第69話――最終契約:怪物と毒杯の分配
これでこの物語は一旦終わりです。長編完読感謝します。
■王城、沈黙の回廊
王城の「審議の間」は、奇妙な静寂に包まれていた。
外の喧騒は遮断されているはずだったが、厚い石壁を抜けて、王都の空気が重く澱んでいるのが肌で感じられる。
門前に「海の化身」が鎮座したという報は、すでに城内の官僚たちの末端まで行き渡り、彼らの指先から温度を奪っていた。
円卓を囲むのは三人。
ルーン商会代表、リーネ・ルーン。
王国技術顧問、年配の官僚。
そして、所在なげに椅子に深く腰掛けたアジム。
リーネは、机の上に数枚の羊皮紙を広げた。
それは、先ほどまで議論されていた「管理対象としての登録証」ではない。
彼女が昨晩、宿で自ら書き上げた「共同事業契約書」の草案だった。
「さて、本題に入りましょう」
リーネの声は、驚くほど澄んでいた。門外に父の軍勢がいることなど、露ほども感じさせないプロのトーンだ。
「技術者アジム氏の処遇。王国側は『管理と監督』を。
私共ルーン商会は『技術の保全と流通』を求めています。
この二つを両立させる唯一の解を提示します」
■「ブラックボックス」の価格設定
王国の官僚は、苦々しい表情で書類に目を落とした。
「リーネ殿。外の『騒ぎ』は承知している。だが、武力を背景にした契約は、後日に無効を主張されるリスクがあることを忘れないでいただきたい」
「武力? 何のことでしょう」
リーネは小首を傾げた。
「門前にいるのは、私の父が私を心配して迎えに来た、ただの『過保護な私設船団』です。彼らは一歩も城内に踏み込んでいない。これは純粋に、民間商会と王国の間の、極めて建設的な商談ですわ」
官僚は奥歯を噛み締めた。
その「建前」を認めなければ、王国は「武装集団に王都の喉元を掴まれた」という恥辱を公式に認めることになる。
彼に残された道は、リーネの用意した土俵に乗ることだけだった。
「……提案を聞こう」
「アジム氏の技術は、先日の試験で判明した通り『言語化不能・再現不能』のブラックボックスです。王国が無理に彼を囲い込み、技術を抽出しようとすれば、彼は壊れる。そうなれば、王国が得るのは『ただの無気力な鍛冶屋』の食い扶持を一生世話し続けるという負債だけです」
リーネは指を一本立てた。
「そこで、アジム氏を『王立公認・独立技術顧問』に任命していただきます。籍はオルガ村のまま。居住の自由を保障し、王国の強制徴用は一切禁じる」
「それでは管理にならん!」 技術顧問が声を荒らげる。 「彼が他国へ流出すれば、この技術的優位性が失われるのだぞ!」
「ですから」 リーネは冷徹に言い放った。 「ルーン商会が、彼の『独占エージェント』を引き受けます。彼の作るすべての成果物、すべての知見は、まず王国に優先供給される。ただし、その対価として、王国はルーン商会に対し『港湾使用税の30%免除』および『王立工廠への材料発注権』を譲渡していただきます」
■「毒杯」の押し付け
官僚の顔が引き攣った。
これは契約ではない。寄生だ。
アジムという「生きた資源」を王国が抱え込み、その維持費と安全保障の責任だけを王国が負う。
一方で、そこから生まれる利益の大部分を商会が吸い上げる構造。
「馬鹿な……。それでは王国は、彼の護衛と生活を保障するだけのパトロンではないか」
「いいえ。王国は『安心』を買うのです」 リーネは身を乗り出した。 「彼が他国へ行かないという安心。そして、彼が作った設備が故障した際、唯一修理できる人間を国内に繋ぎ止めているという安心。アジム氏の技術は『劇薬』です。正しく扱わなければ、王国の既存の産業構造を破壊しかねない。その毒を、私たちが商売というフィルターを通して薄めて差し上げると言っているのです」
