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帝国編 第8話 ── 揺らぎをいなす円環


■静寂の中の確信


オルガ村の夜は早い。

潮騒の音だけが響く静寂の中、アジムの作業場には煌々と明かりが灯っていた。

作業台の上には、小さな木桶。

そこに張られた水面は、鏡のように滑らかだ。

アジムは息を詰め、指先でつまんだ小さな物体を水面に置いた。

それは、ごく軽い木片の中央に、先日「発見」した引鉄の針を突き刺したものだ。


木片は波紋を広げながら、ゆらゆらと水面を漂う。

やがて磁力の見えない糸に引かれるように、くるりと一回転した。


「……止まった」

アジムの呟き。木片の針は、寸分の狂いもなく、これまで糸で吊るして実験してきたのと同じ「北」の方向を指して静止した。


「本当に……何度やっても同じだわ」

背後で覗き込んでいたリーネが、感嘆の吐息を漏らす。

「アジム、これがあれば、星が見えない嵐の夜でも、濃霧に包まれた海域でも、私たちは道を見失わずに済む」


リーネの瞳には、発明への純粋な驚きとともに、商人の娘としての鋭い光が宿っていた。 「ねえ、アジム。父様が次に来た時、これをどう見せましょうか。これはただの道具じゃないわ。海の覇権を握るための『鍵』よ。……ふふ、おねだりしたいことが山ほど出てきちゃったわ。父様の驚く顔が目に浮かぶわね」


リーネはすでに、この小さな針がもたらす莫大な利権と、それによって得られる村の発展、そして商会での自分の立場を計算し始めていた。

その野心に満ちた笑顔は、いつになく艶やかだった。


■洋上の洗礼とヴィントの驚愕


翌朝。アジムは試作機を抱え、ヴィントを伴って自作の双胴船に乗り込んだ。


「おい、アジム。今日は何をするんだ? せっかくの凪だっていうのに、そんな妙な道具を持ち出して」

ヴィントが訝しげに尋ねる。


アジムは無言で、棒の先に細い糸を垂らし、その先に鉄芯を吊り下げただけの装置を船縁ふなべりに設置した。


「ヴィント、この針を見てろ。こいつは常に北を指す」

「はあ? 鉄の棒が北を? 寝言は寝てから言えよ……って、おい、マジか!」


船が港を離れ、ゆっくりと向きを変える。

だが、吊るされた鉄芯は船体の動きに関係なく、まるで目に見えない糸で北に縛り付けられているかのように、一定の方向を指し続けていた。


「これがあれば、陸が見えなくても向きがわかる」

「おい、こりゃあ、すげえぞ……! アジム、これさえあれば、俺たちの漁場ももっと広がるぞ!」

ヴィントが興奮して身を乗り出した、その時だった。


沖に出るにつれ、波が少しずつ高くなり始めた。

双胴船が波頭を越えるたびに、上下左右へと複雑な揺れが加わる。


「あっ、おい! 暴れ出したぞ!」

ヴィントが叫ぶ。


先ほどまで静かに北を指していた鉄芯が、船の揺れに合わせて激しく振り子のように踊り始めた。

一度揺れだすと慣性が働き、もはやどちらが北なのか判別すらつかない。


「予感はあったがな、やはりだめか」


アジムは次に、用意していた板バネを取り出した。

非常に薄く、しなやかな鉄の板。

これを組み合わせて震動を吸収しようと試みる。

しかし、不規則な波の動きはアジムの想像を超えていた。

板バネは揺れを吸収するどころか、波の周期と共振し、かえって鉄芯を狂ったように跳ね上がらせた。


「風も邪魔だな……」


吹き抜ける海風が糸を煽り、鉄芯を横に流してしまう。


「安定しないな。海じゃただのガラクタだな」

アジムは苦々しく吐き捨て、荒れる鉄芯を掴み取った。


■ 鳥の視点、三軸の悟り


翌日アジムは、作業場の入り口にある桟橋に腰を下ろした。

頭の中では、荒れ狂う鉄芯の動きが何度もリプレイされていた。


(どうすればいい。船は動く。波は叩く。風は吹く。あらゆる方向から力が加わる中で、どうやって『一点』だけを不動に保つ……?)


