を寄せた。


(どういたしましょう……)


 戻って私がもう一度作り直すか。いや、時間がかかる。ここで疲労した推しを待たせるのもよくない。


 その時だった。


「ルシア」

 低い声に顔を上げると、クライスが立ち上がっていた。

「炊事場へ行く」

「……副団長?」

「こっちだ」


 私は反射的についていった。

 向かった先は、本部奥の『小さな夜間用炊事場』だった。大鍋を扱う表の炊事場とは別に、夜勤の騎士たちが簡単なまかないを作るための小部屋らしい。


 そこへ入ったクライスは、迷いなく棚を開けた。

 保存食、乾燥麺、塩漬け肉、香草の束。手つきに一切の迷いがない。


「え……」


 私が呆然としていると、クライスは平然と言った。


「大鍋の残りは他へ回せ」

「はい」

「こっちは、俺が作る」

「……副団長が?」

「不満か」

「い、いえ! まったく!」


 不満なわけがない。むしろ大歓迎どころの騒ぎではない。

 何それ。どういうこと。

 推しが、まかないを作る? この場で? 私の目の前で?


(ご褒美ファンサが過剰ですわーーーッッ!!)


 私は内心で絶叫しながら、必死に外面を整えた。


「お手伝いは」

「水を」

「はいッ!」


 返事がスキップしそうに弾んだのは仕方ない。だって今から、推しの手料理イベントなのだから。


 ◇ ◇ ◇


 クライスの料理は、驚くほど無駄がなかった。


 まず鍋に水。その間に、塩漬け肉を薄く切る。乾燥野菜を戻しながら、香草を指先でちぎる。

 火加減を見る目が、剣の太刀筋を見る時と少し似ている。必要なタイミングで必要な分だけ動く。


 私は水差しを持ったまま、半ば完全に口を開けて見惚れていた。


(包丁を握る手まで格好いいのは反則では?)


 大事なのは、推しが『袖を少しまくって調理している』という事実である。

 鍛え抜かれた前腕。骨張った大きな手。火に照らされて落ちる長い睫毛の影。


 何これ。私、明日死ぬの?


「ルシア」

「は、はいッ」

「塩を」

「こちらですわ」

「……近い」

「あっ」


 いけない。知らず知らずのうちに、かぶりつくような距離まで詰めていたらしい。

 私は慌てて一歩下がった。

 だが、クライスは何も言わない。呆れたようでもなく、嫌がるようでもなく、ただ普通に鍋へ視線を戻す。


 その自然さが、逆に心臓へ悪い。


「副団長、お料理をなさるのですね」

「夜勤ではたまに」

「ご自分で?」

「食えるものが早くできれば何でもいい」

「まあ……」


 何でもいい、とは言うが。鍋から立ち上る香りは、既に十分美味しそうだった。

 塩だけでなく、肉の旨味を見越して薄めに調整している。香草も強すぎない。乾燥麺を入れるタイミングも絶妙だ。明らかに“何でもいい”で作る素人の手つきではない。


「慣れていらっしゃいますのね」

「必要だった」

「……そうですか」


 その一言だけで、胸の奥が少しキュウとした。

 クライスは昔から、誰かに頼るより自分で片づける方が早かったのだろう。食事も、怪我の手当ても、疲労も。多分そうやって一人で処理してきた。


 その姿を想像すると、妙に胸が苦しい。


 前世でゲームをしていた頃から、私は彼のそういう“誰にも甘えない孤高なところ”が好きだった。

 けれど、好きであると同時に、ずっと切なかったのだ。

 だってそれは、裏を返せば。「一人で我慢することに慣れすぎていた」ということだから。


「……どうした」


 気づけば、じっと見つめていたらしい。クライスがこちらを見た。

 私はハッとして微笑む。


「何でもございませんわ。ただ、手際が良いと思いまして」

「お前ほどではない」

「そんな」

「事実だ」

「……ッ」


 そういう何気ない肯定クリティカルヒットを、そんな顔で不意打ちに投げないでいただきたい。


 私はグッと堪えつつ、器を用意した。二人分。ええ、もちろん二人分である。

 クライスは完成した鍋を火から下ろし、ためらいなく私の前へ器を差し出した。


「先に食え」

「……私が?」

「そう言っている」

「ですが、任務終わりの副団長が先では」

「作ったのは俺だ」

「…………」


 何その俺様ルールのようで優しい理屈。正論なのに、妙にずるい。


 私はおそるおそる器を受け取った。

 湯気が立ち上る。薄く切られた塩肉、戻った野菜、香草の匂い。そこへ麺がほどよく絡んでいる。


「いただきますわ」


 一口。

 その瞬間。


「…………」


 私は、ピタリと止まった。


 あたたかい。


 舌に優しい塩加減。強すぎない肉の旨味。夜遅い時間でも胃に重くないのに、ちゃんと身体の奥へ落ちていく感じがする。

 疲れた心身に染み渡るとは、こういうことを言うのだろう。


 そして何より。

 これを、クライス様が作った。

 その事実が、味そのものを何万倍にもしていた。


(おいしい……)