沈黙が流れた。
アジムは、横で二人のやり取りを、まるで他人事のように眺めていた。
彼は自分が「劇薬」と呼ばれても、腹を立てる様子すらない。
ただ、窓の外の空を眺めている。
「アジムさん。異存はありませんわね?」
「……ああ」
アジムは短く答えた。
「俺は、叩きたい時に鉄を叩ければいい。城の中に閉じ込められて、わけのわからん数字を数えさせられるのは御免だ」
この一言が、決定打だった。
官僚たちは悟った。この男を無理に拘束しても、何も生まれない。
むしろ、下手に刺激すれば、門外の「海の化身」が文字通りの怪獣となって暴れ出す。
「……条件がある」
官僚が声を絞り出した。
「彼の成果物のうち、軍事転用可能なものについては、王国の許可なく輸出することを禁じる。また、年に一度、王立工廠での技術実演を義務付ける」
「実演は構いません。ただし、彼が『気分が乗れば』という条件付きで」
リーネは、勝利を確信した笑みを浮かべた。
■チェックメイトの瞬間
数時間後。
羊皮紙には、王国の公式な印章と、リーネ・ルーンの署名、そしてアジムの無造作なサインが記された。
王国は、アジムという「栄誉」を手に入れた。
ルーン商会は、王国のインフラに深く食い込む「利権」を手に入れた。
そしてアジムは、「管理されているという建前」の下にある、絶対的な「自由」を手に入れた。
契約を終え、審議の間を出る際、リーネは官僚に向き直った。
「閣下。一つだけ忠告を。アジム氏に『理由』を求めないでください。彼は、世界がどう動くかを知っているのではなく、鉄がどうなりたいかを感じているだけなのです。それを理解しようとする努力こそが、最もコストの高い無駄遣いになりますわよ」
官僚は何も答えず、ただ震える手で書類を抱えた。
■ 門前の再会
王城の重い扉が開く。
夕日に照らされた石畳の先には、王都の騎士団と向かい合う武装隊商(?)が静止したまま控えていた。 そしてその最前線、馬を下りて腕を組んでいる一人の大男。
トラベリオン・ルーン。
リーネは、左右に分かれる王都騎士団の横を通り過ぎ、ドレスの裾を翻し、一歩ずつ父の方へ歩み寄った。
アジムはその三歩後ろを、欠伸を噛み殺しながら付いていく。
「お父様」
リーネは、完璧な淑女の礼を見せた。
「お迎え、ありがとうございます。商談は無事に、最高の条件で成立いたしましたわ」
トラベリオンは、娘の顔をじっと見つめた。
そこには、かつての幼い少女の面影はない。
自分と同じ、いや、自分以上に冷徹に「世界を値踏みする」商人の目があった。
「……高くついたぞ、リーネ」
トラベリオンの声は、かすかに震えていた。
怒りか、それとも誇りか。
「ええ。その代金は、これから百年かけて王国に払わせます」
リーネは笑った。
その背後で、アジムがふと空を見上げた。
トラベリオンの射貫くような視線を受けながら、ふと漏らすアジムであった。
「……風が変わったな。港に戻ったら、新しい鞴の調整をしなきゃならん」
アジムの呟きは、誰に聞かせるものでもなかった。
王都を揺るがした激動の数日間。
国家が、軍隊が、商会が、一人の男を巡って踊り狂った狂騒曲は、このあまりにも日常的な一言で幕を閉じた。
ラグスが遠くで、城壁に背を預けながら煙草に火をつけた。
紫煙が夕闇に溶けていく。
「全く……とんだ『稼ぎ』だよ、お嬢さん」
王国の黄昏。
それは、新しい技術と、それを御しきれない旧い制度が共存し始める、歪な時代の夜明けでもあった。
なお、後日談は5つほど続きます。




