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◆帝国編 第15話 ── 逆提案


■ 黒船の接岸


オルガ村の港に、未だかつてない「影」が落ちた。


朝の霧を切り裂いて現れたその船は、ヴァッサリア王国の商船とは比較にならない巨躯を持っていた。

三本の巨大なマストには、漆黒の帆が重々しく張られ、船首には鋭利な鉄の装飾が施されている。

フェルザン帝国、ブレイン商会の大型輸送艦「ブレイン号」である。


「……ありゃ。この前の船じゃねえか?」


桟橋で網をつくろっていたヴィントが、呆然と手を止める。

アジムの設計した「白い港」は、確かに大型船の接岸を想定して作られている。

その岸壁に圧倒的な威圧感を持って横付けされる黒い船体を見上げると、自分たちが作り上げたものが、まるで子供の玩具であるかのような錯覚に陥った。


船体から重厚なタラップが下ろされ、一人の男がゆっくりと降りてきた。

仕立ての良い上質な外套を纏い、目の奥で冷徹な知性を光らせる男。

ネイサンであった。


彼は土埃にまみれたオルガ村の地面を一歩踏みしめるなり、周囲を鋭く観察した。


「……やはりここはいい。石壁の継ぎ目、そしてこの港の傾斜。実に見事な『精度』だ」


ネイサンは、出迎えたアジムの姿を認めると、慇懃に頭を下げた。


「またお目にかかれて光栄です、アジム殿。以前はお忍びの商船船長として不躾な真似をいたしましたが……本日はフェルザン帝国のブレイン商会を預かる者として、改めてご挨拶に伺いました」


アジムは、男の指先をじっと見ていた。

王国の官僚ジュリアンとは違う。

この男からは、権力ではなく「数字と論理」の匂いがする。

それはアジムがかつて連邦で触れた、あるいはそれ以上に洗練された、巨大な産業の匂いだった。


「……要件は、管理棟で聞こう」


アジムの言葉に、ネイサンは薄く笑みを浮かべた。


■ 共通尺度の罠


管理棟の会議室には、身重の身体を椅子に預けたリーネも同席していた。

ネイサンは彼女の姿を見ると、より一層深い敬意を込めて一礼した。


「ルーン商会のトラベリオン殿の愛娘、リーネ様。ご懐妊、心よりお慶び申し上げます。帝国の皇室からも、貴方の商才と献身には高い関心が寄せられておりますぞ」


「お世辞は結構ですわ、ネイサン様。帝国の商人が、わざわざの再来。その『理由』をお聞かせ願えますか?」


リーネの問いに、ネイサンは短く頷き、鞄の中から一本の「棒」を取り出し、机の上に置いた。


それは、青白く鈍い光を放つ、磨き上げられた硬鋼製の定規だった。


「これは……?」

アジムが問う。


「これは、帝国の『基底定規』だ。フェルザン帝国が定める、最小単位から最大単位までを厳格に規定した、国家の背骨とも言えるべきものだ」


ネイサンは定規を指先でなぞった。


「帝国は今、大陸を横断する巨大運河と、北方を守る要塞線の構築を進めている。何万、何十万という労働者が、各地の工房で部品を作る。それらが一箇所に集まった時、ボルト一本、歯車一つが、寸分違わず噛み合うために必要なのは、優れた職人の腕ではない。……共有された『数字』なのだ」


「確かに同じものを作るなら、そうだな」


アジムが呟く。


「そうだ。この『帝国標準ブレイン・ボルト』を受け入れれば、アジム殿。貴方の作る港の大型装置に使われている『精密な軸受け(ブッシュ)』は、帝国の全土で、そしてあらゆる機械で即座に採用される。貴方は何もしなくても、帝国の巨大なシステムが、貴方の技術を黄金へと変えてくれるだろう」