 前世で、仕事帰りに一人で冷たいコンビニのおにぎりをかじった夜があった。

 残業続きで、終電間際で、何を食べても味がしなかった砂を噛むような夜。

 誰かが自分のために温かいものを用意してくれる、なんてことは一度もなかった。


 現世ではどうだったか。

 王太子妃教育の名の下に、食事すらカロリーと時間で管理されていた。温かくても、冷たくても、それは“義務として摂取するもの”でしかなかった。


 けれど今は違う。

 目の前のこの一杯は、違う。


 任務帰りの、疲れた夜に。この人が、自分の手で作ってくれた。

 それだけで、胸の奥の固く結ばれていた何かが、ひどく柔らかく解けていく。


「……どうだ」


 低い声に、私は顔を上げた。

 クライスが、いつもの無表情でこちらを見ている。だが、その視線の奥にはわずかな探るような色があった。


 待っているのだ。感想を。


(無理ですわ)


 そんなの。そんなの、言葉にできるわけがない。

 推しの手料理。任務後。二人きり。しかも味まで完璧。

 こんなの、限界オタクの処理能力キャパシティを完全に超えている。


 私は必死に微笑もうとした。


「……ッ、お、おいし、い……ですわ」

「そうか」

「とても……その、優しくて……」

「……」

「すごく……」


 だめだ。声が震える。

 いけない。ここで泣くのはおかしい。ただの一杯のまかないで泣くなど、どう考えても感情が重い。重すぎる。やめなさい、ルシア。淑女として、それはあまりにも――。


 ポタリ。

 器の縁へ、雫が落ちた。


「……ッ」


 しまった、と思った時には遅かった。

 視界がぼやける。喉の奥が熱い。どうしようもなく、涙が込み上げてくる。


「ルシア」


 クライスの声が近い。私は慌てて顔を背けた。


「も、申し訳ございませんわッ……!」

「何があった」

「い、いえ、何も、その、これは……」

「まず、器を置け」

「は、はい……」


 言われるまま、私は器を机へ置いた。それでも涙は止まらない。

 なんで。なんで今。やめて、本当に。こんなの、あまりにも恥ずかしすぎる。


 クライスが、少し困惑したように眉を寄せる。


「熱かったか」

「違いますわ……」

「どこか痛むのか」

「違いますッ」

「なら、なぜ泣く」


 そんなの、説明できるわけがない。


 あなたが作ったものがあまりにも優しくて。それが嬉しくて。あたたかくて。

 今まで自分がどれだけ、一人で理不尽に耐えることに慣れすぎていたかを思い知らされて。

 しかもそれをくれたのが、ずっと好きだった推しで――。


「……尊、くて……ッ」


「何?」


 しまった。心の声が漏れた。

 私は両手で顔を覆った。もう無理だ。終わった。完全に終わった。


「そ、その……ッ、副団長のお作りになったものが、あまりにも、おいしくて……やさしくて……ッ」

「……」

「こんなの、反則ですわ……」

「反則?」

「だって……こんな、こと、されたら……」


 言いながら、自分でも何を言っているのか分からない。だが、もう止めようがなかった。


 クライスはしばらく黙っていた。

 怒るかもしれない。呆れるかもしれない。さすがに重すぎると引かれるかもしれない。


 だが、しばらくして聞こえたのは。

 ごく小さな、息を吐く音だった。


 そして。


「……ただのまかないだ」


 その声は、思っていたよりずっと静かで、不器用なほど柔らかかった。


 私はそろそろと顔を上げる。

 クライスは困ったような、呆れたような、それでいてどこか『仕方ないものを見るような目』で、こちらを見ていた。


「大袈裟だ」

「お、大袈裟では、ございませんわ……」

「泣くほどか」

「泣くほどです」

「断言するな」

「いたしますわ……ッ」


 すると、クライスはほんの少しだけ口元を緩めた。

 笑った、というほどではない。だが、確かにいつもの冷たい無表情とは違う。


「……変なやつだな」


 その一言で、また涙が出そうになった。


 変なやつ。

 そう。多分、私は変なのだろう。

 推しの手料理で泣くし、訓練後の汗拭きで心肺停止しかけるし、帳簿を読んで悪徳貴族を物理で詰めるし。


 でも。

 その“変”を、この人は今、決して拒絶していない。


