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帝国編 第10話── 踏み越えぬ一線

帝国編」第10話── 踏み越えぬ一線


■ 霧雨の決断


オルガ村の朝は、重く湿った霧に包まれていた。


アジムは工房の窓から、港に停泊しているトラベリオンの巨大な商船を見下ろしていた。

昨夜、トラベリオンと交わした言葉が、今も耳の奥で鈍い音を立てている。


「金なんか後でいくらでも稼げる。 だが、独占すれば狙われる」――

その冷徹なまでの生存戦略は、物作りの理屈だけで生きてきたアジムにとって、毒のようでありながら、唯一の救いでもあった。


「アジム、準備はいいの?」

背後から声をかけたのは、旅支度を整えたリーネだった。


彼女の瞳には、昨夜の父の警告による不安と、それでも前を向こうとする意志が同居していた。


「ああ。……これを持って行ってくれ」


アジムは机の上に、数枚の羊皮紙と、厳重に封印された小さな木箱を置いた。

リーネがそれを手に取ろうとした時、アジムはその上から自分の手を重ねた。

静かに、だが抗いようのない重みを持って制した。


「リーネ。これを親父さんに渡す前に、伝えておきたいことがある」

「……ええ、何?」


「これは、ただの知恵じゃない。 俺たちの平穏を切り売りするための『通行手形』だ。……これを渡した瞬間、俺たちの手は、もう真っ白じゃいられなくなる」


リーネは息を呑み、アジムの真剣な眼差しを真正面から受け止めた。

彼女は無言で頷き、アジムの手の下にある羊皮紙を、まるで壊れ物を扱うようにそっと握りしめた。


■未完成のレシピ


港の桟橋では、トラベリオンが部下たちに積み込みの指示を飛ばしていた。

アジムが魔法で鉄を抜き取った後の「白茶けた砂」が、10の樽ほどに詰められ、次々と船倉へ吸い込まれていく。


「ガハハ! 壮観だな、アジム! これが全部『青いコップ』以上の宝に化けると思うと、笑いが止まらんぜ!」


近づいてきたトラベリオンに、アジムは事務的な口調で応えた。

「それとは別に、これを渡しておく」


リーネから手渡された羊皮紙を、トラベリオンは無造作に広げた。

そこには、アジムが港の防波堤を築く際に使用した「石壁(人工石)」の基礎レシピが記されていた。


だが、その内容を読み進めるうちに、トラベリオンの眉がぴくりと動いた。

「……カニの甲羅の代わりに、白っぽい土を混ぜる?  混合率はそっちで試せだと?」


「そうだ。以前あんたから届いた手紙にあったろ。 『土塀に白っぽい土を混ぜると石のように硬くなる』という手法だ。 ……あれは魔獣の殻に頼らない、もっと普遍的な技術になるはずだ。 だが、配合までは見つけちゃいない」


 トラベリオンは羊皮紙から顔を上げ、アジムを値踏みするように見た。

「……ほう。未完成のまま渡すか。 お前さんらしくないな」

「いや、これでいいんだ。 皇国の職人たちに、知恵を絞らせる時間をやる。 そして……」


アジムは言葉を切り、周囲に誰もいないことを確かめてから続けた。

「この技術を完成させたのは『皇国のルーン商会』だと言い張れ。 開発の苦労も、他国からの妬みも、全部皇国が吸い上げる。 ……その代わり、この権利はすべてあんたにやる。 好きに売って、好きに要塞を固めろ」


トラベリオンは低く笑った。

アジムが何を企んでいるか、一瞬で理解したからだ。


「なるほどな。 俺を『盾』にするか。帝国や連盟が『その石壁の秘密を教えろ』と迫ってきた時、お前さんではなく、俺が矢面に立つ。 ……面白い。泥を被るのが商人の仕事だ。 その泥、高く買わせてもらうぜ。 わっはっは。リーネ、お前に派もったいないほどの海の男だ」


■抑止力としての「一種類」


だが、アジムの譲渡はそれだけでは終わらなかった。

彼はもう一枚、カードを切った。

設計図だ。


「もう一つ。 ……『一人用バリスタ』の設計図だ。 従来の者よりも若干反発力を高めてある。 複雑な仕組みだがな。そっちの技術者に見てもらってくれ。 そのため一人でも即応できるはずだ」