ネイサンの目の付け所はやはり違う。

今までの者はその大きさに驚いたが、ネイサンは可動部の要点ともいうべき軸受に目をつけた。

これにはアジムもネイサンをただの商人ではないと思わせた。


ネイサンはさらに、図面を広げた。

それは、巨大な水門の心臓部にあたる、複雑な軸受けの設計図だった。


「だが、我々は壁にぶつかっている。巨大化すればするほど、共通の尺度で作った部品同士の『摩擦』が、膨大に増大するのだ。油脂を染み込ませた木材や、並の鉄の軸受けでは、数回の開閉で焼き付き、異音を発し、最後には自重で崩壊する。……我々に必要なのは、極限まで表面を整えた『摩擦を抑えたブッシュ』だ。それを、我が国の尺度で作ってもらいたい」


リーネが、アジムの隣で小さく息を呑んだ。

彼女は商人の感性で、この提案の裏にある「毒」を悟った。


「ネイサン様。それは、アジムの技術を帝国のシステムに『奉仕』させろ、とおっしゃっているのですか?」


「奉仕? いや、これは『共進化』だ。アジム殿の精度が、帝国の規模と出会う。これこそが、次代を拓く鍵ではないか」


ネイサンは自信満々に微笑んだ。


■ リーネの懸念


ネイサンを一度待機させた後、室内にはアジムとリーネの二人が残された。

窓越しに、港に停泊する黒い巨船が見える。


「アジム……気をつけて。あの男の言う『規格』は、優しい言葉のふりをした鎖よ」


リーネがアジムの手を握った。


「帝国は、貴方の独自の技術を、彼らの決めた数字の中に閉じ込めようとしているわ。一度その『物差し』を受け入れれば、貴方は帝国の指定する通りに部品を作るだけの、名もなき職人の一人にされてしまう。そして彼らは、貴方の技術を自分たちの尺度で完全にコピーし、用済みになれば貴方を切り捨てるつもりよ」


「わかってる。……数字に合わせるってことは、素材の『声』を聞くのを止めるってことだからな」


アジムは、自分の掌を見つめた。

彼には、土や鉄の「癖」がわかる。硬いのか、粘るのか、それとも脆いのか。

帝国の定規は、その個性を無視して「長さ」という一点だけで全てを測ろうとする。


「でも、あいつの言うことも一理あるんだ」


アジムは呟いた。


「この村で作ったバリスタの部品は、他の村では直せない。もし、世界中の物差しが一つになれば、もっと多くの人が、優れた技術の恩恵を受けられる。……それは、悪いことじゃないはずだ」


「それはそうかもしれないけれど……それを主導するのが、力による支配を望む帝国であるべきではないわ」


リーネの瞳には、かつて皇国で見てきた、巨大資本による技術の収奪に対する強い拒絶があった。


アジムは、机の上に置かれた帝国の重い定規を手に取った。

冷たく、厳格で、一切の妥協を許さない金属の塊。

これをそのまま跳ね除けるのは簡単だ。

だが、それではまた王国や皇国が入れ替わり立ち替わりやってきて、同じことを繰り返すだけだろう。


「……よし。決めたよ、リーネ」


アジムが顔を上げた。

その表情は、いつもの「迷える職人」ではなく、港を護る「港の主」のものだった。


■ オルガ村の逆提案


再びネイサンを招き入れると、アジムは彼が贈った「帝国の定規」を、静かに机の中央に戻した。


「ネイサン。あんたの言う『共通の物差し』の価値については、理解した」


「おお、では……!」


ネイサンが身を乗り出す。

だが、アジムは手でそれを制した。


「だが、帝国の定規を受け入れることはかまわない。だがそれは最低でも近隣の国の職人や技術者が納得したものじゃなければ意味はなさない。尺度は技術を語るための『言葉』だ。……一国の言葉を押し付けられては、対話にはならない」


ネイサンの目の奥が、鋭く細められた。


「ならば、どうすると?」


「提案がある」


アジムは窓の外、広がる海を指し示した。


「このオルガ村に、各国の技術者を呼ぼう。あんたたちフェルザン帝国、ルーン商会を擁するローザンヌ皇国、そして地の利を持つヴァッサリア王国。……各国の代表を集めて、ここで『世界共通の物差し』を決めようじゃないか」