ふと、視界の端で何かが動いた。

港に繋がれた船の舳先へさきに、一羽の白い海鳥が止まっている。

船体はうねりに乗って、ゆったりと、しかし確実に動いていた。


船首が持ち上がる「縦の揺れ」。

船体が左右に傾く「横の揺れ」。

そして、波に押されて船首が振れる「前後の揺れ」。


三つの方向からの複雑な運動。

それを受けて船体は激しく揺れているというのに、その先に止まっている鳥の「頭」だけは、まるで空間に釘付けにされたかのように、一点から動かない。

首の関節が滑らかに動き、胴体の激しい揺れを完全に相殺しているのだ。


「……三方向か」

アジムの呟きとともに、周囲の空気が熱を帯びた。


思考よりも先に体が動く。

作業場の床に転がっていた芋虫鉄が、アジムの意志に応えて赤黒くうごめき始めた。


「縦、横、前後……。それぞれの揺れを、別々の場所で逃がしてやればいい」


芋虫鉄は細い棒状になり、空中で組み合わされていく。

まず、最も大きな四角い枠。

その内側に、一回り小さな四角い枠を、軸を90度ずらして配置する。

さらにその内側に、三つ目の小さな枠を、また別の角度の軸で繋ぐ。


入れ子構造になった三つの枠。

アジムはそれぞれの接合部に、摩擦を極限まで抑えた「滑り軸」を芋虫鉄で形成した。

そして、最も内側の枠の中心に、一本の鉄の棒を通し、そこから例の「引鉄の針」を少し大きくして糸で吊るした。


「……やってみるか」


アジムは一番外側の大きな枠を両手で掴み、わざと激しく揺らしてみた。

外枠が大きく傾く。

だが、二番目の枠がその動きをいなし、三番目の枠がさらに微調整を加える。

驚くべきことに、中の鉄芯は、外側がゆらされても常に重力に従って真下を向き、そして静かに北の方向を指し続けていた。


「できた……か?」

アジムが安堵の息を漏らした、その瞬間だった。


枠をさらに大きく、斜めに傾けたとき、内側の枠の動きが一瞬止まった。


「あ……」


動きのリズムが狂い、鉄芯がガクンと跳ねた。


「……駄目だ。これじゃあ、急な波が来た時に動きが止まっちまう」


アジムは何度も角度を変え、軸の位置を調整したが、四角い枠である以上、どうしても可動域の限界で角がぶつかってしまう。


「……これでは滑らかに動かないな」

アジムは道具を置き、落胆の色を隠せなかった。


■円環の理 ── ジンバルの完成


「アジム、まだやってるの?」

リーネが夜食を持って現れた時には、作業場の床は「四角い枠」の失敗作で埋め尽くされていた。


「どうも動きがな。……スムーズに動いてくれればいいんだが」


アジムは無造作に、四角い枠の一つを握りつぶした。

歪んだ鉄の塊を見つめているうちに、アジムの脳裏に「水車」の記憶が蘇る。


(水車はなぜ回り続ける? 角がないからだ。円だからこそ、どこまでも滑らかに……)


「そうか。枠そのものを、円にすればいいんだ」


アジムは再び立ち上がった。

今度は、芋虫鉄を完璧な「円環」へと成形していく。


大・中・小、三つの美しい鉄の輪。

それらを、互いに干渉しない角度で、精密な軸受けによって連結していく。

四角い枠の時にはあった「限界点」が、円にすることで消滅した。

どこまで傾けても円環は回り、中の空間を水平に保とうとする。


「これだ……!」


完成した「水平保持装置」。

アジムはそれを抱え、翌日、再びヴィントと共に海へ出た。


「おいおい、また別の道具か? 今度は随分と……なんていうか、不思議な形だな」


ヴィントが感心したように箱に入った円環を見つめる。

船が波に乗り、左右に大きくローリングする。

だがアジムが持つ円環は、船体の傾きとは無関係に、中の鉄芯を常に水平に保っていた。

波に流され船が傾く。

それでも、円環は衝撃をいなし、北を指す針を不動に守り抜く。


「……動く。動くぞ、ヴィント!」


アジムは頷きながらも、円環の中心で揺れ続ける針から 目を離せなかった。

これが示す“北”が、どこへ続くのかを、彼自身がまだ知らなかったからだ。


「すげえ! ぴったり北を向いたままじゃねえか!」

ヴィントが歓声を上げる。

アジムもまた、理論を制した者だけが味わえる高揚感に包まれていた。


もちろん、完璧ではない。あまりに急激な衝撃や、複雑な回転が加わると、軸が追いつかずにわずかにブレる。


「……まだ、十分じゃないな。追従が遅れる場面がある」

「いやいや、アジム。これだけで十分すぎるだろ! 波が少し落ち着いてる時なら、これさえあれば絶対に迷わねえ。船乗りが一生かかって身につける勘を、お前はこの鉄の輪っか一つで作り出しちまったんだぞ!」

ヴィントの励ましに、アジムは「そうだな」と無愛想に返したが、その口元はわずかに緩んでいた。


■青き光の来訪者


数日後。オルガ村の港に、見覚えのある巨大な帆船が入港した。

ルーン商会の旗を翻し、威風堂々と接岸するその船から、これまた見覚えのある巨漢が降りてくる。


「ガハハハ! アジム、リーネ! 息災だったか!」

トラベリオン・ド・ルーン。

リーネの父であり、商会の主。

元海賊の豪快な笑い声が、港全体に響き渡る。


「お父様! お待ちしておりましたわ」


リーネが駆け寄る。

トラベリオンは娘を軽く抱き上げると、すぐにトラベリオンは従者に命じ、重厚な木箱を持ってこさせた。


「いつもお前に驚かされてばかりだからな。お前にはこれを持ってきてやった」

従者が箱を差し出し、蓋を開けた。


箱の中から現れたのは、数個のコップだった。

しかし、ただのコップではない。


それは光の当たり方によって淡く、神秘的な青い輝きを放っていた。


「これは連邦の奥地、極寒の地でしか採れない特殊な稀少鉱石を混ぜて焼いたガラスだ。王都の貴族でも滅多に拝めねえ代物だぞ。お前の打つ鉄のように、不思議な光を放つだろう?」


ガラスはローザンヌ皇国の特産でもある。

ただこの世界のガラスは皆色ガラスだ。


アジムは、差し出された青いコップを手に取った。

透き通るような青。

それは、彼がこれから挑もうとしている、深く、恐ろしく、しかし美しい「海」の色そのものに見えた。


「……ありがたくいただくよ。だが、俺からも『土産』は、用意している」


アジムの言葉に、トラベリオンが片眉を上げた。

「ほう? もちろんこのコップに釣り合うんだろうな。見せてもらおうじゃねえか、その『土産』ってやつを」


アジムは双胴船を指さし、リーネは微笑む。

この瞬間、オルガ村の小さな港から、海の常識を書き換えるための第一歩が、力強く踏み出されたのである。


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