第9話──残された村──
高台に避難した村人たちは、しばらく誰も言葉を発せなかった。
海から吹く風が冷たく、濡れた衣服を容赦なく奪っていく。
子供の泣き声だけが、静まり返った空気に響いていた。
アジムは背負っていた古老をそっと地面に下ろした。
バルじいは震える手でアジムの腕を掴む。
「……助かった。すまんのう。まさかあんな化け物が……」
「いえ……俺はただ……」
アジムは言葉を濁した。
助けたという実感よりも、“何もできなかった”という無力感のほうが強かった。
魔獣は浅瀬で暴れたあと、ゆっくりと海へ戻っていった。
村を破壊し尽くすことなく去ったのは幸運だった。
だが、次もそうとは限らない。
「……全員、無事か?」
壮年の村人が声を上げた。
その声は震えていたが、必死に落ち着こうとしているのが分かる。
「死人はいない!」
「けが人は……五人ほどじゃ」
「舟は一艘、完全に壊れた」
「家は……三軒が大破、他も壁が割れとる」
報告が続くたびに、村人たちの顔が暗く沈んでいく。
「……家が……」
「あんな化け物、どうすりゃええんじゃ……」
「また来たら、今度こそ……」
誰もが不安を抱えていた。
アジムは海を見つめた。
波は穏やかで、まるで何事もなかったかのように揺れている。
だが、あの巨大な影は確かに存在した。
そして、また来る。
「……網は、どうなった?」
壮年の男が問う。
「三枚は破れました。 二枚は……形は残ってますが、もう使えません」
アジムは正直に答えた。
「やっぱり、あれほどの魔獣には……」
「止めるのは無理じゃったか……」
村人たちの肩が落ちる。
「でも……死人は出ません」
アジムは言った。
「網がなかったら、漁師さんは助からなかった。 村にももっと被害が出ていたはずです」
その言葉に、村人たちは静かに頷いた。
「確かに……あれがなかったら、舟ごと潰されとった」
「浅瀬まで来たときも、網が絡んでなかったら……もっと速かったじゃろうな」
網は破られた。
だが、無意味ではなかった。
「問題は……次じゃ」
バルじいが深く息を吐いた。
「また来る。間違いなく来る。 あの魔獣は、村を“獲物の場所”として覚えたはずじゃ」
村人たちの顔が強張る。
「じゃあ、どうするんじゃ……」
「逃げるしかないんか……?」
「いや、逃げても追ってくるかもしれん」
「そもそも、どこへ逃げるんじゃ……」
意見が割れ始める。
アジムは拳を握った。
自分のせいではない。
だが、責任を感じずにはいられなかった。
「……俺に、もっと力があれば……」
その呟きに、バルじいが首を振った。
「アジム、お前のせいじゃない。 お前がおらなんだら、もっと酷いことになっとる」
「でも……」
「お前はようやった。 村を守ろうとしてくれとる。それだけで十分じゃ」
アジムは言葉を失った。
そのとき、別の漁師が声を上げた。
「網は……また作れるんか?」
アジムは少し考え、頷いた。
「鉄は……まだ少し残っています。 芋虫も、鉄線を作ることはできます。 ただ……大量には無理です」
「じゃあ、どうするんじゃ……」
「網を……もっと“狭い範囲”に集中して張るしかありません」
アジムは海を指さした。
「魔獣が来る方向は、ほぼ決まっています。 あの浅瀬の先……あそこからしか上がれないはずです」
村人たちは海を見つめた。
「確かに……あそこは海底がなだらかじゃ」
「他の場所は深すぎて、魔獣も上がれんじゃろう」
「なら……」
壮年の男が言った。
「網を“一点集中”で張る。 広く守るんじゃなく、“魔獣が上がる一点”だけを守るんじゃ」
村人たちは頷いた。
「それなら、鉄も少なくて済む」
「網も強くできる」
「破られても、時間は稼げる」
アジムは深く頷いた。
「……やりましょう。 今度は、もっと強い網を作ります」
村人たちの表情に、わずかながら光が戻った。
だが、問題はそれだけではない。
「住まいは……どうするんじゃ」
「直すにしても、また壊されるかもしれん」
「子供らをどう守る……?」
村人たちの不安は尽きない。
アジムは言った。
「……まずは、村を“移動”させましょう。 海から離れた場所に、仮の住まいを作るんです。
魔獣が来ても、すぐには届かない場所に」
村人たちは顔を見合わせた。
「確かに……」
「浜に住むのは危険じゃ。仮の小屋でもええ、命が大事じゃ」
バルじいが頷いた。
「よし。 飲み水のこともあるじゃろ。今日から、村を“川側”へ移すんじゃ。 家は壊れても命が一番じゃ」
その言葉に、村人たちは静かに頷いた。
アジムは海を見つめた。
波は穏やかだ。
だが、その下には──
あの巨大な影が潜んでいる。
「……必ず守ります」
アジムは小さく呟いた。
その声は誰にも届かなかったが、彼自身の胸の奥に深く刻まれた。
村人たちは、壊れた村を背にしながら、ゆっくりと山側へ歩き始めた。




