帝国編 第12話 透ける壁、走る船
オルガ村の朝は、久しぶりに穏やかな雨音から始まった。
強い風もなく、港に浮かぶ船影も静かに揺れている。
湿った空気の中で、村人たちはそれぞれの家の前に集まり、見慣れぬ“壁”を前にざわついていた。
最初にガラスがはめ込まれたのは、港に近い家だった。
木板で塞がれていた窓枠に、薄く透ける板が嵌め込まれている。
向こう側の景色は水面越しのように歪み、輪郭がぼやけてはいるが、確かに“外が見える”。
「……おい、家の中が見えるぞ」
「雨が降ってるのに、濡れてねえ」
村人たちは恐る恐る近づき、ガラス越しに室内を覗き込む。
いつもなら薄暗い家の中に、柔らかな外光が差し込んでいた。
「明るいな……」
「昼でも灯りをつけなくて済むかもしれん」
「風が入ってこない、こりゃいいわ」
否定的な声も上がる。
「外から丸見えじゃねえか」
「割れたらどうする」
「あたしゃ、風が入らないのはなんかいやだねえ」
そんな声に混じって、子供たちが面白がって騒ぎ出した。
「なあ見ろよ! 向こうにいるのに、壁の中だ!」
「魚みたいにゆらゆらしてる!」
一人の子供がガラスに手のひらを押し当てると、内側から別の子供が同じように手を合わせる。
ぺたり、と乾いた音が響いた。
「冷たい!」
「なんだこれ、石なのに水みたいだ!」
「おい、あんまり触るな」
しわがれた声が飛ぶ。
杖をついたバルじいが、眉をひそめて子供たちを睨んでいた。
「割れたら怪我をするぞ。 それに、家の壁は遊び道具じゃない」
「でもバルじい、割れないんだろ?」
「アジム兄ちゃんが石を溶かして作ったって言ってた!」
その言葉に、バルじいは鼻を鳴らす。
「石を溶かすだの、鉄を操るだの…… わしの若い頃なら、間違いなく祟り扱いじゃ」
そう言いつつ、バルじいはガラス越しに室内を眺めた。
薄暗かった家の中に、柔らかな光が満ちている。
「……だが、悪くはないな」
ぽつりと漏れた言葉に、子供たちが一斉に振り向く。
「今なんて言った?」
「バルじい、認めたのか?」
「うるさい。 雨の日でも外が見えるのは……悪くないと言っただけじゃ」
そう言ってから、バルじいは港の方角へ視線を向けた。
「……あやつは、村の“景色”まで変えおった」
その言葉は、感嘆とも、諦観ともつかない響きを帯びていた。
アジムは少し離れた場所から、その光景を眺めていた。
工房の窓にも、同じガラスが嵌め込まれている。
歪んだ視界の向こうに、港と船影が見える。
ガラスの表面に指を当てる。
冷たい感触。
風も雨も遮りながら、視界だけを外へ通す“薄い壁”。
「……壁なのに、向こうが見える」
その感触を確かめるようにしていると、背後から声がかかった。
「落ち着かねぇ壁だな、それ」
振り返ると、ヴィントが腕を組んで立っていた。
「外にいるのに、中にいるみてぇだ」
「いいじゃねぇか、今まではただの穴だったんだし」
アジムは短く答え、再び港を見る。
ガラス越しに見える高速船の輪郭。
波に揺れながら、霧に溶け込む船影。
その瞬間、ヴィントがぽつりと言った。
「なぁ……これ、船に使えねぇのか?」
アジムの視線が、ぴたりと船へ固定された。
風と飛沫。
操縦席。
前方視界。
頭の中で、歯車が噛み合う音がした。
「……使えるかどうかは、作ってみればわかる」
これまで、操縦席は簡易的な板張りで、強風や波飛沫をまともに受けていた。
高速航行時には視界を確保するため、操縦者は顔を布で覆うか、片目を細めて前を見るしかなかった。
「前が見えねぇのが一番怖いんだよな。だがあのクソ速い船に、この割れ物を?」
ヴィントの言葉に、アジムは頷く。
「割れないようにすればいい」
その日の午後、アジムは作業台の上に置かれた別のガラス片を手に取った。
こちらは、少し厚みを増し、焼成温度を上げて試作したものだ。
「強度を上げて、湾曲させて風を流す。 操縦席の前面に嵌め込めば、風と飛沫を防げる」
「……確かに、あの船で目ぇ開けて操縦できりゃ、だいぶ楽になるな」
ヴィントは雨の中の港を見やり、腕を組んだ。
「視界が歪むのが、残念だな」
「前が見えないよりはいい。完全な透明は無理でも、目を細めずに前を見られるだけで十分だ」
数刻後。
簡易的に木枠を組み、湾曲させたガラスをはめ込んだ“風防”が、高速船の操縦席に取り付けられた。
「……お前、仕事が早すぎだろ」
「思いついた時にやらないと、やり忘れてしまうだろ」
試作機は、見た目だけならかなりいびつだった。
木枠と金具で固定されたガラスは、操縦席の前に無理やり取り付けられている。
だが、風を受ける角度は考えられており、正面からの風圧はかなり逃がせそうだった。
「割れたら責任取れよ」
「割れたら改良だ」
ヴィントが操縦席に乗り込み、ゆっくりと船を出す。
雨の中、船体が水面を切り裂くと、これまでなら容赦なく顔を打っていた飛沫が、ガラスの表面を叩いて弾かれていった。
「……おお、顔が風に叩かれねえ」
ヴィントの声が、これまでと違う。
速度を上げると、風がガラスの表面を滑るように流れていく。
水滴は線を描いて後方へと流れ落ち、視界は完全ではないが、航路を把握するには十分だった。
「海が……壁の向こうにあるみてぇだな」
「壁じゃない。ガラスだ」
ガラスの表面には、細かな塩の跡と、水滴の筋が残っている。
「夜は反射して見づらそうだな」
「夜に漁なんていかないだろ。それに塩で白くもなる。完全じゃない」
アジムはそう言いながらも、その表情には僅かな満足が滲んでいた。
“走れる”だけだった船が、“見て操縦できる船”へと一歩進んだ。
さらに速度を上げると、風はガラスにぶつかり、低い唸りを上げる。
飛沫が叩きつけられ、水滴が歪んだ模様を描く。
不満を言えばキリはないが、向こう側の海面と進路は、確かに“見えている”。
アジムも、操縦席の脇から前方を覗いた。
完全に澄んだ視界ではない。
歪みもある。
それでも、“盲目で突っ走る”よりは、はるかにましだ。
「……これで、もう少し速く走れる」
高速船はさらに加速し、白い航跡を引きながら海を切り裂いた。
その様子を港から眺めていた村人たちは、言葉を失っていた。
「……なんだありゃ」
「大丈夫なのか。人が立って船を走らせてるぞ」
子供たちは目を輝かせ、バルじいは腕を組んだまま唸った。
「……変わっていく時代なのかもしれんなあ」
アジムは、ガラス越しに流れていく海を見つめながら、胸の奥に静かな実感を覚えていた。
技術は、戦を呼ぶ。
だが同時に、暮らしの風景も変えていく。
透ける壁は、村に光をもたらした。
走る船は、海の恐怖を一つ減らした。
その積み重ねが、いつか“守るための力”になると信じて。
アジムは、再び前を見据えた。