トラベリオンはその図面を食い入るように見つめた。

アジムが生み出した「板バネ」の技術。

それはすでに馬車のサスペンションや建築資材として世に出始めている。

他国がこれを武器に応用し始めるのは、もはや時間の問題だ。


「これを皇国で量産しろ。 ……板バネは、もう隠し通せる技術じゃない。 なら、せめて信頼できる奴らが先に、最低限の守りを持っておく必要がある」


トラベリオンは図面を指先でなぞりながら、ふとアジムの机の端に目をやった。

そこには、もう一枚、厳重に紐で縛られた図面の筒が置かれていた。


「……アジム。 そっちの筒もか? 」


アジムの手が、無意識にその筒へ伸びかけた。

中身は、『スライド式テラス型カタパルト』の設計図。


複数の板バネを同期させ、火炎壺や巨大な石を連射し、海上の艦隊を面で制圧するための、純然たる「攻め」の兵器。  一人用バリスタが「盾」ならば、これは「剣」だった。


アジムの指先が、図面の筒の表面に触れる。

これをトラベリオンに渡せば、皇国の海軍力は一気に大陸最強となるだろう。

そうすれば、帝国さえも手出しができなくなり、オルガ村の安全はより確固たるものになるかもしれない。


だが。

アジムの手が一瞬だけ止まる。


その時トラベリオンが告げた。


「いや、もう土産は持ちきれん」


その声は優しい声だった。

そして初めて見る優しい目であった。


アジムは無言で、その筒を机の奥へと押し戻した。

自分の中での葛藤をトラベリオンは察したのだろう。

その声は、間違いを犯した息子に言い聞かせるようなものだった。


「バリスタは『守り』だ。 だが、筒の中身は……すまない。 今は渡せない」

トラベリオンは、アジムのその「踏みとどまり」を黙って見つめていた。


元大海賊としての本能は、その未知の設計図を奪ってでも手に入れろと叫んでいた。

だが一人の男として、彼はアジムの葛藤に敬意を抱いた。


「ガハハ! 欲のない男だ。 そんなお前だからこそ、俺は信じられる。……分かった。 この新型バリスタと石壁、そして『針(羅針盤)』は、俺が責任を持って“物”にしてやる。まかせておけ」


■ 設計された世界の危険度


アジムが行っていることは、もはや単なる「修理」や「発明」ではなかった。

どの技術を誰に、どの程度渡すか。

それによって、各国の軍事バランスを調整し、村に火の粉が及ばないような「世界の危険度」を設計デザインしているのだ。


それはかつて、シルバが「商才」で行おうとしていた支配に似ていた。

だが、決定的な違いがあった。

シルバは「自分のために」世界を歪めようとしたが、アジムは「大切な場所を守るために」世界と折り合いをつけようとしていた。


「アジム……ごめんなさい。 私たちが、あなたにこんな重荷を背負わせて」

リーネが隣で、小さく呟いた。

「重荷じゃないさ、リーネ。……これは、俺が自分で蒔いた種だ」


アジムは、港で汗を流して働く村人たちを見た。

彼らは、自分たちが今積み込んでいる砂や羊皮紙が、将来どれほど凄まじい嵐を呼ぶかを知らない。

ただ、アジムを信じ、村が豊かになることを喜んでいる。

その純粋な笑顔を守るためなら、自分の手が多少汚れることなど、どうということはなかった。


■王国の陰り、帝国の執着


出港の準備が整い、トラベリオンが船の甲板から手を振った。

「アジム! 忘れるなよ、お前が歩いた後には金の山ができる! だが、その山を掘り返す奴らには気をつけろ!」


船はゆっくりと港を離れ、深い霧の中へと消えていった。

それを見送りながら、アジムは深い溜息を吐いた。

今回の取引で、王国のメンツは丸潰れだ。


このことが王国商会に知れれば、ラグスは幹部たちに叱責されるだろう。

「むざむざ独占権を皇国に渡したのか」と。


アジムは、ラグスが王都から戻った際、何らかの「フォロー」が必要だと考えていた。

今だ渡していない「石壁の元のレシピ」――魔ガニの秘密を、そして王国側の防衛力として新型バリスタをどう分配するか。

だが、今の彼にとっての懸念は、もっと別の場所にあった。


アジムは工房に戻り、トラベリオンから譲り受けた「青いコップ」を、窓から差し込むわずかな光に透かした。

美しい、吸い込まれるような青。

だが、その歪んだガラスの向こう側には、まだ見ぬ脅威が潜んでいる。


その頃。

フェルザン帝国の港では、シルバが憔悴した顔で、しかし瞳に狂気を宿して、自室の海図を睨みつけていた。


「……皇国は日に日にアジムに近づいている。石壁、板バネそして次から次に出てくる新技術。……あいつは一体、何を生み出しているのかわかっているのか。なぜその力を祖国のために……」


シルバの足元には、彼を叱責したパトロンたちの通達書が散乱していた。

もはや、彼には正攻法でアジムに勝つ時間は残されていなかった。

「おまえが『一線』を守るというのなら、私がその一線を、根こそぎ奪い取ってあげよう」


シルバは、海図の上の「オルガ村」を、真っ黒なインクで塗りつぶした。

それは単なる嫉妬ではなく、技術という名の神に背かれた男の、最後の反逆だった。


■沈黙の予感


オルガ村の霧が、ようやく晴れ始めた。

アジムは、机の奥にしまった図面の筒を、もう一度だけ確認した。

封印は解かれていない。

だが、その重みだけが、アジムの右手に残っていた。


つかの間の平和を買うための「譲渡」は終わった。

だが、それが本当の平和をもたらすのか、それともより巨大な戦乱への火種となるのか。 アジムは、円環を作った日と同じように、船の舳先に止まり静かに揺れる海鳥を見つめていた。


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