帝国編 第2話 ── 灰色の訪問者
フェルザン帝国商船『灰鴉号』の船長ネイサンは、舵を握る手にじっとりと脂汗をかいていた。
前方の視界を塞ぐのは、海面からそそり立つ巨大な白い壁だ。
海図にはない、報告書にもない。
ただ「王国の辺境に異質な港ができた」という曖昧な情報だけを頼りにここまで来たが、現実は想像を絶していた。
(……継ぎ目がないだと? まるで一つの巨大な岩を削り出したようじゃないか)
海面からは防波堤の堅牢な上部しか見えず、その陰に何が潜んでいるかは測りきれない。
だが、ここで引き返せば、帝国の「観測者」としての役目は果たせない。
「……入るぞ。小型艇を下せ」
灰鴉号を外海に留め、ネイサンは数人の部下と共に小型艇で港の内側へと滑り込んだ。
そして、防波堤を回り込んだ瞬間。
彼は危うく、手に持った入港書類を海に落としかけた。
「……っ! ローザンヌの、ルーン商会……!」
そこにいたのは、ハリネズミのように強弓や重バリスタを突き出した、皇国の重武装戦闘艦だった。 船体には、無数の「射出し窓」が並んでいる。
あそこから放たれる大型の矢や石弾が、一度に数十、数百と降り注ぐ様を想像し、ネイサンは喉を鳴らした。
「止まれ、フェルザンの鼠ども」
波止場に降り立った彼らを迎えたのは、岩のような体躯の男──トラベリオンの副官、バッシュだった。
その背後には、あの「大海賊」トラベリオンが、獲物を定める猛獣のような眼光でこちらを睨みつけている。
「……入港の許可を願いたい。我々は帝国のブレイン商会だ」
ネイサンは声を震わせながらも、偽装された通商書類を差し出した。
「真水と食料、それに若干の資材補給が必要だ。皇国の『レイモンド商会』へ工芸品を運ぶ正規の旅の途中だ。疑うなら、受取人の署名を確認してくれ」
バッシュは無言で書類をひったくり、トラベリオンへと投げ渡した。
トラベリオンは書類を一瞥し、鼻で笑った。
「ふん……レイモンドか。あそこの守銭奴なら、帝国産の安物でも喜んで並べるだろうな。バッシュ、通してやれ。正規の取引を邪魔して、リーネに小言を言われるのは御免だ」
「……下がれ。だが、騒ぎを起こせばその船ごと海の底だ」
バッシュが道を開けると、ネイサンたちはようやく息を吐いた。 だが、彼らの仕事はここからだった。
「補給はあっちだ。トラベリオンさんの船から離れた場所を使え」
指示を出したのは、一人の若い男だった。 アジムだ。
彼はネイサンたちを、工事の足場が残る港の北側へと案内した。
作業が始まると、帝国商人たちの目は釘付けになった。
「……おい、あれを見ろ」 「人間が動かしているのか……?」
アジムが操る「鉄の爪」が、音もなく空を舞い、重い木箱を軽々と吊り上げている。
ネイサンはさりげなくアジムに近づき、世間話を装って問いかけた。
「見事な技術だ。この港の『白い壁』も、その鋼の腕も……王国の王都にすら、これほどのものはないだろう?」
「さあな。村にあるもので工夫しただけだ」
アジムは作業の手を止めず、淡々と答える。 ヴィントたちも同様だ。
自分たちが何を作っているか、それがどれほどの価値があるかなど興味がないという風を装い、当たり障りのない返答に徹している。
「この壁は……石を磨いたのか? それとも特殊な塗料か?」
「ただの石壁だ。貝殻や砂を混ぜて固めただけさ」
アジムは隠そうともしなかった。 いずれ広まることだ。
ここで口を噤めば、彼らはより深く「盗み」に来る。
ならば、誰でも手に入る材料でできていると見せつける方が、まだ牽制になる。
数時間の補給作業が終わり、ネイサンは代金の金貨をアジムの手のひらに乗せた。
「……感謝する。おかげで無事に旅ができそうだ。……また、立ち寄ってもいいか?」
アジムは金貨の感触を確かめ、視線を上げた。
「気持ちよく使ってもらえるなら、客は拒まない。……次は、もっとまともな商売を持ってきてくれ」
ネイサンは一瞬だけ表情を強張らせたが、すぐに愛想笑いを浮かべて小型艇に戻っていった。
灰色の商船が港を離れていくのを、管理棟のテラスからリーネが見守っていた。
トラベリオンが彼女の隣に立ち、忌々しげに吐き捨てる。
「お嬢様、あんな鼠ども、ここで沈めておけばよかったのです」
「お父様、お客様に対して失礼ですわ。彼らが支払った金で、村の冬の備蓄が増えるのですから」
リーネの言葉に、トラベリオンは「うっ……」と絶句し、肩を落とす。
だが、彼はアジムの横を通り過ぎる際、その耳元で低い、地を這うような声を残した。
「……アジム。いいか、厄介な波を連れてくるのは帝国だけではないぞ。お前を『管理対象』と呼んで見捨てた連中が、この白い壁を見て、いつまでも黙っていると思うなよ」
視線の先には、村の長老バルじいたちが、新しく届いた資材を検分している姿があった。 王国、帝国、そして皇国。
三つの大国の思惑が、この小さな、しかし眩いほどに白い港へと集約しつつあった。
アジムは自らの右手を握りしめる。
半年前の「自衛」では足りない。
守るためには、もはや「作る」だけでは済まされないことを、彼は静かに悟り始めていた。