 それがどうしようもなく嬉しくて、私はグッと唇を噛んだ。


「……冷める前に食え」


 クライスはそう言って、自分の器へ視線を落とした。

 気遣いなのだと、すぐに分かった。これ以上、私が恥ずかしくならないように。何でもない顔で、食事へ戻してくれたのだ。


 本当に、この人は。不器用なくせに、そういうところだけ妙に優しい。


 私は鼻をすすり、必死に体勢(淑女の仮面)を立て直した。


「……はい」


 今度は、少し落ち着いてもう一口食べる。

 やっぱり、おいしい。

 そしてやっぱり、少し泣きそうになる。


 ◇ ◇ ◇


 食事を終えた頃には、私もなんとか人心地ついていた。

 器を片づけようと立ち上がると、クライスが先に手を伸ばす。


「置いておけ」

「ですが」

「後でいい」

「……承知いたしましたわ」


 私は素直に従った。さすがに、大泣きした直後に無理にシャキシャキ動くのも不自然だ。


 副団長室へ戻る帰り道、廊下は静かだった。夜も深く、騎士たちの気配もまばらである。

 私はクライスの半歩後ろを歩きながら、先ほどの自分を思い出して、ジワジワと羞恥で死にそうになっていた。


(最悪ですわ……)


 何が最悪って、あまりにも感情がそのまま出てしまったことだ。“尊くて”などと、何を口走っているのか。副団長付き側仕えとしてあるまじき失態である。


「ルシア」

「は、はいッ」


 また反射で声が裏返る。もう今日は駄目だ。心がずっと忙しすぎる。


 クライスは前を向いたまま言った。


「……明日も、遅くなる」

「え?」

「西門側の巡回再編がある。戻りは夜だ」

「はい」

「だから」


 一拍。


「今日みたいなものが必要なら、先に言え」


 私は、ピタリと足を止めかけた。


 今日みたいなもの。

 つまり。あの、まかない。


「副団長……」

「何だ」

「それは、あの……」

「食えた方がいいだろう」

「……はい」

「お前も」

「…………」


 お前も。


 その三文字が、胸の真ん中へ静かに、深く落ちた。


 ああ。

 この人は今、自分だけではなく、私のことも含めて言ったのだ。

 任務後の食事。遅い時間の疲れ。そういうものを、私にも『必要なもの』として扱ってくれた。


 それが、泣きたくなるほど嬉しい。


「……承知いたしましたわ」


 声は、今度こそ落ち着いていた。多分。


 クライスはそれ以上何も言わず、副団長室の扉を開ける。その横顔はいつも通り静かだったけれど、ほんの少しだけ、雰囲気が柔らかい気がした。


 気のせいかもしれない。でも、もし気のせいでなければ。


(……だめですわ)


 そんなことを考えるだけで、また胸が甘く騒いでしまう。


 私はそっと息を吐き、机の上へ残っていた報告書を整えた。仕事はまだ残っている。泣いたからといって終わりではない。


 それでも、今夜の私は知ってしまった。


 推しを遠くから尊んでいるだけだった頃には、決して手に入らなかったものがある。

 あたたかい食事。さりげない気遣い。「お前も」と一緒に並べて数えてもらえること。

 それはどれも些細で。けれど、些細だからこそ、心の奥深くへ染み込んでくる。


 その頃、炊事場の前を通りかかった若い騎士たちは。


「……副団長、まだあの小鍋出してたのか?」

「え、誰かに何か作ってた?」

「いや、もしかして」

「いやいやまさか……氷の副団長が誰かに手料理なんて……」


 などと首を傾げ。

 さらに翌朝、夜間炊事場に綺麗に洗われた『二人分の器』が並んでいたのを見て。


「副団長、誰かと飯食ったのか?」

「誰と?」

「……ルシア様では?」

「……あり得るな(確信)」


 と、第一騎士団の一部で「ついに二人が同じ釜の飯を」と静かな騒ぎが広がることになるのだが。


 当然そんなことは知らない私は、その夜、自室の寝台へ倒れ込むなり枕へ顔を深く埋めて。


「推しの手料理で泣いてしまいましたわーーーーーーッッ!!(恥死)」


 と、声にならない絶叫を上げながら、羞恥と幸福で朝までベッドの上を転げ回る羽目になったのであった。



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