第7話 ──怖いけれど腹はすく
夜明け前の浜は、まだ薄暗かった。
空の端がわずかに白み始めた頃、村人たちはすでに集まっていた。
昨日のうちに作った鉄線の網を、今日は実際に海辺へ設置する。
潮の匂いが強く、風は冷たい。
誰もが眠そうな顔をしているが、その目は冴えていた。
「……ここじゃな。魔獣が来るとしたら」
バルじいが、海へ向かって顎をしゃくった。
長年の経験から、魔獣が上がってくる可能性の高い場所を選んだのだ。
潮の流れ、海底の傾斜、波の癖──
そういったものを総合して判断した結果だった。
アジムは頷き、芋虫を呼び出す。
米粒ほどの芋虫たちが砂の上に現れ、アジムが指さした方向へと素直に動き出す。
「この石に巻きつけて固定してください」
「おう、任せとけ」
芋虫たちは鉄線の端を石に巻きつけ、村人たちはそれをさらに縄で補強する。
鉄線は細いが、触るとしっかりとした硬さがある。
網全体は重く、二人がかりで持ち上げる必要があった。
「こんなもんでええかのう」
「もう少し張りを強くせんと、波で緩むぞ」
村人たちは真剣そのものだ。
魔獣が来るかどうかは分からない。
だが、来たときに備えなければならない。
その緊張感が、浜全体に漂っていた。
アジムは二枚目の網を指さし、芋虫に指示を出す。
芋虫たちは鉄線を引きずりながら、砂の上をまっすぐ進んでいく。
「……便利なもんじゃな」
「いや、便利すぎて怖いくらいじゃ」
村人たちは感心しながらも、どこか距離を置いたような声で話す。
アジムの力はありがたいが、“理解できないもの”としての畏れもあるのだ。
アジムは気にしない。
むしろその距離感のほうが自然だと思っている。
三枚目、四枚目と網が張られていく。
海に向かって扇状に広がるように設置することで、魔獣が突っ込んできたとき、どれか一枚には必ず引っかかるように工夫されている。
作業は順調だったが、村人たちの表情はどこか硬い。
「……本当に、これで止まるんじゃろうか」
「止まらんでもええ。絡まれば十分じゃ」
「絡まってくれれば、逃げる時間はできる……か」
言葉の端々に、不安が滲む。
アジムは海を見つめた。
昨夜見た巨大な影──
あれは、ただの“海の生き物”ではなかった。
甲殻は岩のように硬く、脚は異様に多く、動きは信じられないほど速かった。
「……来ないといいんですけどね」
アジムが呟くと、バルじいが苦笑した。
「来んで済むなら、それが一番じゃ。 じゃが、来る前提で動かんと、村は守れん」
その言葉に、アジムは深く頷いた。
五枚目の網が張られ、
ようやく作業は終わった。
太陽はすでに高く、潮の匂いが強くなっている。
「よし、これでええじゃろ」
「後は……来んことを祈るだけじゃな」
村人たちは道具を片付けながら、どこか落ち着かない様子で海を見ていた。
昼前、漁に出る準備が始まった。
魔獣が出るかもしれないというのに、村人たちは海へ出る。
理由は単純だ。
食べ物が必要だからだ。
「今日の分を獲らんと、明日の飯がない」
「魔獣が怖いのは分かるが、腹は待ってくれん」
ただし、村人たちは馬鹿ではない。
沖へ出るような真似はしない。
「今日は浅瀬だけじゃ」
「網の内側でやるぞ。すぐ戻れる距離でな」
「見張りも置いとけ」
三艘の舟が、網の手前──
浜に近い浅瀬へとゆっくり漕ぎ出した。
アジムは浜に残り、網の状態を確認しながら見守る。
風は穏やかで、波も静かだ。
魔獣が出る気配はない。
村人たちの舟は浅瀬で網を投げ、慎重に漁を始めた。
アジムは胸の奥に小さな不安を抱えながら、
海を見つめ続けた。
「……今日は大丈夫そうだな」
見張り役の男が言った。
「昨日の影は、気のせいだったんじゃろうか」
アジムは答えなかった。
気のせいであってほしい。
だが、あの巨大な影を“見間違い”と片付けるには、あまりにもはっきりしていた。
舟の上では、村人たちが声を掛け合っている。
「そっちはどうじゃ」
「小魚ばっかりじゃな」
「まあ、今日は浅瀬だけじゃしな」
のどかなやり取りだが、その声には緊張が混じっていた。
アジムは海を見つめ続けた。
波の動き、風の向き、光の反射──
どれも普段と変わらない。
──そのときだった。
「アジム! 見ろ!」
バルじいが叫んだ。
アジムは顔を上げ、沖を見た。
遠くの海面が、不自然に盛り上がっている。
波ではない。
風でもない。
“何か”が、水面の下を高速で移動している。
アジムの背筋が凍った。
「……来た」
盛り上がりは一直線に、浅瀬で漁をしている舟のほうへ向かっている。
「おい! 戻れ! 戻れぇ!」
浜から叫んでも、届く距離ではない。
舟の上の村人たちも異変に気づいたのか、慌てて櫂を動かし始めた。
舟は浜へ向かって必死に戻ろうとする。
だが──
海面の盛り上がりは、そのすぐ後ろまで迫っていた。