ネイサンは、呆気に取られたように絶句した。


「……万国が、この漁村に集まるというのか? この帝国の全土でさえ数十年かけてようやく統一した規格を、見知らぬ他国と調整しろと?」


「すべてじゃなくていい。例えばまず、長さや重さの基準を決めようじゃないか。全国家が合意した、最も精度の高い基準だ。……それを決める場として、このオルガ村を貸してやる。そうすれば、その国際規格に従った『精密な軸受け』の製法を渡すよ」


アジムの提案は、もはや一職人の枠を超えていた。

リーネも、アジムのそのスケールの大きな逆提案に、驚き、そしてどこか誇らしげに微笑んだ。


「この村は中立だ。どの国にも、どの技術にも肩入れしない。だが、最高精度の技術だけはある。……世界が本当に一つの尺度で繋がろうとするなら、その起点はここであるべきだ。……どうだ、ネイサン。帝国に、その度量があるか?」


ネイサンはしばらくの間、沈黙していた。

計算高い彼の脳内で、無数の損得勘定が火花を散らしている。


帝国が独占するはずの利益が、国際標準という名の下に薄まるリスク。

一方で、もしこの会議を帝国が主導できれば、実質的に世界の産業の覇権を握れるチャンス。


そして何より、この「土魔法と鉄の匂い」を感じさせる若者が、自らのシステムの中にただ呑み込まれる器ではないことを、彼は認めるしかなかった。


「……面白い。実におもしろいぞ、アジム殿」


ネイサンは、心底愉快そうに、そして獲物を見るような鋭い笑みを浮かべた。


「個人の職人が、国家間の外交を規定しようとはな。……いいだろう。この『万国技術会議(仮)』の提案、本国に持ち帰らせてもらう。だが、他国が首を縦に振るかな?」


「王国の官僚は恩を売っておいた。皇国の商会は、隣の賢明な妻が説得してくれる。……あとは、あんたの番だ」


アジムの言葉に、リーネが深く頷いた。


翌朝、黒船「ブレイン号」は、重厚な汽笛のような号令と共に港を離れていった。

だが、その去り際にネイサンが残した言葉は、予言のように不気味で、そして挑発的だった。


「アジム殿、覚えておくがいい。物差しを統一するということは、世界が『比較可能』になるということだ。それは、最も安価で、最も大規模な者が、最後には全てを飲み込む残酷な競争の始まりでもあることをな」


■ 嵐の前触れ


港に再び波の音が戻ってきた。


「……あいつ、最後まで食えない男だったな」


アジムは桟橋に立ち、遠ざかる黒い船影を見送っていた。


「でも、良かったの? 本当に大きなことを言ってしまって……」


背後に歩み寄ったリーネが、少し不安そうに尋ねる。案の定、お腹に手を当てる彼女の仕草には、母としての防衛本能が見え隠れしていた。


「ああ。……正直、不安だよ。でも、これまでみたいに場当たり的に技術を出して、国同士の奪い合いを横で見ているだけじゃ、いつか本当に村が飲み込まれてしまう。……なら、こっちから『土俵』を作ってやるしかないんだ」


アジムは拳を握った。


その日の午後、村の空気が微かに震えた。

村外れの洞窟から、土地神の掠れた声が風に乗って聞こえてきた気がした。


『ウヒャア……あやつ、ついに禁忌の入り口に手をかけおった。共通の尺度……神の天秤を、人の手で計ろうなどとは……。沈む。本当に、この土地が沈んでしまうぞい……』


土地神の嘆きを他所に、村の工房では、アジムが新しいバネの弾性を確かめていた。

手元の「帝国の定規」を、今度は注意深く、しかし敬意を持って棚にしまう。


来たるべき、国家を背負った技術者たちの到来を予感しながら。

オルガ村の「見える革命」は、今、国境を超えた「測る革命」へと変貌しようとしていた。


海を渡る風は、少しだけ、鉄の冷たさを含んで吹き抜けていった。


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